• TOP >
  • 70年史こぼれ話
70年史こぼれ話 この鐘とともに 鐘 学院資料室からのお願い

70年史こぼれ話

 

IT化と日本語 2009年5月29日

 2006年(平成18年)11月にスタートした「70年史こぼれ話」のコーナーは、年史編集の余話としてその時々の話題を書きついできて2年半近く、この回で28話になりました。年史編集の方も皆様方のご協力で順調に推移し、そろそろ終盤の仕上げに差し掛かろうとしています。「こぼれ話」もこれで終了にし、今回は余話の余話、番外編です。
 10年ほど前は、ちょうど「60年史」の編集がたけなわでした。世紀の変わり目の年を挟んだ数年間にあたり、変化の激しい時代でしたが、何よりも情報技術の革命的な進化の波が押し寄せつつあった時でもありました。「60年史」の上ではその予兆のようなものがわずかに感じられる程度でしたが、「70年史」ではIT化の影響が日本語表記法の変化として文章上に大きく顕在化してきたのです。今「IT化の影響」と書きましたが、ITやWeb、Excelなど情報技術用語を中心に、ローマ字表記の語句が「漢字、仮名交じり文」の中に急増してきたのです。
 前回と、今回の「70年史」とでは編集手法も変わっています。前回では原稿用紙の手書きかワープロでの紙原稿が中心で、わずかにフロッピーによる原稿が交じる程度でしたが、今回は各担当者にウェブ上に直接原稿を打ち込んでいただくという手法をとりました。この手法はとても便利で、効率的な優れ物ですが、一方で、そうしたことの影響もあって、ローマ字表記の単語だけでなく短い英文のセンテンスが交じる場合も出てきました。おまけに、句読点などの記号にも、伝統的な日本語表記にはなかったコロン(:)やカンマ(,)、ダブルコーテーション(“)、中点(・)など、欧文の記号がしきりに使われます。パソコンのワード上では抵抗なく記述できるからなのですが、これが縦書きの組版になりますと日本語の文章としてとても読みづらいものになってしまいます。ローマ字表記語だけではなく、最近では新聞なども二桁、場合によっては三桁の数字まで一つの「字」扱いで縦書きの文章に縦印字で表記するようになっていますので、ちょっとした「漢字、かな、ローマ字andアラビア数字交じり文」になってしまうのです。
 ちなみに、本学独自のローマ字用語だけを数えてみました(ギリシャ文字もありますが)。MUSES、Pygma、AOI、MWU-net、Cheese、M.I.C.、μCam、Mmoa、MFWIなどなど20個ほどにも上りました。「60年史」ではMIET、MFWIなどわずか2、3個にすぎなかったので、ほぼ十倍に増えていることになります。その他一般的に用いられているIT用語はインターネット絡みでこれに数倍する数になります。その上、GPA、CAP、FD、PNAS、in vitro、RA、JSTなどといった大学独特の用語も頻出してきますので、一般読者にも分かるような表記に書き換えたり、注釈を付けたりする必要が生じてきたのです。そのような訳で、「70年史」では、言語文化研究所の佐竹先生の助言もいただきながら、一応、『日本語表記にローマ字表記を入れる場合には、その表記形式が一般的かどうかで決める。非一般的でも入れるときは、入れる必然性と理由が認められること、とする。そして、縦書き表記をする際は、ローマ字も縦印字できるものに限り、横印字してでも入れるのは、その必然性がある場合に限る』という原則を立てて

  (1)外来語は「外国語」としてではなく、外来語としてカタカナで表記する(例:モデル、アナウンサー、インターホンなど)
  (2)アルファベットをそのままの音で読む表記はローマ字で書く(例:MFWI <エム・エフ・ダブリュー・アイ>)
  (3)「外国語」として書くとき、または原語のつづりを示す必要があるときはそのまま横書きとする。(例:Mukogawa Fort Wright Institute)

 という方針で対応することにしました。これで日本語の文章として一応の統一感を出すようにはしたのですが、これで万全と言い切れない部分が残るのも事実です。
 何十年か後、次の年史が編さんされる時、社会のグローバル化の流れはさらにいっそう進むことになるでしょうから、学院史を横組みで編集するかどうかが真剣に検討されるかもしれません。ともあれ、現実としては日本語の「書き言葉」の、1200年の伝統を持つ表記法が大きな曲がり角に差し掛かっているのは事実でしょう。今、話題の「日本語が亡びるとき」の著者、水村美苗氏ならずともいささか心配なところです。

思い出の調理教室 2009年4月14日

思い出の調理教室1
思い出の調理教室2

 “学生時代に台所の動線について講義を受けた時に、明治時代の台所の典型として『吾輩は猫である』の苦沙彌先生のお宅の台所が例にあがった。「あなたがた、この有名な小説、読んで知っていますね」と先生が念を押すように誰へともなく言う”
 俳人の宇多喜代子さんのエッセーの一節です。“たとえ読んでいたとしても、このような細部を覚えているわけがなく、だれ一人この描写を知っているものはいなかった。”と文章は続くのですが、何々さんいかがですか、と指名されはしないかと上目遣いに首をすくめる学生たちの姿が目に浮かぶ教室風景です。
 ところで、宇多さんは現代俳句協会会長をされており、読売俳壇の選者のお一人でもある大家ですが、1955年(昭和30年)ごろ、本学家政科に在籍されていた大先輩でもあります。学院の資料室には未整理の、撮影日時不明、キャプションなしといった写真がおびただしくあるのですが、ありふれた教室風景としてさほど注意を払っていなかった写真たちの中に、まさに宇多さんたちが冷や汗をかきながら調理実習を受けた教室も混じっていたのです。それらの教室は、どうやら1940年代(昭和20年代)の後半に新築されたばかりの大学自慢の施設であったようなのです。
 ほこりにまみれ、茶色に変色した古いポスター類やパンフレットの中から、一冊の『毎日グラフ』が出てきました。1955年2月9日号とあります。何気なくめくっていると、大学めぐりシリーズのような企画記事のページがあって、本学が取り上げられているのです。そして、掲載写真の一つに調理実習中の教室風景が選ばれており、「調理室には各種のモデル台所があり、どんなところへお嫁に行ってもすぐ役立つ実習も行われ、全国の学校を回って研究し、作った学院自慢の実習室」との説明が付けられていたのです。
 撮影日時不明、キャプションなしのありふれた教室風景として片付けられそうだったこの写真、実はグラフ雑誌の企画記事用に撮影されたものだということが分かりました。
 不自由な戦後の建築資材不足の中、精いっぱいの努力で建設された当時最新の教室。確かに見覚えがあると宇多さんはおっしゃっていました。写真にあるように、教室の前の中庭が学生たちに人気の憩いの場で、よく芝生に座ってお弁当をいただいたということです。
 この教室棟は大学発展の過程で1987年(昭和62年)に建て替えられ、跡地には学生たちの厚生施設「クリステリア」が建っており、残念ながら今は残っていませんが、先輩たちの記憶の中では、講義の思い出と共に生き続けているのでしょう。

浜甲子園キャンパスの今昔 2009年2月24日

浜甲子園キャンパスの今昔(写真T)
写真T
浜甲子園キャンパスの今昔(写真U)
写真U

 現在、薬学部や附属中学・高校が位置する浜甲子園キャンパスは昭和の初期、アーバンリゾートの名だたる施設が集積する地域として有名でした。阪神パーク、鳴尾ゴルフ場、阪神競馬場、いずれも当時先進的なリゾート施設として名門の名をほしいままにしていました。しかし、戦乱の時代が近づくとともに平和なリゾート地も数奇な運命をたどることになります。今回は、波乱に満ちた浜甲子園の歴史をたどってみる事にしましょう。歴史を語ってくれるドラマの主人公は、再び昔の優雅な姿によみがえった附属中学・高校の「芸術館」です。
 本学は、1945年(昭和20年)6月15日の阪神大空襲で大きな被害を受けます。年史編集室ではほとんど灰燼(かいじん)に帰してしまったという本学の周辺、鳴尾の状況がどうであったのか、映像による記録がないか手を尽くして探していたのですが、なかなか見つかりませんでした。ところがふとしたきっかけで、甲子園球場を中心に、焼け野原になった浜甲子園一帯の写真があることを知りました(インターネット航空雑誌ヒコーキ雲)。終戦からわずか半月後にアメリカ空軍機が写した生々しい記録です。それが写真Tです。甲子園球場は自慢の銀傘(ぎんさん)<内野席に付いている雨よけ・日よけの覆い>も失われており、周囲の松原は焼けた立ち木が黒くまばらに立っています。残念ながら本学は画面からわずかに外れていますが、画面中央のやや上よりに大きく太い十字形の滑走路が走っていて、その中心の左側に「黒い建物」が写っているのが分かります。それが今回の主人公なのです。
 太平洋戦争のさなか、鳴尾競馬場や阪神パークの跡地は海軍基地として接収されました。そして、そこに軍の飛行場が建設されたのです。「黒い建物」はかつて競馬場の本館部分だったのですが、海軍は飛行場の管制塔として転用していました。白く優雅だった建物は黒く迷彩が施されています。左上部分に、名機「紫電改(しでんかい)」などを製作していた川西航空機が隣接していましたが、これも爆撃で破壊され無残にも鉄骨が見えるばかりです。
 そして敗戦後、今度は一転してアメリカ軍のキャンプ基地になり、この建物も基地の一部として利用されます。日本が独立する1952年(昭和27年)までアメリカ軍が使用した後、1960年(昭和35年)に本学が払い下げを受けるまで、再び荒れ果て、廃虚のような姿をさらすことになります(写真U)。1962年(昭和37年)、薬学部が新設され、現薬学部キャンパスが建築されるまでの間、薬学館として使用されました。この建物もようやく平和な居場所を見つけることができたわけです。そして、現薬学部キャンパスは、縦方向の滑走路の手前部分のあたりに建設されたのでした。
 1963年(昭和38年)、附属中学・高校が本部キャンパスからこの地に移転してからは、北特別教室として使われていたのですが、昭和モダニズムの代表的な建築物だった昔日の面影を取り戻そうという学院の方針で、先年、建築学科の岡崎甚幸教授の監修による忠実な復元改修が行われたのです(写真V・W)。名前も「芸術館」と改めました。
 *写真T・杉山弘一さん提供(栃木)

