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第44話 「アンネ本破損事件」(2014年3月)

 ポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所跡の博物館でガイドをしている中谷剛さんからメールがあった。『アンネの日記』などが東京や横浜の図書館や書店で破られている事件。その被害に彼の著書『アウシュビッツ博物館案内』(凱風社)も含まれているというのだ。中谷さんは唯一の日本人ガイドである。2月末に、卒業旅行としてアウシュビッツを訪問した武庫女の4回生2人がお世話になったばかりだ。3月8日の産経新聞夕刊でインタビューに中谷さんは「非常に残念。こうした犯罪を許さないという姿勢が必要だ」と訴えていた。

 アンネは1944年8月4日にアムステルダムで逮捕され、オランダの収容所から約1か月後にアウシュビッツに送られた。そして、その年の10月27日にドイツの収容所に移され、翌年の3月、姉とともに亡くなっている。

 ニュースを知った時、『アンネの日記』が今なお果たしている使命に対する許しがたい蛮行だと思った。図書館がその現場になっていることにも衝撃を受けた。このコラムの13話でも紹介している。アンネの願いは「わたしの望みは死んでからもなお生きつづけること」(1944年4月5日)であり、「いつか公立図書館へ行って、山のような書物を片っ端から調べられる、そういう日がくるのが待ち遠しくてなりません」(1944年4月6日)であった。その夢を無残に打ち砕いた犯行である。『アンネの日記』はこれまにでも「別人の作品である」などとされたことがある。もちろん、アンネの文章であることは科学的にも立証されている。「世界記憶遺産」でもある。

 反ユダヤ主義の歴史がない日本で、なぜこのようなことが。不気味なできごとに思えて仕方なかった。あの時代に決然とビザを発行して6,000人のユダヤ人を救った杉原千畝もわたしたちの国が生んだ外交官である。ただ、気になったのはヘイトスピーチに見られるように差別表現が氾濫していることだ。容疑者もまた、そのような思想や歴史観に立つ人物だとすれば、民族に対する偏見が日本に存在していると、世界から強い批判を浴びせられるだろう。

 本を破損すること、これを事件名でいうなら「器物損壊事件」となる。破られた本は約300冊。この被害で警視庁が捜査本部を設置するのは極めて異例である。それだけ、事件が及ぼす影響の深刻さを判断したのだ。

 映画「ハンナ・アーレント」も、ホロコーストがテーマである。ハンナは「悪の凡庸」があの悲劇を生んだと断じている。考えることなく、ただ命令に従うという、無思想、無思慮があの大罪を現出させたと、主張する。その通りだと思う。

 言論や表現の自由はかけがえのない「宝」である。図書館は、それを守る責務がある。しかし、それは自然に手にできるものではないことは歴史が教えてくれる。

 2月26日の朝日新聞「天声人語」に「ベルリンの本のない図書館」という長田弘さんの詩が紹介されていた。詩集「奇跡−ミラクル−」に収められている。

 清潔な敷石だけの、静かな広場の真ん中に、
 窓のように、1メートル四方の
 ガラス板が敷かれている。
 ガラス板の下は、明るい光の部屋だ。
 誰も入れない、地下の、方形の部屋の、
 四面はぜんぶ真っ白な本棚で、
 本棚に本は1冊もない。
 ここが、そこだった。

 ベルリンのフンボルト大学の向かいにあるベーベル広場。1933年5月10日、ここでナチスの学生らがハイネ、マルクス、フロイトらの著作を焚書した。その数は約2万冊を超えたとされる。その広場に「本のない図書館」がある。真っ白な本棚は燃やされた冊数を象徴して2万冊分の空間があるという。歴史を刻まなくてはという思いがこもる。

 4月は心浮き立つ頃である。キャンパスに新しい顔が溢れる。私の授業も始まる。その1つが「アウシュビッツ 戦争と女性」である。1回目は『アンネの日記』を考える。今回逮捕された36歳の男は一連の事件への関与を認める供述を始めている。動機はいずれ明らかになるだろうが、この事件を取り上げてあげてみたい。中谷さんの「人ごととせず、今回の行為を許してはならない」という言葉を伝え、思考することの大切さを共有してみたい。

 アンネの本破損事件 2013年2月から2014年2月、東京都内の豊島区など5区と武蔵野市など3市の図書館38館と書店1店で、『アンネの日記』などユダヤ人迫害関連本310冊が被害にあった。米国のユダヤ系団体が犯行を非難。菅官房長官は「恥ずべきこと」と遺憾の意を表明した。3月14日、捜査本部は、杉並区の図書館でアンネ本23冊を破ったとして、この男を器物破損などの疑いで再逮捕している。

              
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