帝国ホテルから引き継がれた日本のホテル文化 武庫川女子大学 生活美学研究所 三宅正弘 准教授

 今日は、せっかく帝国ホテルにお越しいただくのだから、食べるものの方面からも、とお話をいただきましたので、最初にケーキのお話をしたいと思います。
 私は、毎日必ず一つケーキを食べることにしています。そして、食べたケーキをこのようにノートにつけています。365日続けているのです。また、年によってテーマを1つ決めています。2004(平成16)年は「ミルフィーユ」でした。こちらの帝国ホテルのミルフィーユもとてもおいしく、また一つずつ違っています。日によっても違っています。同じものに絞っていると、何か違いが分かるのです。
 ケーキは、美しく食べるためには、その建築構造をよく理解していないといけません。どこにフォークを入れようかと、「力学」を頭の中で考えるわけです。さきほどのミルフィーユは、(パイ生地が横に重なっているので)普通のままではとても食べにくいですよね。(パイ生地が縦になるように)ケーキを立てるだけで変わってきます。こんな風に、「力学」を学生たちにケーキを使って解説しているのです。

ホテルの厨房と野球

ホテルの厨房と野球 なぜ、最初にケーキのお話をしたのかというと、実は、私たちの大学の近くで、建築だけでなく、ライトの名がつくところがあるのです。「ライト洋菓子店」というお店が残っています。=写真左=ご存知でしょうか? ライトという名前がついているのは、これと関西ではもうひとつ、「ライト坂」というところがあります。私は、芦屋のライトの山邑邸のすぐそばで生まれたのですが、1999(平成11)年に、芦屋市が市民公募でこの坂の名前を募集していたのです。私も応募のはがきを出して当選し、名づけ親として、看板まで立てていただきました。=写真右=皆さんも山邑邸に行かれる時は、見ていただければと思います。

クラシックホテル物語 ライトは、日本で、特に日本のホテル文化に、非常に大きな影響を与えているのです。
先ほどの「ライト洋菓子店」ですが、どういう方がこの洋菓子店をされたのかをご紹介します。甲子園ホテルには野球チームがありました。ユニホームは、胸と左の肩に甲子園ホテルのトレードマークの打ち出の小槌がついていて、ホテルのチームであることを誇っています。このチームのエースの4番は、林田末吉という方で、製菓長でした。この林田氏が、1975(昭和30)年にオープンしたのが「ライト洋菓子店」なのです。
 この時代、ホテルの厨房で一番流行していたのが野球です。帝国ホテルも野球大会に出場していて、帝国ホテル第一チーム、帝国ホテル第二チームがありました。このあたりのチームでは、第一ホテル、東京會舘などが強かったのですが、帝国ホテル第二チームといっても優勝候補になるぐらいの実力がありました。こういった、ホテルの料理人たちは、慶応の宮武三郎、水原茂といった選手と対戦しているぐらいなのです。それほど、六大学野球のスター選手との交流が行われていたのです。この時代、野球はアメリカのスポーツとしてハイカラな競技でしたが、ホテルも最もハイカラな職場で、厨房でその文化が交わっていたのです。

白系ロシア人の活躍

 さて、甲子園ホテルの名物として、パンフレットに常に出てくるのは、独特のすき焼き、甲子園ホテル特製の西洋菓子、そしてチョコレートが挙げられます。このホテルの一番の名物は、チョコレートなのです。実は、甲子園ホテルの最後の製菓長、先ほどの(ライト洋菓子店の創業者)林田末吉氏も、甲子園ホテルに来る前は、新宿中村屋で、スタンレー・オホツキーという方にロシアの菓子を学んでいました。

 甲子園ホテルの初代製菓長はどんな方だったかというと、白系ロシア人のオーグルスという方、と言われています。この方が甲子園ホテルのベーカーチーフだったわけですが、帝国ホテルと共通するところがあります。林愛作は1909(明治42)年に支配人として帝国ホテルに迎えられ、帝国ホテルの刷新をしました。フランク・ロイド・ライトをアメリカから呼んできたこともそうなのですが、有名なのは、ホテルに郵便局を初めて開いたこと。今でも、ここ帝国ホテルに郵便局がありますが、郵便局の初代局長は林愛作です。あとは鉄道乗車券の販売、クリーニングサービスのための自営のランドリーを設けたことや、パンの自家製造もあります。今のホテルでは当たり前のことですが、日本のホテルで初めてパンの自家製造をしたのが、帝国ホテルでした。当時、経営者の大倉喜八郎氏が、ロシア宮廷出身の料理人、イワン・サヤゴンをベーカーチーフとして招きました。帝国ホテルのパンの自家製造プランに、このサヤゴンが関わっているわけです。林愛作が帝国ホテルを去って、新しく開いた甲子園ホテルのベーカーにも、やはりオーグルスという白系ロシア人をベーカーチーフに招いたということが、帝国ホテルとの共通点でもあります。