浜甲子園キャンパスの今昔(写真V)
写真V
浜甲子園キャンパスの今昔(写真W)
写真W

街の記憶―帰り道は遠かった 2009年1月26日

 初期のころの卒業生に話を伺っていて、時々話の内容が食い違うことがあります。学校周辺の道筋や、街の目ぼしい建物の位置関係のことについてです。
 以前、70年史の取材のために卒業生に集まっていただき座談会を開きました。彼女たちが口々に言うには、昔と今ではキャンパス周辺がまるで別の街のように変わってしまった。昔は、夕方の帰り道がなぜか遠かったように思う。両側が畑だったり、ところどころに竹やぶもあったりしてちょっと寂しい通り道だった。暗くなると少し怖いような細道だったけど、友達と一緒だと怖いとは思わなかった。イチゴ畑のはずれに古くからのうどん屋さんがあって、「スル天うどん」が人気だった。あれはどの辺りだったのだろう、戦災にも遭ったし、後に広い国道43号や阪神高速が通ったから立ち退きになったのかもしれない。そんな話を聞きながら、先輩たちの言っている通学路と、話を聞いてわれわれが頭に描く道との間に、どこかずれがあるような違和感がぬぐいきれなかったのでした。
 「スル天うどん」とは、戦中戦後の物のない時代、手に入りにくいエビのかわりにスルメを天ぷらにしてうどんに乗せたものだそうです。当時は結構おいしくて店の人気メニューだったのです。そのうわさの「うどん屋」のことや、駅までの道がなぜ遠く感じられたのか、ちょっと怖い竹やぶは果たしてどこにあったのだろうかなど、謎のまま気にかかっていたのでした。国土地理院が持っている古い航空写真や地図とにらめっこしているうちに、ふとあることに気が付きました。気付いてみれば単純なことでした。1963年(昭和38年)に国道43号線が開通しました。その時から、通学路が南と北、すっかり入れ替わっていたのです。おまけに、本学の正門の位置も南側から西側へ、90度変更されていました。いわば表通りが遠回りの裏道になっていたわけです。地理を考えるとき、どうしても正門の位置を念頭に考えがちですから、先輩たちの話と食い違いが起きるわけです。
うわさのうどん屋さん そこで、資料を頼りに1950年代(昭和30年代)までの通学路を復元してみました。うわさのうどん屋さんの位置も特定できました。それが右図です。現在の日下記念マルチメディア館がある中央キャンパスの辺りはイチゴ畑やイチジク畑でした。ちょっと怖い竹やぶは、乗誓寺の境内にありました。今の本郷公園がその名残で、本学の「学術研究交流館」や鳴尾公民館の辺りまで広がっていたようです。乗誓寺は1570年(元亀元年)開創の古刹(こさつ)で、昔は寺域も今より広かったのです。そして問題のうどん屋さんは西方寺の東南角にありました。店の形態は変わっていますが屋号は昔のまま、「丸万」でした。こちらも結構歴史は古く今年で創業103年、まもなく4代目さんに代替わりしようかという老舗でした。3代目さんに話を聞きました。戦中戦後の物不足の時代、いろいろな代用品でメニューを工夫していたと先代さんがよく話していたのを聞いてはいるが、残念ながら「スル天うどん」のことはよく知らないとのことでした。
 昔の通学路は、鳴尾駅を一旦南に下り、西方寺の角、つまりうどん屋のところを左折して正門(現南門)に向かうルートだったのです。帰り道は遠かったのだ!!

神は細部に宿る・・・ 2008年12月26日

神は細部に宿る(1)
防火練習をする女子生徒と防空壕(ごう)
 今年も、はや年の暮れ、この「70年史こぼれ話」も今年の最終回です。70年史編さんの余話として、おととしの暮れにスタートしたこのコーナーも20数回を数えました。いまさらながら時の流れの速さを感じます。年史作成に当たっては、過去に出版された「50年誌」などの正史とされるものはもちろん、学院や学院創設者に関する折々の出版物、古い公文書、未整理の学事記録、これもまた未整理でキャプションのない写真の数々、学生・生徒の文集、学校案内の冊子の類(たぐい)といった、手に入る限りの1次資料に当たって不明な点を正し、未知の事実を探し出すように努めています。
 本学院の草創期は、ご承知の通り戦争と敗戦―まさに激動の時期に重なり、その上戦火の被害も受けていて、残念ながら戦前の資料はほとんど残っていません。残されている資料も紙質が悪いせいか茶色に変色し、触ればぼろぼろと紙片がこぼれるほどに劣化しています。そうした古い資料を丹念に読んでいると、これまで不確かであったり誤認したりしていた事実が、思いがけない所から鮮明に浮かび上がってくることがあります。学生たちの文集の中の何気ない一節が、キャプションのない謎の写真を読み解くヒントになったりします。前回の「手作りの卒業アルバム」の場合も、そのようなヒントがきっかけで発見につながったのでした。持ち主のOさんがご健在だということが分かり、電話で直接お話を伺うこともできたのです。
神は細部に宿る(2) 1949年(昭和24年)発行の「行幸記念誌」という冊子があります。大学発足以前の学院を知るには一級の資料の一つですが、その中に戦火で校舎の5分の2を失った日、あの1945年(昭和20年)6月15日のことを語り合った座談会が載っています。公江学院長を先頭に、先生も生徒も消火に奮闘するのですが、危険が迫り防空壕(ごう)に全員避難しようとした時、「山本先生」が焼夷(しょうい)弾の破片でアキレス腱を切り雨戸で作った担架で「川西病院」に運ばれたというくだりがあります。なんと、Oさんはこの日の空襲にあった当事者のお1人だったのです。正門(現中央キャンパス南門)を入ってすぐ右の所にあったL字型の防空壕に、「山本先生」と班長だったOさんがしんがりになって別々の入り口から入ろうとした時、一足遅れた「山本先生」が遭難したのです。Oさんの証言とOさん「手作りの卒業アルバム」のキャプションから、数種類残っていた写真の中の山本先生を特定することができました。国語の山本多賀雄先生のことで、以前ご紹介したあの高等女学校第1回卒業記念アルバムの編集長でもあった方でした。そして、「川西病院」とは今の明和病院のことで、川西航空機株式会社の附属病院だったことも・・・。
 これはほんの一例なのですが、このこぼれ話のコーナーの一話一話は、古い資料のページから、撮影日時不明の謎の写真から、消えかかった活字が語りかける言葉の中から立ち現れてきた先輩たちの偽りのない生の記録でもあります。ささやかなこと、何気ない事象の中に真実はさりげなく隠れているようです。

世界で唯一の卒業アルバム 2008年11月30日

2605年卒業アルバム 以前、「2604年の卒業アルバム」という話をこの欄でご紹介しました。1944年(昭和19年)、武庫川高等女学校の第1回卒業生の卒業アルバムがテーマでした。アルバムの編集後記に「・・・・・・第1回卒業生としての思い出をこめたこのアルバム、私たちの母校にとりましても最初の、そして最後のアルバムになろうかも知れぬと緊張した時局の様を思いますのに、ひとしお感慨が胸に迫ってまいります」と、敗色の濃い戦局の行方を案じ、不安そうに記していました。翌年度(1945年<昭和20年>)から修業年限短縮で4年生が繰上げで5年生と一緒に卒業するという異常な事態になっていたし、辛うじて行われた卒業式も出席できたのは40人程だったと言いますから卒業アルバムどころではなかったかもしれないと前回には書いたのですが、ふとしたきっかけから、堺市にお住まいの第2回卒業生Oさんが卒業アルバムをお持ちだということが分かりました。幸いにも1回生が心配したように、彼女たちのアルバムが「最初の、そして最後のアルバム」になることはなかったのです。第2回卒業生のアルバムも形だけですが作られてはいました。しかし、第1回生のものよりも更に紙質は悪くなり、しかも「手作りの卒業アルバム」だったのです。
 右に掲載した緑色のアルバムは、表紙と始めの数ページだけに先生方のお顔や校舎の写真が印刷されていて、後は白紙のページがあるだけ、卒業生は思い出のスナップや風景写真をそれぞれが貼り付けて、いわば自分だけの写真集を作るようになっているのでした。
 Oさんの卒業アルバムはユニークでした。思い出の写真にOさんは丁寧にキャプションを付け、ところどころに好きだったというゲーテの訳詩を書き添えています。不自由で不安な世相の中にありながらも少女らしいロマンチシズムを失われなかったOさん、拝見していて何か励まされるような思いがします。また、先輩の第1回生の卒業式の後には謝恩会が行われ、1回生は「おばあさん」という劇を、送る側の2回生は「おもちゃの裁判」という歌劇を演じたそうですが、そのスナップ写真も貼られています。記念すべき女学校第1回卒業式の様子が目に浮かぶようで、型通りの卒業アルバムにはない味わいがあります。これこそ世界で唯一の卒業アルバムといえるでしょう。
 Oさんは卒業後、しばらく勤めた後で家庭に入られたのですが、戦後の物資の不足した時代、小さかったお子さんが絵本代わりに「おかあさんのさしん」と言って何度も繰り返して見て遊んでいたそうです。ついでに、幼い字で落書きも残していました。

