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第43話 アイム・ヒア(2014年2月)

 やっと図書館で働く男性を主人公にした映画に出会った。30分ほどのSF短編である。近未来のロスアンゼルス。ロボットが人間たちと暮している。その一人、シェルダンの顔は段ボールの箱をかぶったように四角でできている。ボタンやスイッチなどが付いていて、目は動く。手も足も金属である。通勤バスには人間も乗っているが、どちらも自然に生きている。車窓からの景色にも、ロボットが現れる。きょうも、ロボットが車にはねられ胴体から配線がむき出しになって倒れている。図書館と自宅の間を移動するだけの単調な暮らし。帰宅すれば、ソファに座って体からコンセントを伸ばして充電器を繋ぐ。

 彼が恋をした。相手は、はつらつと生きる女性のロボット、フランチェスカだ。彼女は禁じられている車の運転をする。同じロボットでも人間に近い顔をしている。「箱型の顔」という古いタイプのシェルダンには、まぶしくて仕方がない。図書館の場面、彼はカートを押しながら書架の間で、本のバーコードを読み取っている。単純な作業のようである。

 友人たちとドライブに出かけた。フランチェスカは「I'M HERE」と書かれた紙を交通標識や街路樹にも貼ってゆく。彼女は、あきらかに主張している。われわれは単なる労働力としての存在なのか。人格はないのか。「わたしはここにいる」。心が通い始める。でも図書館の業務に変化はない。天井の空間から大空を横切る飛行機を眺めるのが、唯一の非日常性であった。

 しかし、人を愛する感情は抑えようがない。デートを重ねる。仕事にも気持ちが現れる。「おはよう」と声をかけながら本を運ぶ。そして、ベッドを共にする。コンセントをフランチェスカの耳に差し込む。「ぼくうまくやれている?」「すごくいい」。やさしさに満ちた、おだやかな会話が続く。二人の幸せな時間である。ある夜、二人でパンクのライブに出かける。耳をつんざく音と激しいリズム。人間に交じって踊ってみる。フランチェスカの左腕がちぎれた。床に部品が散っている。どうすることもできない。階段に座りこむ彼女に、シェルダンは自らの左腕を外して付け替える。男の腕はやはり大きい。でも「よく似合うよ」と言いながら、手を重ね合わせる。

 彼女の姿がない。きっと見ることのできない夢を想像したのだろう。部屋にはネズミの人形が並んでいる。父と母、たくさんの子どもたち。手作りの紙の細工だ。メモには「すぐ帰るね」とあったが、なかなか戻らない。ようやくドアを開けた彼女には右脚がない。シェルダンは「僕の夢は足をあげること」と言って、右脚を外そうとする。「私の気持ちも考えて」と拒否するフランチェスカ。しかし、彼はいう。「昨日夢を見たんだ。君が脚を失くしていて、世界中のみんなが君に脚をあげようとしたけれど、君は僕の脚を選んでくれた。嬉しかったよ。彼の松葉づえでの通勤が始まる。

 また、彼女がいない。病院から電話がかかる。駆けつけるとフランチェスカはベッドに横たわっていたが、頭部と胴は分断されている。人間の医師は「助からない」という表情を見せる。シェルダンが懇願している。医師がようやくうなづく。体の入れ替えの手術が終わったのである。シェルダンは首から上だけになった。それ以外のすべてを彼女に移したのだ。でも、まだ目は生きている。車いすに乗るフランチェスカ。その膝にはシェルダンが抱かれている。愛おしそうに見上げる目。「アイム・ヒア」と語っている。

 究極ともいえるラブストーリーである。感情を持ちえないはずのロボットだから、痛みを覚えることのない機械だから描ける物語なのだろうか。わずかな時間の映像だが、心に染みた。献身、自己犠牲。さまざまな言葉が浮かんでくる。なぜ図書館員が主人公で、それも、すこし不器用な「男性」であるのか。よくわからない。深く愛するというキーワードを思ったとき、製作者側にふと浮かんだ職業なのだろうか。

 2010年のアメリカ映画。監督は『マルコビッチの穴』のスパイク・ジョ−ンズ。代表作は『マルコビッチの穴』『かいじゅうたちのいるところ』など。
 『アイム・ヒア』はシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』(原書名『The Giving Tree』)が基になっている。

               『おおきな木』 
                                 【1階絵
本, 絵本‖オオ, 2070386】