 こうした、白系ロシア人は、大正時代に、ロシア革命から逃れてたくさん日本に来ていました。彼らが集まったのが、私たちの大学のある、西宮・芦屋・神戸なのです。例えばメッテルやルーチンといったロシアの音楽家が来日しており、朝比奈隆さんなどを育てたのです。こうした音楽家が集まった町に多くのベーカーがいたという背景があります。

林愛作が目指した「日本のホテル」

 さて、甲子園ホテルでも出てきましたが、ロシア菓子ともう一つホテルの名物であったのが「すきやき」でした。東京會舘のパンフレットには、「スキヤキ・ディナー・ルーム」と外国人向けのパンフレットの写真で一番大きく取り上げています。当時の日本のホテルでは、どちらかというと外国人の方をもてなす西洋料理が有名ですが、林愛作が、帝国ホテルで考えていたことは、日本のホテルを作るということでした。海外のホテルではなく日本のホテルを作っていくことに非常に力を入れていました。もっとも、そのことによって料理長と対立するということも、よくあったようです。料理でも、しょうゆ味や、和風の味付けをメインダイニングで提供し、そのことで料理長と対立しています。
 そんな中、1927(昭和2)年に、帝国ホテルが当時経営していた東京會舘が、「すきやき日本室」を始めました。東京會舘の支配人は、林英策。林愛作の弟の英策です。1930(昭和5)年、同じ頃に、お兄さんの林愛作も、甲子園ホテルで「すきやきルーム」をはじめたのです。すき焼きは、「帝国ホテル百年史」にも、和食を入れた最初と書いてあります。
 東京會舘の「すきやき日本室」は好評で、1940(昭和15)年に、帝国ホテルに「日本間すきやき食堂」がオープンしました。ホテルは西洋ばかりを追っているように見えますが、林愛作をはじめ、この時代のホテルは、「日本のホテル」を目指していたのです。

 甲子園ホテルでは、建築ばかり目立ちますが、私が素敵だなと思うのは、部屋の間取りで、畳の間を入れたことです。畳は、意匠としての日本の表現だけでなく、経営の面からも考えられたものでした。ベッドルームだと一つの部屋にベッドが2つで、2人しか泊まれませんが、畳の間であれば、何人でも家族で泊まることができる。そういう経営的なことも含めて考えられていました。また、当時ホテル業界がほとんど海外に視察に行く中で、林愛作は「日本のホテルは旅館に学ばないといけない」と特に強調していました。
 この時代のホテルは、和風のしつらえや要素をいたるところに入れています。1936(昭和11)年の軽井沢万平ホテルには、飾り棚、床の間などがあります。これは意匠としてのしつらえでもありますが、同じ時代のホテルで、同じように「日本」を追っています。

ライトと弟子による三色の石物語

 帝国ホテルに関連して、ライトがあこがれた「蜂の巣石」のことを谷川先生に教えていただきました。ハチの巣のようにぷつぷつと穴が空いている、こういう赤い石を使いたかったそうです。
 ライトは、この「蜂の巣石」は産出が少なく使えなかったので、結局は青白い大谷石(おおやいし)を使うことになりました。赤い石から青白い石、暖色から寒色に変わってしまったのです。ライトの弟子、遠藤新は、山邑邸では大谷石を使ったわけですが、甲子園ホテルでは、最終的に使われたのは、日華石という石でした。この日華石と蜂の巣石の石切り場は石川県小松市にあり、実はほとんど目と鼻の先に位置しています。この、遠藤とライトをめぐる石の物語は、私は「三色の石物語」として書かせていただいたことがあります。
 この大谷石、谷川先生に教えていただきましたが、いまだに建築を飾る時に使われています。日光金谷ホテル、金谷ホテルのバー「デイサイト」の名は大谷石の学名が使われています。このバーは、ホテルでは、一説によれば、ですが、ライトが設計したのではないかとも言われています。