アルバム1 アルバム2

校歌の作者はどんな人 2008年10月31日

 「武庫川女子大の校歌は“六甲おろし”にそっくり」そんな声がよく聞かれます。歌の出だしのメロディーが、阪神タイガースの応援歌によく似ているというのです。朝日新聞が先だって、夕刊の「勝手に関西・世界遺産」という連載企画でこのことを取り上げたりしましたので学生や卒業生だけでなく、一般にも少しは知られていることかもしれません。学院歌の作曲者は田中銀之助で、六甲おろしの方は古関裕而(こせき・ゆうじ)。まったく別人で接点もありません。曲が似ているのは偶然だったようです。
 それでは田中銀之助とはどういう人だったのでしょうか。今回は噂の学院歌の作曲者について調べてみました。作詞者の井上赳(いのうえ・たけし)とともにご紹介します。

田中銀之助 田中銀之助(1880<明治13年>〜1947<昭和22年>)は兵庫県養父郡の出身で、明治から昭和初期にかけて活躍した音楽教育家です。東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)を出て第一神戸高等女学校(県一高女<現兵庫県立神戸高等学校>)に赴任します。記録によると、大阪音楽学校(現大阪音楽大学)などでも教壇に立つ傍ら関西を中心に西洋音楽の導入に努め、大阪音大創設者で初代学長の永井幸次氏とともに作曲活動を行い、二人の作品はNT楽譜として出版されました。明るく親しみやすい曲が多く、「子守唄」など当時の人々に愛唱されたと言います。校歌も数多く作られていて、学院歌は先生が本校に在職されていた1942年(昭和17年)の作品ですが、他に県一高女や育英高等学校の校歌も作曲しています。右に掲載した写真は武庫川高女第1回生の卒業アルバムに載っていたお写真です。
銀之助先生について、ある高女第1期生は文集にこんなエピソードを書き残しています。

 公江校長の授業は熱弁のあまり時間が長くなり、次の授業まではみ出してしまうこともしょっちゅうでした。ほかの先生だったら遠慮して黙って待っていらっしゃるのだけど、音楽の田中先生は教室へ怒りに入って来られることがよくありました。そしたら校長先生は「すまんすまん」と頭をかきかき謝ってはった。お昼休みの時間などには田中先生、池で釣り糸を垂れていたのを思い出します。何しろ浮世離れした芸術家でいらっしゃいましたから・・・。

井上赳 作詞者の井上赳についてですが今の学生たちには、ほとんどなじみがないと思いますが、祖父母や親の世代にとっては懐かしく、郷愁をそそる歌を多く残しています。
“ドンと鳴った花火だ 綺麗だな/空いっぱいにひろがった・・・・・・”
という歌詞の「花火」や、
“運転手は君だ 車掌はぼくだ/あとの4人は電車のお客・・・・・・”
という「電車ごっこ」のフレーズを聞いただけで、日が暮れて暗くなるまで泥んこになって遊んだ子どものころを懐かしく思い出されるに違いありません。

 井上赳(1889<明治22年>〜1965<昭和40年>)は松江出身の国文学者。文部官僚として戦前の教科書の編集にも携わりました。旧制第一高等学校(現在の東京大学の前身のひとつ)を卒業し、同期生には、政治家の近衛文麿、作家の山本有三、歌人の土屋文明などがいました。上記の「花火」や「電車ごっこ」など小学校唱歌の作者としても有名ですが、戦前の国語の教科書の編集責任者としても知られています。
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」、小学校1年生が国語読本の最初のページで目にした文章です。俗に「サクラ読本」と呼ばれていますが、この読本のお世話になったご家族もいらっしゃることでしょう。
 *写真は井上赳の伝記「サクラ読本の父」(勉誠出版)の表紙から。

女専「保健科」のナゾに迫る!! 2008年9月30日

 本学の歴史記録で最も古い資料の一つに1949年(昭和24年)発行の「行幸記念誌」があります。その2年前(1947年<昭和22年>)、昭和天皇の行幸があり、それを記念してご訪問の様子や当時の学院の状況が記録された文集で、正規の学院史ではありませんが、戦火の被害から立ち上がり、大学開学に至るまでの苦闘の歴史を知るには一級の資料といえます。その記念誌に一つのナゾがあり、編集子のちょっとした悩みの種でした。
 そのナゾというのは、学院のあゆみを記述した年表の項を見ると「昭和21年2月25日、専門学校令により武庫川女子専門学校設置の件、認可。(国文科、保健科、被服科)」となっていて、女子専門学校は国文、保健、被服の3学科でスタートしたことが分かります。ところが、「学院の現況」という、49年当時の学院を構成する大学、専門学校、附属中・高などを説明した記事の中では、専門学校の学科に「保健科」は見当たらず、代わりに年表にはなかった「家政科」と記載されているのです。
 これはどうしたことか、同じ記念誌の中で学院の現況と学院年表の表記に矛盾があるのです。わずか一箇所の表記の違いとはいえ、なおざりにもできず、単純なミスと片付けてしまうには何か引っかかるものがあって、「35年誌」や「50年誌」など、その後出版された学院史や年表のたぐいを注意して調べてみたのですが、そのいずれにおいても、女子専門学校は当初から「国文、家政、被服の3学科で発足した」ことになっています。思い余って、鳴松会(同窓会)の助けも借りたのですが、そもそも「保健科」の卒業生というのは名簿上には存在しないとのことで、卒業生に尋ねても「保健科」という学科は記憶にないという返事しか返って来ませんでした。やはり「行幸記念誌」の記事が誤りなのか、いや、しかし、時間的に一番近い時期の記録にミスがあるというのも考えにくいのですが・・・・・・。
 ナゾは深まるばかり。「保健科」はついに幻に終わるのかと諦めかけていた時、文書保管庫の、ほこりをかぶった未整理の公文書冊子が答えを出してくれました。文部省学校教育局長通達381号なる公文書が見つかったのです。茶色に変色したB5版一枚の文書です。
 「保健科の改称について」と題して1947年(昭和22年)9月29日に出されています。
 「貴校保健科はこの度公布施行された保健婦、助産婦、看護婦令(1947年<昭和22年>7月3日政令第24号)との関係上、保健婦等を養成する学科と兎角誤解混同されるおそれがあり、且つ全国女子専門学校長協会からの希望もあるので云々・・・・・・」とあります。これは、「学科内容などから考えても、生活科等に改称するのが適当と考えられるので、しかるべき措置をし、名称変更に伴う学則変更の認可申請も必要ないので、その旨10月31日までに報告せよ、という慌ただしい通達です。そして、10月4日付けで文部省に出された名称変更とは別件の「現況報告書」ではすでに「家政科」の名称が使われていますから、10月早々に急きょ名称変更したものと思われます。
 ナゾは解けました。「保健科」は他の政令との関係から、学年途中で学科名が変更されていたのです。したがって、卒業生はみんな家政科卒になっているはずですから、卒業者名簿に保健科卒が存在しないわけです。
 出てくる時には続けて出るものです。古い段ボール箱に雑然と詰まっていた写真やパンフレット類の中から、1947年度(昭和22年)の学生募集要項を元に加筆修正した、制作途中の48年度の募集要項を発見しました。こちらを見ると、確かに47年度の要項には「保健科」と記載されていますが、48年度の要項では「家政科」に修正してあるのです。やはり「行幸記念誌」の年表は正しかったのです。ただ、年表は、その性質上大きな出来事中心の簡潔な表現になりますから、文部省の指令で急きょ変更した事項までは記述されなかったというのが実情だったのでしょう。

「もんぺ」さんと女学生 2008年7月31日

 前々回、「角帽と紋付ハカマ」で制服の話題を少し取り上げました。そこで、昔の女学生たちはどんなファッションをしていたのだろうかと、もう少し追及してみたくなりました。とはいっても、戦時中のことです。自由で個性あふれるファッションに満ちた現代のキャンパス風景からは想像もしにくいことですが・・・・・・。
 まず予備知識として、戦争末期の社会状況はどうだったのでしょうか。物資は極端に不足し、衣類の類(たぐい)は自由に求めることができなくなっていました。「贅沢は敵だ!!」という標語を掲げたポスターが町のあちこちに貼ってあり、華美な衣装などもってのほかで、ファッションを楽しむ自由などなかったのです。そんな時代の1944年(昭和19年)3月13日、兵庫県内政部長から一通の通達が来ました。「女子中等学校生徒制服ノ戦時規格制定ニ関スル件」というイラスト付きのちょっと厳しいお達しです。
 その通達によると、学生・生徒の制服の新調は「真ニ止ムヲ得ザル場合」を除いて、すでに禁止されていたようですが、それでもなお新調しなければならなくなった場合には、情勢のことを考えて、「別記基準要領ニ依ラシムルコト」として、10項目ほどの基準を列記しています。そのいくつかを抜き書きしてみましょう。文章は旧仮名遣いです。

