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第33話 愛のゆくえ(2013年2月)

 不思議という言葉が何度も浮かんでくる。主人公が働く図書館も、あまりにも美しくて周りを困惑させる恋人も、堕胎のためにふたりで旅立つメキシコの小さな町も、なにもかもが不思議のなかに存在する。それでも面白い。立ち止まって考えなくてもいい。幻想の流れのまにまに漂えば、確実に読み進む。こういう物語も楽しい。小説らしさが溢れている。

 その図書館はサンフランシスコにある。といっても実在はしない。蔵書を備えてはいない。人々が一番大切な思いを綴った本だけを受け取って保管する。十進分類法や索引もない。著者が気に入った棚ならどこにでも自由に置くことができる。世界のどこを探しても見つからないたった一冊の本だ。「わたし」は一日二十四時間、一週七日間、本を持ち込んでくる人のために、ここにいる。住み込みで、もう三年も外に出ていない。

 2,3日前のことだ。午前3時に、お婆さんがやってきた。80歳になるだろうか。その本をまるでこの世でもっとも大事なもののように誇らかに渡す。題名は『ホテルの部屋で、ロウソクを使って花を育てること』。チョコレートクッキーとコーヒーをゆっくりと味わって、お婆さんは住まいであるホテルに戻る。その日は二十三冊。最初は午前6時半ごろだった。5歳の少年、チャック著の『ぼくの三輪車』、革が大好きなオートバイ狂、S・M・ジャスティス著の『革の衣服と人類の歴史』、いちどもキスをされたことのない中年婦人、スーザン・マーガー著の『彼は夜どおしキスをした』。こんな本がやってくる。

 夕方、若い女性が訪れた。本には題名が書き込まれていなかった。19歳。あまりにも美し過ぎる。ヴァイダという娘は肉体的に美しいことがどれだけ恐ろしいことか、と語る。美貌を見とれた男が自動車事故で死んだ。80歳の老人がソフト・クリームを足元に落とした。どこにいても、口笛を吹かれ、声をかけられ、卑猥な言葉を浴びせかけられる。本はその苦悩を記したという。「わたし」とのやりとりが彼女の心を平穏にさせてゆく。そして「この奇妙な図書館で、あなたのそばに横になりたい気持ちよ」と結ばれる。

 物語は大きく方向を変える。「わたし」は図書館という閉鎖空間から一気に飛び出すことになる。ヴァイダが妊娠したのだ。子供を育てる環境にはない。ふたりともその用意はできていない。堕胎しかない。『愛のゆくえ』の原題は『The Abortion』。妊娠中絶である。メキシコのティファナにいる医者を紹介してくれたのは洞窟に住むフォスター。洞窟というのは、図書館に入りきらない本を保管するところだ。彼は留守番も引き受けてくれた。

 久々に図書館から出る「わたし」。飛行機に乗るのも初めてだ。「ひきこもり」よ、さようならだ。やはり空港ターミナルで三人の男がヴァイダに言い寄った。女たちは嫉みでヒステリーでも起こしそうだ。サンディエゴに着きバスでティファナに向かう。目ざす医者に出会ったところからは、手術室の場面が延々と。決して緊張感はなく、ユーモアをたたえながらの描写と会話が続く。しかし、飽きない。言葉が生きている。さらりとはしているが、妙に残る。旅は終わり、戻った図書館では異変が起きていた。フォスターが放り出されて別の女性が席に座っているのだ。結局三人は図書館を去る。やがてバークレイに小さな家を構え、ヴァイダは大学に戻るために勉強を始めた。「わたし」は学生たちの知性的な香水を嗅ぎ、政治集会に参加する。やがて「わたし」はバークレイで英雄になるだろうとヴァイダは言う。外の世界への旅立ちである。

 図書館は「わたし」にとって、何だったのか。居心地のいい空間。それは本を持ち込んでくる人々にも、同じことだろう。だが、どちらも「孤独」であった。巧みに心理のひだを描く行間にも寂寥が滲んでいる。

 ブローティガンは1984年10月、カリフォルニアの自宅でピストル自殺をした。一人暮らしだったから死亡日時は確定できていない。享年49。

 1935年、ワシントン州タコマ生まれ。貧しく職業を転々とし、64年『ビッグ・サーの南軍将軍』でデビュー。『アメリカの鱒釣り』『西瓜糖の日々』などで脚光を浴び、学生たちの新しい英雄になった。『愛のゆくえ』は71年発行。彼の作品としてはもっとも長い小説である。伝統的な文学のかたちにこだわらず平易な言葉で美しい世界を創りだした。ハヤカワepi文庫。訳は青木日出夫さん。