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第3話「父と暮せば」(2010年8月)

 新潮文庫で100頁足らずの井上ひさしさんの戯曲である。

 あの日から3年後の夏、広島でひっそりと暮す23歳の娘とこの世にはない、父親が語る芝居だ。生きているものと死者とのアクの強い広島弁が交錯し、涙と笑いに繋がってゆく。

 図書館という言葉がなんども登場する。娘は貸出係として勤めているが父や親友や多くの人を失い「しあわせになっちゃいけん」とかたくなにまで思っている。でも、「原爆資料はありますか」と図書館をたずねてきた青年に胸をときめかせたことを、あの世の父は知っている。だからひょっこり現われて娘の背中を押そうとする。

 科学者である青年は町を歩いて原爆の痕跡を残す資料を集めている。それを図書館で保管できないかという相談をする。娘は悩みながらも自宅で預かることを決断する。あの惨状を交えながらテンポ良く続くやり取りには哀しさが滲む。娘は図書館の仲間と夏休みの子どもたちに聞かせるために人々から集めた昔話を読む。父がオチをあれこれ考えるが、娘は叫ぶ。

 「話をいじっちゃいけんて!前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える、これがうちら広島女専の昔話研究会のやり方なんじゃけえ」

 記者になって最初の任地は広島だった。まだ被爆のあとが暮らしとともにあった。「人の影」の石段は旧住友銀行広島支店にそのまま残っていた。よく雨宿りをしたが、影はくっきりと足元にあった。ケロイドの跡を残す女性は身近にいた。そんな時代でも語り継ぐことは難しくなっていた。取材で同じ言葉をよく聞いたことがある。「話をいじっちゃいけん」と。

 「恋の応援団長」をかってでた父の台詞は小気味良く迫る。

 「ほいじゃが。あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもらうために生かされとるんじゃ。おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝えるところじゃないんか」娘は揺らぐ。

 「人間のかなしいかったこと、たのしかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが。そいがおまいに分からんようなら、もうおまいのようなあほたれのばかたれにはたよらん。ほかのだれかを代わりにだしてくれいや」

 「ほかのだれかを?」
 「わしの孫じゃが、ひ孫じゃが」

 娘はついに決断する。そして「おとったん、ありがとありました」と万感の思いを父の背に送る。

 ことし四月に亡くなった井上さんは図書館の、活字の魅力を話し続けた。「父と暮せば」にはその想いが凝縮されている。「追悼 井上ひさし」の帯のある文庫本は税別で324円。この夏に読めば、きっと心に風が吹く。

 映画「父と暮せば」は宮沢りえ、原田芳雄、浅野忠信が出演、監督は戦争をテーマに撮り続けた黒木和雄。原作を忠実に映画化された。舞台は劇団「こまつ座」で。演出は鵜山仁。映画版DVDが薬学分館、舞台版VTRが中央図書館にある。

<左>『父と暮せば』 プレミアムエディション【薬学分館2階AV, 778‖CH, 1018119】
<中>『父と暮せば』 こまつ座ビデオ劇場;1【2階,775.1‖IN,0492208】
<右>『父と暮せば』 新潮文庫 【受入予定です】