写真2

女子学校生徒制服ノ戦時規格ニ関スル基準要綱

色相  女生徒ニフサハシク オチツキアルモノ 特ニ色柄ハ華美ナラザルモノ
生地  質実堅牢ナルモノトシ 成ルベク有リアワセ生地ノ厚生ヲ図ルコト

○上衣 (婦人標準服乙型上衣ニ準ズ)
イ 身丈ハ腰ノ辺リマデ(胴回リ線ヨリ五寸程長ク)
ロ 袖丈ハ八寸以内 形ハ舟底型
ハ 衿ハ日本衿トシ四寸程ノ衿下ヲ附ケル
ニ 肩揚ヲスル 但シ着用者ニヨリ之ヲ省クコトヲ得
ホ 付紐ヲツケル
○下衣
イ 脱ギ着ノタメニ脇明キトスル
ロ 前後ニ五ツノ襞ヲ取リ幅一寸三分ノ紐ヲ附ケル

写真4 このような基準要綱があって、その後に備考として右のようなイラストが描かれています。禅宗のお坊さんが着ている作務衣(さむえ)にそっくりです。そこで早速その当時の卒業生の写真の中に、このような制服を着た生徒はいないかどうか探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。どうやらわが校では採用されなかったようです。代わりに、下衣だけがいわゆる「もんぺ」姿の生徒はいますから、折衷的に戦時スタイルが導入されていたのではないかと思います。紺の作務衣を着た凛とした女学生、ちょっと見てみたい気もしますが。

写真1写真3

イチゴの里は蘇(よみがえ)るか 2008年6月30日

写真1
写真1
写真2
写真2
写真3
写真3

 先月、本学は「武庫川学院環境宣言式」を行い、かねて関連企画として募集していた環境保全アイデア・コンペの最優秀作に、鳴尾イチゴをテーマにした環境保全のプランが選ばれました。この「こぼればなし」のコーナーでも、何度か鳴尾イチゴについては触れる機会がありましたが、今回は少し詳しく武庫女とイチゴの「いわく因縁」を写真付きで紹介しましょう。そもそも鳴尾地区のイチゴ栽培は明治から大正にかけて最盛期を迎えたのですが、時を同じくして神戸と大阪を結ぶ阪神電車が開通しました。そこで、乗客誘致のイベントとして鳴尾農業会と協力し、イチゴ狩りを催したのが評判を呼び,一躍鳴尾イチゴが有名になったのです。折から、大阪などの大都市は、近代化に伴う住環境の悪化が問題になりはじめ、健康的で優良な別荘地、住宅地として阪神間がもてはやされるようになります。阪神や阪急はアーバンリゾート「いなか」として「阪神間」を大いに宣伝したのです。甲子園球場、甲子園ホテル、阪神パーク、鳴尾ゴルフクラブ、阪神競馬場と、名のあるリゾート施設が集積する“鳴尾村”は「阪神間」の中核的なリゾートセンターでもありました。
 そうした施設の一つに武庫川遊園がありました。サマーキャンプができる施設(※現在の林間学校などの校外学習の際に使用され、当時としては画期的な施設だった)、遊園地、運動場、イチゴ農園などがあるレクリエーション施設です。武庫川遊園は、阪神電鉄の経営でしたが、その前身は1905年(明治38年)に、辰馬半右衛門が開いた遊園地「百花園」で、いわば明治のテーマパークです。阪神は、その「百花園」の跡地と、堤防を挟んだ武庫川河川敷に武庫川遊園を開園したのです。場所は本学の東隣、東鳴尾町一帯で、ラクロス部などが愛用していた河川敷の運動場はその名残です。さて、キャンプのできる施設ですが、ちょっとややこしいのですが「武庫川学園」と呼んでいました。1939年(昭和14年)に武庫川高等女学校が設立された時、新校舎ができるまでの一年間仮校舎として借りていたのがこの「武庫川学園」なのです。

写真4

 写真1〜3は武庫川遊園のイチゴ狩りを宣伝した絵葉書の写真です。「百花園」の跡地周辺と思えます。そして、写真4は、同じく「百花園」跡にあった施設「武庫川学園」で、「武庫川学院」が仮校舎にしていた施設です。写っている学生たちは女学校第1期生です。この当時、昭和の初期には鳴尾イチゴの最盛期は過ぎていたようですが、まだ女学校の周辺にはイチゴ畑は残っていて、まさにストロベリー・フィールドの中の学園だった、と言えそうです。

写真4

角帽と紋付ハカマ 2008年5月31日

  右に掲載した写真は、50年以上昔の本学卒業生のグループ写真です。卒業記念に撮ったものでしょう。写真の裏面には「昭和27年ころ?」と鉛筆で書かれています。たぶん後になって記入されたのでしょうが、建物などから推測しても、やはりその頃のことでしょう。古い写真で、おまけにピントも合っていないところがあって分かりにくいのですが、中央あたりに立っている三人の卒業生に注目してください。角帽に紋付ハカマ、お一人はガウンのようなものを着ています。ちょっと珍しい服装です。詳しい記録はありませんが、そのころ制服も定められたようです。もう一つの写真の校門前の制服の学生たち。これはパンフレットなどの掲載用に演出されたものでしょう。ガウンも前列の人と後列の人では異なっています。複数の制服があったようです。
 ところで角帽のことですが、今では早慶戦などで応援団長がかぶっているくらいで一般的にはすっかり忘れられてしまいました。本はといえば、明治初年に学制が敷かれた頃は学生の身分も定かでなく、粗野な者も多かったようで、学生の綱紀粛正と規範の確立のために軍隊式に制服や制帽が定められたといいます。角帽は1884年(明治17年)ごろ、東京大学の前身校である当時の大学予備門がケンブリッジ大学とオックスフォード大学の帽子を折衷して作ったのが始まりだと言われています。
  この写真のように女子大の本学でも一時期には卒業式などの式典で角帽が使われていたようです。卒業生にお聞きしたところ、あまり定着はしなかったようで、事実、その後の時代の写真には角帽姿は見掛けなくなりました。
 前述のように制服・制帽制定のいきさつは、はっきりしないのですが、断片的な興味深い記録は残っています。1950年(昭和25年)9月13日の教授連絡会の記録に「制服・制帽。標準型、希望者の注文に応ず。帽子は希望者のみ。生地1ヤール1300円。2ヤール半は必要か。5000円ほどになるか」とあります。メモ程度の記事ですが、当時の物不足、悪性インフレの事情を物語っているのでしょう。当時の奨学金は月額2000円だったので、それと比較しても高価だったといえるでしょう。

難行、苦行、卒業旅行!!  2008年4月17日

10月 10日 午後9時40分、京都発夜行列車に乗車。
11日 午前7時25分、富士宮駅着。直ちに富士五湖巡りに出発、夜は河口湖ホテル宿泊。
12日 富士箱根周遊、元箱根金波楼宿泊。
13日 東京へ、午後東京見学。夜11時50分東京発の夜行列車に乗車。
14日 午後3時半大阪駅着、解散。

写真 ああ、お疲れ様!! このスケジュールは60年ほど昔の、武庫川女子専門学校2期生の卒業旅行の日程です。2泊5日2車中泊、経費はお一人様3000円でした。
 卒業旅行と言っても、昔と今では、ずいぶん旅行形態も考え方も変わってしまいました。昔は上記のように、学校やクラス単位での団体行動が一般的でしたが、今はもうすっかり団体での行動は敬遠され、小グループでの自由な旅が花盛りです。最近の卒業旅行事情について、旅行会社の方に伺ったところ、目的に合わせ、実に多様な旅を選んでいるようです。個人、または友人たち数人での旅行というのがほとんどで、クラスでの卒業旅行はめったにないそうです。目的地はヨーロッパが一番人気です。しかし、今年は特に原油価格の高騰を反映してか、海外旅行は減少気味、上限15万円といったところが相場。1泊2日の旅程で、テーマパークか温泉へと、近場で楽しむ人も結構多かったそうです。
 ところで上記の先輩たちの旅のことですが、参加者のお一人、I さんがご健在で、いろいろ貴重な証言を寄せていただきました。元プロの写真家ということもあって、古い写真も整理して持っておられ、当時の卒業旅行についても正確に覚えていらっしゃいました。
 「それにしても、硬い座席で15時間40分の夜行列車での旅は、大変だったでしょう」と聞いたところ「若かったからでしょうか、それほどにも感じませんでした」という返事でしたが、当時の交通事情を思うと、難行苦行というほかはありません。戦中と戦後は日本国有鉄道(現JR)の受難時代でした。戦後しばらくは復員輸送(旧軍人の輸送)や特殊輸送が優先されていて、一般民間人の旅行は制限されていたのです。この卒業旅行があった1949年(昭和24年)に初めて乗車券発売制限が解除され、ようやく特急「平和」が東京―大阪間を8時間で走るようになったのです。もちろん学生の団体旅行などは普通列車ですが。
 I さんの一番の旅の思い出は、富士五湖巡りでも、白糸の滝の絶景でもなかったのです。東京の夜、期待していた銀座の街並みがネオンも何もなく、不気味なほど真っ暗だったことだそうです。電力事情が悪く、当時は停電が日常的だったのです。