クラシックホテル物語

クラシックホテル物語 私の研究の方法は、ひとつのことに絞るということ。ケーキを食べ続け、これだけは20年やっているのですが、今年のテーマはクラシックホテルということで、この時代のホテルを泊まり歩いています。本当は今日に間に合えば良かったのですが、3月に「甲子園ホテル物語」という本を出版します。広告だけ入れさせていただいています。買っていただかなくてもいいのですが、書店で見かけたときには、目立つところに置き直していただければ幸いです。(笑)

 また、箱根に富士屋ホテルというホテルがあります。こちらも「富士屋ホテル物語」として、山口由美先生がお書きになっておられます。山口先生は、3月の講演でお話いただくのですが、ここのメインバー、ビクトリアは、内装自体が、非常にライトを感じさせる、と言っておられます。このバーが作られた時の富士屋ホテルの支配人は、山口正造(山口由美先生の大叔父)でした。この山口正造支配人は、帝国ホテルで、林愛作のすぐ次の支配人でしたが、帝国ホテルを辞した後、富士屋ホテルに戻りました。このバーは、当時はビリヤードルームでしたが、非常に色濃くライトが残っています。いずれにしても、日本のクラシックホテルのバーを見ていると、「帝国ホテル」「ライト」が、ひとつのテーマになっているように思えます。
 ライトは、亡くなってから50年ですが、いまだに稼いでいる。いまだにお仕事しないといけないとは、結構忙しい方だなあ、と思います。

 もちろん、こちら(現・帝国ホテル)2階のオールドインペリアルバーはライトの空間そのものです。私は、このオールドインペリアルバーで感激したことがあります。私自身は、ホテルの空間よりは人が好きなのですが、こちらのホテルマンはお客様が何を考えているかを、さっと察知されます。バーでカクテルのマウント富士、というのをいただいているとき、びっくりしたのです。びっくりしながらグラスを見ていると、何種類かグラスを出してきてくれました。甲子園ホテルのグラスとして残されているものは、甲子園ホテルのマーク(打ち出の小槌)に市松模様が輪を作っています。これは、今、オールドインペリアル出されているグラスとほぼ同じなのです。マークが、甲子園ホテルは、打ち出の小槌なのですが、帝国ホテルは幾何学模様、2つのグラスは本当にデザインで共通性があります。当時、西の帝国ホテルといわれた甲子園ホテルとの関係がうかがえます。

 帝国ホテルをてがけた、大倉喜八郎氏が、1936(昭和11)年に開業した川奈ホテルというホテルがありますが、このホテルも非常に似た雰囲気を持っています。バーも当時のものが色濃く残っています。川奈ホテルのロビーは、写真を並べてみると、甲子園ホテルのロビー=写真=とよく似ていて、とても他人とは思えないと言われるぐらいです。

三つの帝国ホテル

ライトと弟子による三色の石物語 帝国ホテルが与えた影響は、甲子園ホテルとともに、1935(昭和10)年開業の新大阪ホテル、今のロイヤルホテルがあり、名実共に82人のスタッフが帝国ホテルから移っています。私は、帝国ホテル大阪と合わせて、関西において西の帝国ホテルは3つあると思っています。
 日本的なホテル、いわゆる「ライト式」は甲子園ホテルに伝わりましたが、遠藤新は林愛作が提案した畳の間、これを「林式」と呼びますが、を取り入れています。のちに、笹屋ホテルで「林式」は完成しています。日本の旅館には奥に応接間がありますが、これは遠藤新が考えたといわれています。ライト式ホテルは甲子園ホテルでいったん落ち着きましたが、遠藤新が取り入れた「林式」は、今でも日本のホテル・旅館に息づいているのです。

 私はいろんなホテルに泊まっているのですが、海外の例では、フィリピンのマニラホテルは、翠の屋根に三層の屋根を持っていて、甲子園ホテルと共通するデザインのものがありました。このように同じ時代の作られたホテルを泊まると、その時代のことが分かってきます。続きは3月に、またお話したいと思います。

 皆さまが、武庫川女子大学の甲子園会館(旧甲子園ホテル)=写真=に来られることがありましたら、ご連絡ください。ライト坂、山邑邸などライトにまつわる場所をご案内できると思います。最初にご紹介した、ライト洋菓子店を含め、関西に根付いた食文化は、ホテルに色濃く残っているところがあります。そのあたりもご紹介させていただきます。
 ありがとうございました。

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