 花咲き花散る宵も
  銀座の柳の下で


そう歌(※)にうたわれた花の東京のイメージが、無残にも砕けてしまった旅でもありました。

※ 「東京ラプソディ」・・・ 1936年(昭和11年)に大ヒットした歌謡曲。銀座をはじめ、昭和モダンの華やかな都市文化を歌い上げている。
作詞:門田 ゆたか、作曲:古賀 政男、歌:藤山 一郎

バランドーニ先生のこと 2008年3月27日

  「君の声は日本人にはないラテン系のすばらしい響きをしている」。沖縄出身のテノール歌手・新垣勉氏の人生を変えた言葉です。「さとうきび畑」や最近では「千の風になって」を歌って人々を感動させているあの盲目の歌手のことです。昨年暮れにはその半生がテレビドラマにもなり、感動を新たにした方もおられるでしょう。よく知られているように、彼は在日アメリカ軍人だったメキシコ系アメリカ人と日本人の母との間に生まれました。不慮の事故で生後まもなく視力を失います。1歳のときに両親は離婚し、母方の祖母に育てられるのですが、事故のもととなった助産師や、両親を恨む思いが募り、絶望的な少年期を過ごし、自殺未遂まで起こします。14歳でただ1人の肉親である祖母を亡くし天涯孤独の身になるのですが、ふと聞いたラジオから流れていた賛美歌がきっかけで、声楽家と神に仕える道を選ぶことになります。
 西南学院大学神学部に在籍していた時、恩師の西沢教授から本学音楽学部教授の故アンドレア・バランドーニ先生を紹介され、トレーニングを受けるために九州から先生の下へ通うようになったのが運命の出会いであったわけです。バランドーニ先生はイタリアご出身で、1963年(昭和38年)から83年(昭和58年)まで、本学で教えておられました。今では先生のことを知る関係者も少なくなり、まして新垣氏との関係を直接証言していただける方はもっと少ないのですが、同時期の音楽学部におられた恵智文子講師がバランドーニ先生の通訳もされていたので、あるいはご存じかもしれないということが分かりました。しかし、恵智先生も新垣氏のことを直接は知らないそうです。ただ、西南学院大学の西沢先生の紹介でボイストレーニングをされていたこと、バランドーニ先生が「つらい体験だったろうが、同時に君の声は神からのプレゼントであり、感謝すべきものだ」と励ましておられたこと、そんなことがきっかけで、武蔵野音楽大学に進み本格的に声楽家を目指したことなどを教えていただきました。バランドーニ先生は、イタリア系声楽の先生としてドイツ系声楽の中山悌一先生とともに本学音楽学部の双璧でした。大阪文化祭賞1971年(昭和46年)、兵庫県国際文化賞1972年(昭和47年)などを受賞されています。
 70年史の資料整理をしている中で、そのバランドーニ先生の写真がまとまって出てきました。オペラ「蝶々夫人」の演出風景やレッスンシーンなど、特にオペラに出演したOGにとっては懐かしい思い出がいっぱいかもしれません。

2604年の卒業アルバム 2008年2月8日

卒業アルバム 武庫川高等女学校の、2604年の卒業アルバムが見つかりました。「え−っ、2604年!? 今はまだ2008年ですよ!600年も先の、しかも武庫川高等女学校の卒業アルバムですって、うっそー」という驚きの声が聞こえてきそうです。ごもっともな疑問です。70年史の編集っ子にしても、このような年号の入ったアルバムを見るのは初めてでしたから。しかし、紛れもなく本物のアルバムで、実際に使われていた年号です。1944年(昭和19年)、女学校の第1回卒業生のアルバムなのです。
 この「こぼれ話」のコーナーでは、戦時中の本学の前身校の様子などを折りに触れて紹介してきました。学院草創期の先輩たちは戦中戦後の苦難の時代を生きてこられたのですが、この2604年という年号からもあの時代を表す世相の一面がうかがえます。1940年(昭和15年)は記紀神話に基づく年代の数え方に従えば、ちょうど2600年に当たる年で、記念の式典も行われました。*そしてこの年号は、その頃からよく使われ始めたのでした。1944年(昭和19年)はそれから4年目ですから皇紀2604年という訳です。太平洋戦争最末期のこの年、全国的に空襲なども激しくなり、中等学校以上の学生・生徒は学徒動員などで満足な授業も受けていなかったわけですから、ともかくも無事に行われた戦時中最後の卒業式でした。物資も不足する中で、粗末な用紙ながら卒業アルバムも作られたのです。
 翌年の1945年(昭和20年)、戦況はさらに悪化していました。阪神地域は数次にわたり激しい空襲に見舞われたうえ、この年度から修業年限の短縮で4年生が繰り上げられ、5年生と一緒に卒業するという異常な事態になっていました。それでも3月28日の卒業式に出席できたのは40人程だったといいますから卒業アルバムどころではなかったかもしれません。何人かの卒業生にうかがってみても、アルバムの記憶はないとのことで、どうやらこの年度には作られなかったようです。
卒業アルバム ご覧のように、平綴じの質素な薄いアルバムですが、ページごとに、あの時代を精いっぱい生きた青春の記憶が詰まっていて、多くのことを私たちに語り掛けてきます。記念写真風に型通りのポーズをしたちょっと古風な集合写真や、食糧増産の奉仕で稲刈り作業をする風景は時代そのものの反映でしょう。そうした中に、学校創立期の生徒の姿を写したスナップがありました。1939年(昭和14年)の初夏でしょうか、白いセーラー服姿の女学生たちが松林の坂道を歩いてきます。武庫川河畔に開校したばかりの仮校舎に急ぐ新1年生たちです。ごく自然で笑い声さえ聞こえてきそうです。重苦しい時代の中、ほんのひとときの平和な学園生活をとらえたワンショットがさわやかに見えます。

*皇紀
 日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当たる)を元年とすることを、1872年(明治5)に定めたもの。 昭和15年には、皇紀2600年として記念行事などが行われた。

帰って来た「匂いスミレ」 2008年1月18日

匂いスミレ 一昨年の8月、かつての学寮が学友会活動の拠点としてよみがえりました。新装成った有恒会館のことです。その玄関脇に、いま一鉢の「匂いスミレ」が紫色の花を咲かせています。スミレの花言葉そのままに、ひっそりと「控えめ」にたたずむ姿はうっかりすると見過ごしてしまいそうです。このごく普通の一鉢、実は花の命を慈しむ人たちの心のリレーが伝えたものです。
 旧有恒寮は1960年(昭和35年9月)に竣工し、多くの先輩たちが青春の一時期を過ごしました。多感な時代に仲間たちと生活をともにする寮生活は、何か特別なものを人生に加えてくれるのでしょうか、時を経て学生時代を振り返る時、多くの人が寮の生活を熱く語るものです。その有恒寮は2003年3月に41年におよぶ寮としての役目をいったん終え、閉鎖されていましたが、活発な学友会活動をさらに支援し、広く学生交流の場にも活用するために再スタートしたのでした。そうしてよみがえった有恒会館へ、旧厚生課員だったKさんからこの「匂いスミレ」が届けられたのです。以下はKさんからの聞き書きです。
匂いスミレ 有恒寮には、以前、Sさんという寮監がおられました。閉寮とともにご退職されたSさんは、穏やかな人柄とクリスチャンでもあることから、学生たちからはシスターと呼ばれ慕われていました。そのシスターがこよなく慈しみ育てていたのが鉢植えの「匂いスミレ」でした。花はいつから寮にあったのか、そもそもシスターが置いたものなのかどうか、今では確かな花の由来は分からないそうです。ただ、10年ほど前、当時の厚生課長だった方が、シスターの愛した「匂いスミレ」を枯らしてしまうのは惜しいからとKさんたち有志で株分けをし、持ち帰って育てていたのです。
 有恒会館は見事によみがえりました。学生課に聞きますと、連日のように利用者があり、シーズンには百人を超す学生がここを拠点にクラブ活動などに励んでいるそうです。この「匂いスミレ」は、新しい門出をした有恒会館にこそふさわしい、そして学生たちと新しい歴史を、ともにしてもらいたいと思いKさんは里帰りさせたのです。
 昔から多くの詩人や作曲家に愛され、インスピレーションを与えてきたスミレ、花言葉は「誠実」「控えめ」です。

“子”の付く名前、その運命やいかに! 2007年12月4日

 何回か前、「百花繚乱!今どき武庫女生のお名前」と題して、学生の名前の今昔、移り変わりの一部をお伝えしました。そのとき、子の付く名前の激減の様子をいつかレポートしますとお約束しました。このほど十数万人に及ぶ卒業生の名簿の精査を終えました。前回に引き続き渡会さん(鳴松会事務室)の、一年半に及ぶ労作の一端をご紹介します。
 1944年に本学院最初の卒業生が世に出ていますが、その時以来30年間不動のトップの「和子さん」も、1974年を最後にその座を明け渡します。次の10年間の女王は「恵子さん」でした。その恵子さんも、1985年には、「智子さん」に首位を譲り、智子時代が20年続きます。そして現在の首位は「愛」。和子さんは、本学の資料がある1944年のかなり以前から人気の名前であったことがうかがえますので、女性の名前史上おそらくは一二を争う人気の名前だったと言えるでしょう。
 それでは、“子”の付かない名前がいつごろからベスト10に登場するようになったのでしょう。本学のデータでは1985〜94年の10年間の区切りに第7位で「真由美」が登場したのが最初でした。そしてこの時、「直美」、「由美」も同時に8位、9位で一気にベスト10入りします。そしてついに、去年度の卒業生で“子”の付かない「愛さん」が首位に立つのです。ところでこの愛さんたち、阪神タイガースが20年ぶりに優勝して大騒ぎだった85年頃の生まれのはずです。思えば巨人の1人勝ちの時代が終わり、プロ野球も多様化したあの頃から、名前の方も多様化、自由化が始まったのかもしれません。そして年々、人気のある名前の変化のサイクルが短くなっているようです。ある生命保険会社の最近のデータを見ますと、去年生まれの赤ちゃんの名前ベスト100のうち、“子”の付く名前はたったの3個、莉子、桜子、菜々子だけでした。往年の女王「和子」さまもついに100位にさえ入らないのです。現在のベスト3は陽菜、葵、さくら、なんだそうです。
 “子”の付く名前と付かない名前の割合を、10年単位で円グラフにしてみました。>>グラフはこちら(PDF)

伝説の名物教授 2007年11月19日

本学OGの集まり いつの時代にも、どの大学にも語り継がれる名物教授なるものが“生息”しているようです。これはもう伝説というより神話に近いかもしれませんが、昔ある大学に、日露戦争が始まったのも、それが勝利に終わって日本中が沸き立っていたのも知らなかったという研究一途の世界的な物理学者がおられた話はあまりにも有名です。
 去年の夏、卒業生に集まっていただき学生時代のことを伺う機会がありました。本学の初期のOGたちで、今はもう引退された小学校の校長先生や幼稚園の園長先生が中心の集まりでした。草創期の大学の様子を一通り伺った後、戦後の厳しかった学生生活の中でも、何か楽しい思い出や懐かしいことはありませんかと話題を変えた途端に、彼女たちの表情は一変したように思えました。久しぶりの同窓会のおしゃべりタイムのようにその場の雰囲気が変わってしまったのです。そして、話題の中心としてがぜん活躍するのは彼女たちの心の中に住み着いていた名物教授たちだったのです。
 英文学のメグリ先生は専門がシェークスピアです。メグリ先生はこの時ばかりでなく、ほかの機会にも卒業生の話題の中にしばしば登場されるので、名調子の講義が人気のキャラクターだったに違いありません。興が乗ると、身ぶり手ぶりを用いながら、シェークスピア劇の人物を演じるのだそうです。それが面白くて、時には「先生、オー!ロミオをやってー」と一斉に催促したりします。ちょっとためらっていても大概はOKとなり、だんだん本気になってくると声色までジュリエットに成り切り、自らの演技に陶酔していくのです。「それがおかしくって・・・」と、卒業生たちは忍び笑いを必死でかみ殺した50数年前の教室の様子を話してくれました。
 生物学のアサヒ先生、後年某大学の幹部をされた大先生も、若き日はかなりなヤンチャであったようです。フナやキンギョを使っての解剖の授業で、ふと何を思ったか、「キンギョもフナの飼養変種だ、きっと同じ味がする」と言って煮物にしてしまったのだそうです。おいしかったですかと尋ねたところ、何か微妙な顔つきで首を振っていました。何のことはない、彼女らも一緒にヤンチャをやっていたのです。
 心理学のセイキ先生は近隣の某国立大学から非常勤で来られていました。U部(夜間開講)の授業は昼間に仕事を持つ学生のために、とりわけ授業時間は厳しく守られていて、先生方も大変ご苦労されていたようです。ある時、セイキ先生は10分ばかり遅刻されました。そっと扉が開き、靴をささげ持ったセイキ先生、まるで泥棒のような忍び足でご登場。「教務部に寄ったら、怒られそうなので・・・」と言い訳しながら授業を始められました。その様子がおかしくって、と、またひとしきりセイキ先生の、きまじめ振りが話題でした。
 おのおの方、ゆめゆめ油断召さるな。今、何食わぬ顔でキャンパスを闊歩(かっぽ)している学生たちの心の中にも、新しい「坊ちゃん」や「チップス先生」の物語が生まれつつあるのですから。

「おめでたう」ってオメデトウ? 2007年11月8日

文部省の調査に応じ、入学試験の問題を報告した公文書の写し 戦後、教育の近代化や民主化でいろいろな改革が行われました。その一つが「新仮名使い」の制定ですが、今なお、一部には根強い異論があるものの、現代生活の中にすっかり根を下ろしたと言えるでしょう。「現代かなづかい」が初めて内閣告示されたのは1946年(昭和21年)11月16日でした。そして、1986年(昭和61年)7月1日に「現代仮名遣い」として改定告示され、今日に至っています。「現代かなづかい」では歴史的仮名遣いの書き替えという形をとっていたのを、「現代仮名遣い」は現代語の音韻によって書き表すことを原則とした、とされています。
 ところで、1948年度(昭和23年)の武庫川女子専門学校の入学試験問題の一部が残っていました。文部省の調査に応じ、入学試験の問題を報告した公文書の写しです。国語の問題で、1、左の句の鑑賞をかけ。として、
 橋かすむ河べに青き柳かな
 という句が掲げられていて、これは普通の解釈の問題ですが、最後の設問に、早速時代を反映した問題が出ていました。「次の各々の短文を新仮名遣いによって訂正せよ」というのです。
 イ、明日お伺ひいたします
 ロ、米国へお着きになる頃は病気も治ってゐよう
 ハ、早く仕事を片付けてしまはう
 ニ、おめでたう存じます
 ホ、あの方は嬉しさうな顔をしてゐる
一見簡単な問題ですが、入試のあった前年度の11月に告示されたばかりの新仮名遣いです。戦後の学生改革のさなかに慌ただしく学校生活を送った受験生たち、果たして楽勝気分で「嬉しさうな顔をしてゐた」でしょうか。まだまだ「・・・教育成果の昂揚(こうよう)に努め、以って現下諸般の情勢に即応せられるよう早急にこれが御配意が願いたい」といった文語調の文部省通が普通に行われていた時代でした。

60年前の暑い夏 2007年10月4日

無試験検定校の許可を通知された書類 今年の夏は観測史上まれに見る記録的な暑い夏でしたが、その夏も武庫川学院にとってはとりわけホットな夏であったようです。1948(昭和23)年、もう60年ほど昔の話です。この年、武庫川女子専門学校は1年生から3年生がそろい、いわゆる完成年度に当たりました。翌年の春には初の卒業生を送り出すことになるのですが、その卒業生の成績いかんがその後の武庫川の評価にもつながりかねないということで、学生も教職員も夏休みを返上して特訓の夏を送ったのでした。「教員無試験検定」という、当時行われていた国家試験対策に学校を挙げて熱くなったのです。
 戦後の日本では、近代化と民主化が最大のテーマになり、特に女子教育の向上が教育改革の中心を占める「新教育指針」が示されました。その中で、「・・・何よりも女子自らが女子の特色をあらわし、男子に劣らぬ立派な働きを示す必要がある。特に教育と言う仕事は女子の特色を活かすのに最もふさわしい仕事である」と、女性の教育界への進出が大いに奨励されました。少し大げさに言えば、女子が教職に就くということは戦後教育の民主化と男女同権のシンボル的な位置付けであったわけで、花形職業の一つだったのです。
 武庫川女子専門学校の設立の目的の一つには、教員の養成がうたわれていましたし、女性の自主自立という理念は本学のフィロソフィーでもあります。ここは当然の事ながら「教員無試験検定」に合格して,無試験検定校に指定されることが本学にとっての至上命令であったわけです。つまり、その年度に行われる教員資格の国家試験で本学の卒業生たちが基準レベル以上の成績を収めれば,無試験検定校の許可が得られて、以後の年度の卒業単位取得者は自動的に教員資格を取得できることになります。
 全学の期待を担った3年生は、“休暇は合格の後で・・・”という合言葉を掛け合いながら暑い夏を特訓に明け暮れたわけです。そうした努力のかいあって翌年一月に行われた検定試験では、98%の合格者を出して無事に無試験検定校の指定を獲得しました。
 当時のOGの話を伺いますと、後輩たちは「あなたたち、感謝しなければ駄目よ、私たちの努力のお陰なんだから」とよく恨み節を聞かされたそうです。

かつて文部科学省は物資調達省だった!? 2007年7月27日

リヤカー ※写真(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より) 戦後、日本が新しい学校制度を取り入れたのは1947年から'49年にかけてです。私たちの武庫女もこの学制改革の嵐のただ中にあって、文字通り激浪に翻弄されながら波を乗り切り、今日の武庫川女子大学を築いてきたのですが、当時の事情を調べれば調べるほど、よくぞ過ちなく存亡の危機ともいえる状況を克服し、発展へとつなげてこられたものだと思わずにはいられません。占領下の日本、GHQ(連合国軍総司令部)の強力な主導の下で新学制、いわゆる6・3・3・4制が導入されるのですが、国中が灰燼に帰した敗戦からわずか2年後、国には理想的な学制を一気に仕上げるだけの体力は残っていませんでした。1947(昭和22)年9月5日に当時の文部省が発令した「新学制に当たって通達」を見ますと、差し当たり次のような方針を決定したとして「・・・新制の高等学校の実施に当たっては国家ならびに地方財政の逼迫した実情にかんがみ、努めて経費の増加をきたさないように暫定的設置基準を定め無理のない発足を計ることとし、内容の充実改善については国力の回復に応じて別途措置を講ずることとする・・」とあり、差し当たり、無理のない、暫定的といった国の通達としてはちょっと悲痛な感じの言葉がならんでいます。そして、差し当たり国庫補助は出さない方針だから、その地方の実情を考慮して、暫定基準に達しないものは新制中学に転用することも考えて措置せよ、というのです。つまり格下げもやむなし、という訳です。これは公立校に示された方針ですが、全ての経費を自力で賄わなければならなかった私学の場合、厳しさは倍加することになります。
 そのうえ、翌年には旧制専門学校の新制大学昇格問題が控えていました。この場合にも、全ての専門学校がそのまま大学に昇格できたわけではなく、大学設置基準に達しない場合は、新制高等学校に格下げになる可能性があったのです。物資も資金も乏しく苦しい状況の中、必死の努力で1949年、本学は最初の新制大学の一員として昇格を果たしました。新制大学は発足したものの、物不足、資金難、交通難、厳しい社会状況は相変わらず、しきりに出されている文部省(当時)の通達が苦しい学校経営の実情を雄弁に物語っています。当時は主要な物資は全て配給制で、白墨から実験用具にいたるまで教材だからといって自由に手に入ったわけではありません。そこで「謄写版インキが調達できたから必要数を申告せよ」といった文部省教育施設局長からの通達が出されることになります。教材だけではありません、思わず唸りたくなるような意外なものまであります。ノート、更紙、カーボンペーパー、家庭科手芸器具このあたりまでは納得できます。洋傘、バケツ、煙突,棒炭、セメント、パテ、痰壷、自転車のタイヤ、布団、毛布、ガラコークス、釘、このあたりになるとまるでホームセンターか‘よろずや’といった趣です。極めつけはリヤカーです。リヤカーといっても今の学生には「それって何」という反応しか返ってこないでしょう。自転車の後ろにつける荷車のことです。意外やこれが必需品だったらしく、割り当てが足りず、かわりに大八車を斡旋すると言う通達まで来ていました。いやもう、文部省ならぬ物資調達省とでも言いたいところ、先人のご苦労が偲ばれます。
※写真(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

百花繚乱!今どき武庫女生のお名前 2007年6月29日

 昔の卒業生のことを調べている過程で、ちょっと面白いアイデアを思い付きました。今の学生の名前と60数年前の卒業生たちの名前とを比較して、それぞれのベスト10を選び出してみようと言うのです。ずいぶん変わっていることは当然予測できましたが、これほどまでとは、結果はご覧のとおり、鳴松会(同窓会)事務室のパソコンの名手、渡会さんの労作です。

1944年〜'54年の卒業生 2006年度卒業生
1位 和子 1位 愛(アイ メグミ)
2位 幸子 2位 裕子
3位 節子 3位 彩
4位 美代子 4位 陽子
5位 昭子 5位 由佳
6位 澄子 6位 綾子
7位 美智子 7位 智子
8位 敏子 8位 麻衣
9位 良子 9位 朋子
10位 弘子 10位 彩香

 右の表は、一応「文字」を中心に集計したものですが、「読み」を中心に集計しますと、結果はがらりと変わります。ことに現代の名前の場合「読み」の表記はさまざまで、まさに百花繚乱といったところです。読みのベスト3は1位ユカ、2位ユウコ、3位ユキです。どうやら現代人は「ユ」という音がお気に入りのようです。ユカの場合表記は有加、由佳、結花、友香、友華など28種類、ユキの場合は由紀、有紀、由貴など29種類に及びました。また、字と音と、双方で人気のあったのは裕子さんで、ユウコと読んでもトップだし、ヒロコと読む中でも寛子についで2位の人気でした。戦前のヒロコは弘子や博子が多いのですが、現代のヒロコは裕子と寛子が好まれているようです。ゆったりとして心がのびのびしている様を言う裕寛という語がありますが、そのあたりの感覚が今風なのかもしれません。60数年前の先輩たちのお名前、時代を反映して平和を願い、娘たちの幸せを願う親心の表れでしょうか、調査対象の10年間を通して和子さんの1位、幸子さんの2位は不動でした。そして、先輩たちの名前にはすべて子がついていましたが、いまや子は激減し、裕子さん一人が気を吐いているといったところです。卒業生の数は膨大な数で、残念ながらすべての時代にわたって調査はできていませんが、いつの頃から由佳さんや愛さんたちがベスト10に登場するようになったのか、いずれ明らかにしようと思っています。

女専時代、学生の出身地は 2007年5月30日

在学者の出身都道府県別調査票 本学の前身武庫川女子専門学校の「在学者の出身都道府県別調査票」なる公文書が出てきました。昭和23(1948)年度に行われた文部省調査への報告書です。次年度に控えた新制大学移行への学制改革前夜、本学院にとっては女専完成年度であり大学移行申請に大わらわの年です。この年国文、家政、被服に加えて英文科が新設され50人が入学しています。調査書によりますと在学生の92パーセントが京阪神の出身者です。終戦直後、食糧事情や交通事情も悪いこの時代、さすがに関ヶ原から東の出身者はいませんでした。しかし、北は富山、石川、西は広島、愛媛など四国各県、九州では宮崎の出身者が2人在学していました。出身地の分布は西日本を中心に17府県にわたっています。
 それから60年後、現在の在学生出身地分布はどんな様子でしょう。直近のデータはあいにくまだありませんが、2年ほど前に広報室が調べたところによりますと北関東、東北の一部の県を除いて北海道から沖縄までほぼ全国を網羅していました。本年度の入学者についてはまだ全てのデータが整っていませんが、中間集計によりますと近畿地区出身者が75パーセントほどを占める一方、青森、岩手、宮城、東京、山梨、宮崎など入学者空白都県がいくつか目に付きます。各学科定員50人の4学科だった、ささやかな女子専門学校と、4学部13学科の総合大学とを直接比較するのはいささか乱暴に過ぎますが、60年の昔ほどではないにしても、近畿地区を中心にした西日本がバックグラウンドであることには違いありません。そんな中で、関ヶ原から東にもそれなりに健闘しているとは言えるでしょう。ここ数年、本学の卒業生が、横浜や神奈川県で、数多く教師に採用されています。これから、箱根峠を越えて入学してくる、関東育ちの武庫女2世が増えてくるかもしれません。)

「鐘の鳴る丘」を知っていますか? 2007年4月7日

昭和21(1946)年〜22(1947)年頃、武庫女に付設されていた保育所の園児たち 広島の濱野さんという先輩から届いた写真です。この集合写真に写っているのは昭和21(1946)年〜22(1947)年頃、武庫女に付設されていた保育所の園児たちです。濱野さんご自身も2列目、左から6人目に写っています。みんなニコニコしていてとても元気そうです。履物は不揃い、服装はまちまち、制服もなかったようですが、それでもみんなこざっぱりとしています。若い保母の先生もはちきれそうな「健康優良児」です。なんだ、フツーの保育所の昔の写真じゃないか、とお思いでしょうか。
 前々回、「武庫女は農学校だった?」の記事を思い出してください。太平洋戦争の末期、深刻な人手不足や食糧危機に陥ったとき、国は「高等女学校ニオイテハ成ルベク左の施設ヲ為スベシ」として農地実習地や保育所を作るように指導したのでした。武庫女付設の保育所もこのときに設置されました。昭和19(1944)年のことです。同時に、保育婦養成所(後の保育専攻科)も開設されます。保育所はそのあと昭和23(1948)年に短い歴史の幕を閉じましたが、保育専攻科のほうは戦後女子教育の充実と高度化の流れを受けて、女子専門学校開設への大きな糸口になったのです。戦争から平和へ、女性の開放、教育の民主化と機会均等、激動の時代のただ中にあった武庫女。その歴史の一こまをこの写真は証言してくれているのです。それも見る者をほっとさせるような明るく健康的な姿で・・・。
 時代はまだ敗戦から立ち直ることができず、貧しくつらい世相がつづいていました。悪性のインフレや食糧危機は市民の生活を直撃します。大都市部ではヤミ米が横行し、そのヤミ米を買うことを潔しとしなかった、ある判事さんが栄養失調で亡くなられたニュースは世間を粛然とさせたものです。ちまたには、戦争孤児たちがけなげに生きる姿を描いたラジオドラマ、「鐘の鳴る丘」の主題歌が流れていました。それを思うと、豊かな田園地帯が残っていた本学の周辺、鳴尾地区はまだ恵まれていたのかもしれません。
 「青い山脈」の若く明るい歌声が、暗い世相を吹き払うように響き渡るのはまだ何年か後のことです。その昭和24(1949)年、わが武庫川女子大学は誕生しました。

女子高生の学部選択 2007年3月14日

 先日ある新聞に、20年前と現在、女子高生の進学する学部選択が大きく変化したという記事が載りました。文科省統計によると20年前の1985年には大学入学女子の3人に1人が文学部など人文系の学部に進み、トップシェアーだったのが、いまは逆に30%が社会科学系になって人文系は2位に下がり、20年前の医学部生の男女比は6対1だったのがいまや3対1に躍進した、というのです。
 それでは本学が開学した昭和24年当時、女子の大学進学事情はどうだったでしょうか。残念ながら文科省の学校基本調査報告書にも女子の進学率は載っていませんが、昭和29年(1954年)度から出ている数字を見ますとわずか2.4%(短大を含めても4.6%)でした。
 過日、70年史の取材で兵庫県加東市にお住まいのIさんという卒業生にお会いしました。Iさんは当時女子専門学校の1年生、くしくも学制改革の節目に当たる学年でした。旧制高校や専門学校は昭和23年(1948年)が最後の募集で、翌24年(1949年)には旧制専門学校2年生に進むか、その年発足した新制大学1年生としてもう一度受けなおすか選択を迫られた問題の学年です。Iさんはご家族、特にお母様の強いご希望で被服科に在籍されていたのですが、当時の女子教育に対する家族や社会一般の考え方と、新しい時代に向かって自己主張を始めた娘たちとの葛藤がしのばれるお話を聞くことができました。逓信省の官吏だった父上のもと、将来の良妻賢母となるべく、花嫁修業の教養の一環として女専の被服科に進まれたわけです。「英文科に行くのなら学費は出しません」とお母様に宣言されてあきらめたそうですが、英文科に入りたい思いもなかなか消すことができなかったそうです。そんな時、新制大学は発足したのです。せっかく女専の1年を終えたのに、また大学を4年間、一から再スタートするということはそれだけ結婚の時期が遅れるわけで、Iさんにとってもご両親にとっても大問題でした。まだ世間には結婚適齢期という考え方が強く残っていたからです。結局Iさんは女専を卒業して家庭に入られたのですが、時代はそのままIさんを家庭の中だけに置いてはおかなかったのです。その後女専で取得した教師の資格が生かされることになり、長く高校に勤務されました。

2007年4月に完成予定の建築学科新学舎 再び女子の進学率の話です。図書館のレファレンスが調べてくれたデータによると、昭和29年(1954年)以後も2〜3%台の数字が続きます。10%台に載ったのはようやく昭和48年(1973年)のことです。そして最近のデーターでは、18歳人口の38.5%の女子が大学に進みます。短大をあわせれば男女互角の進学率で、ともに50%を越します。本学も開学当初の10年間、大学は苦戦しますが、短大が一足早く全盛時代を築きました。いまや学部学科も多様化し、男性専科の感があった建築学科さえ本学には誕生しています。(イラストは2007年4月に完成予定の建築学科新学舎です。)

武庫女は農学校だった!? 2007年2月19日

 本学のある西宮市鳴尾地区はかつてイチゴの産地だったことは前にも書きました。20世紀の初めごろ、近代化する大阪や神戸を背景に、鳴尾はアーバン・リゾートとして大掛かりな開発が行われました。甲子園球場や名門鳴尾ゴルフクラブ、そして西の迎賓館とも呼ばれた旧甲子園ホテル(本学の上甲子園キャンパス)などが立地して、独特な阪神間モダニズム文化が形作られたことはよく知られています。イチゴ畑でのイチゴ狩りは、そうしたアーバン・リゾートの、田園的な楽しみの一つとして大いににぎわったわけです。
 本学創設の頃は、まだ一面にイチゴ畑が広がっていました。ストローベリ・フィールドの中の女子学園といえば、のどかでロマンチックな雰囲気がいたしますが、そんなのどかさもやがて大きく変化します。
 時代は次第に戦時色を濃くし、ついには太平洋戦争へと突入してゆきます。ここに掲げた写真、昭和20(1945)年ごろの武庫女生たちが農作業をする珍しい風景です。これは何も、武庫女が農学校だったわけでも農学科があったわけでもありません。敗色の濃かった戦争末期、日本は深刻な食糧不足に陥ります。国の方針で、空地を利用し、学生たちにも食糧生産に携わらせたのです。

昭和20(1945)年ごろの武庫女生たちが農作業をする珍しい風景 「近代日本教育制度史料」によりますと、高等女学校規定(昭和18〈1943〉年)に「高等女学校ニオイテハ成ルベク左ノ施設ヲ為スベシ」として、寮舎、農地実習地、幼稚園または保育所などが列挙されています。つまり、女生徒たちにも食糧生産や保育の仕事を手伝わせたのです。何気なく見過ごしてしまいそうな一葉の古い写真にも戦争と平和、遠い先輩たちが体験した喜びと悲しみの記憶が刻みこまれているのです。
 ちなみに、武庫女の農園は現在音楽学部のあるキャンパスにありました。武庫女印のお米やサツマイモは果たしてどんな味がしたのでしょう。

「スチューデント・ガイド」いま昔 2007年1月22日

 古い「学生ガイドブック」が出てきました。現在の「スチューデント・ガイド」の前身です。教務部の地下の倉庫から教務課の方が見つけ出してくれました。1952(昭和27)年度のものは半ば欠損しており、ほころびはあるもののほぼ完全なのは1953(28)年度から残っています。大学が開学して3・4年目のいろいろな情報を今に発信してくれる貴重なタイムカプセルです。物資の乏しかった時代を反映して、いわゆるわら半紙で、ガリ版刷りの質素なつくりです。現在の「スチューデント・ガイド」は上質紙の重々しい冊子で、履習案内と学生生活の二分冊構成になっており、総ページ数は400ページを超えています。「学生ガイドブック」の方はすっかり赤茶けてしまって高松塚の壁画なみにもろくなっています。わずか40数ページの小冊子にすぎませんが、語りかけてくるものは「スチューデント・ガイド」にも劣らないでしょう。1949(昭和24)年、武庫川女子大学は最初の私立新制女子大26校のうちの1つとして発足しました。
学生ガイドブックまだ学芸学部のみのささやかな単科大学でした。しかし、掲げられたミッションには、今に続く伝統のDNAを読み取ることができます。

 「…平和的な世界文化の進展に寄与すべき婦人を育成し、あわせて高等学校、中学校および小学校、幼稚園の教諭を養成する事を目的としている」
 学校案内にはそのように書かれています。教職に強い武庫女と言われ、多くの人材を教育界に送り続けている原点を見る思いがします。また、この冊子には珍しい「忘れ物」が挟まってもいました。日本育英会(現日本学生支援機構)の募集を知らせる小さなチラシです。これも赤茶けてしまって見る影もないのですが、当時の学生事情をしのばせる大切な資料です。それによると1か月の奨学金は2000円でした。半世紀以上前、今の学生にとっては祖母の世代にあたります。わずか2000円、まだ貧しかった時代の学生たちにとってどんなに価値があったことか、調べてみてもいいでしょう。ちなみに、現在の奨学金は私学の場合、月額68000円(自宅外)です。

“幻の8人衆” 2006年12月13日

8人の卒業写真 第2次大戦後、わが国では学制の大改革が行われました。旧制武庫川高等女学校も1947年に新制武庫川学院中学校になり、1年後の1948年にはその上に新制武庫川学院高等学校が開設されます。ですからこの年度で武庫川高等女学校は、創立以来10年の歴史の幕を閉じたわけです。このたび70年史を編集するに当たり、旧制時代の女学校や女子専門学校の史料を収集していますが、作業に協力してもらっている鳴松会事務室(同窓会)の方から疑問の声があがりました。「どうも不思議です。この8名の1期生は在学1年で卒業したことになりますが…」。(事務室の4人にはいつも、70年史の資料集めに協力していただいています。とても熱心な方ばかりなので、私は密かに “鳴松会探偵団”と呼んでいます)
 つまりこういうことでした。1949年からすべてが新制になり、生徒募集も新制で行われるようになりました。ですから新制高校1期生の卒業年度は1951年度で、卒業は1952年3月のはずです。ところが、鳴松会の卒業生名簿によりますと新制高校1期生はなんと翌年の1950年3月卒となっているのです。本当だとすると在学が1年、しかも卒業生はたったの8名。そんなはずがない、というのが鳴松会探偵団の疑問でした。名簿を頼りに一人一人に当たっていったのですが、すでに亡くなられた方もあり難航するかに見えたのですが、問題は意外に身近なところから解決しました。8人の卒業生のお一人、増田登美子さんが西宮でご健在だったのです。しかも、武庫川女子大生相手のアパート「渡部ハイツ」を経営されていたのです。
 謎は解けました。増田さんたちのクラスは、高等女学校最後の卒業生として1949年3月に確かに卒業しました。92名の方が高女卒として鳴松会名簿に載っています。その一方で、旧制から新制への過渡的な措置として、希望者は新制高校の3年生として編入できるという臨時制度が採られたというのが真相でした。上掲の卒業写真の8人が栄えある新制高校第1期生として卒業された”幻の8人衆”というわけでした。

*写真説明
 中段右端が増田さん、上段の真ん中が親友の岡本さん。前段左は公江喜市郎学院長です。ちなみに岡本さんは往年のミス西宮。お二人は来年カリブ海クルーズに参加するそうで、元気印のおばーちゃんを自認しておられます。

この鐘とともに 2006年11月27日

 1939年4月、武庫川高等女学校は武庫郡鳴尾村に産声を上げました。武庫川のほとり、一面のイチゴ畑に囲まれたのどかな田園地帯であったと当時を知る人たちはみな懐かしそうに話されます。そのイチゴ畑の外れにうどん屋さんがあって、おなかをすかせた帰り道、のしいかの天ぷらが一枚乗った「する天うどん」という1杯のかけうどんが楽しみだったといいます。右掲の写真は当時使われていた鐘、持ち手の部分に「武高女」と彫ってあります。授業のはじめと終わりに、職員の方がカランカランと鳴らして時を知らせたものです。本学の秘書課の物置の奥から出てきました。武庫川学院はこの鐘の音とともに始まったのです。

▲ページトップへ