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第55話 「ミーナの行進」(2015年8月)

 

 『ミーナの行進』が読売新聞で始まったのは2005年の2月12日だった。毎週土曜日の朝刊。その年の12月24日まで計46回の連載である。新聞小説とはスタイルが違う。毎回1ページの10段を使う。回数も「行進」のイメージを重ねて「第1歩」から始まる。カラーを使った挿絵も素晴らしかった。そのころ私は読売新聞大阪本社の編集局長だった。JR福知山線脱線事故の年である。その最終回である「第46歩」を読んで、泣いた。小説とはこういう作品のことだとさえ思った。人の心を深く揺さぶる言葉の力、文章の力に圧倒された。

 もう一度手にしてみた。やはり「第46歩」で涙がこぼれた。1972年を芦屋の飾り窓のある瀟洒な洋館で過ごした小学生のミーナと中学生の朋子。30年以上を経た2人の手紙のやりとりが綴られている。

 ドイツで暮らすミーナ。「翻訳出版のエージェントなんて、誰がほめてくれるわけでもない地味な仕事ですが、それでもたまには、ささやかな、かけがえのない喜びをもたらしてくれます。今日、町の本屋さんで、私の手がけた絵本を買っている女の子に出会いました。大事そうに本を抱え、お母さんと手をつないで家へ帰ってゆくその子の後ろ姿を、ずっと見えなくなるまで見送りました。いつも朋子が図書館から本を借りてきてくれるのを、玄関で今か今かと心待ちにしていた時のこと、思い出しました」。そして、夏休み、ドイツで過ごしませんかと誘う。

 岡山にいる朋子。「夏休みをヨーロッパで過ごす計画、実現したらどんなにか素敵でしょう。図書館はお盆の1週間が休館なので、お休みは取れるはずですが」と返信している。「図書館は」。この言葉を、10年前は見逃していた。たった1年を共にしただけの2人。でも、その日々は2人の人生を方向付ける大きな1年であったのだ。そう、この物語は図書館が主人公なのだ。初めて、それに気付いた。さりげない手紙のやりとりのなかに、朋子もまた、本と暮らしているということが潜んでいた。

 ミーナの手紙にある図書館、当時は芦屋市立図書館だったが、今は「打出分室」になっている。小さいけれども佇まいは変わらない。『ミーナの行進』では「打出天神社の向かいにある図書館は、石造りの重厚な建物だった。立派な樹木に囲まれ、蔓草が壁面を這い、古めかしい両開きの扉には中国風の飾りがはめ込まれていた。中は石の冷たさがこもったようにひんやりとし、規則正しく並ぶ背の高い本棚が、通路の隅に薄ぼんやりとした影を作っていた」と表現されている。私が訪れた時も、その影で本を読む女性がいた。子どもたちが寝そべっていた。確かに冷気がある。

 ミーナは美奈子が本名で、喘息に苦しむ病弱な少女。小学校にはポチ子と名付けられたコビトカバの背に揺られて通う。父が10歳の誕生日祝いにもらった小さなカバである。本が大好きだが、図書館には行けない。岡山からやってきた従妹の朋子が代わって図書館に通う。そのきっかけは作家、川端康成の自殺である。

 朋子 「うん、まあねえ。で、何を借りてくればいい?」
 ミーナ「川端康成」
 朋子 「ローザおばあさんが、家にもあるって言ってたじゃない」
 ミーナ「『伊豆の踊子』と『雪国』と『古都』ね。あれはもう読んでしもうた。だからそれ以外のを
     お願い」
 朋子 「それ以外って、例えば?」
 ミーナ「朋子が前に読んで、面白かったんがいい。それやったら間違いない」

 朋子は言葉に詰まる。川端の小説を1度も読んだことがないからだ。図書館では白いとっくりセーターの男性司書が相談に乗ってくれる。『伊豆の踊子』、『雪国』、『古都』を薦められるが、思わず、みな読んでいると嘘をつき、司書をびっくりさせる。結局、『眠れる美女』を借り、貸出カードを作ってもらった。「大事に使う」という約束をして。

 そのカードを朋子は、30年間持ち続けている。『アーサー王と円卓の騎士』『アクロイド殺人事件』『園遊会』『フラニーとゾーイー』『はつ恋』『変身』『阿Q正伝』。朋子が借り、ミーナが読んだ本が記されている。朋子はミーナに会いたくなると、このカードを取り出す。

 小川さんは読売新聞の2005年12月27日の夕刊「連載を終えて」でこう書いている。「単なる語り手のはずだった従姉の朋子は、驚くべき成長を遂げたし、ミーナ自身も、私がつけていた見当よりもずっと遠くまで行進していった」。

 たしかにイスラエルの選手村がテロリストに襲撃され、選手ら18人の死者を出し、バレーボールの日本男子が金メダルを得たミュンヘン五輪やジャコビニ流星雨。出来事を通してミーナは外の世界と触れあってゆく。そして、読書とは無縁だった朋子が、大人になって図書館で働くようになる。ミーナがいなければ決して就くことのなかった仕事だろう。10年後の再読。新たな発見や物語を紡ぐこと、その面白さを届けてくれた。

 <あらすじ> ミーナの従姉、1歳年上の朋子の目で語られる。朋子は岡山から芦屋の洋館のお屋敷にやってくる。1年間、叔母たちと暮らす約束だ。そこはまるで絵本のような暮らし。体が弱いミーナは、ペットのコビトカバで通学する。美しくて、可愛くて、本を愛するミーナ。感性と想像力に朋子は圧倒される。叔父さんは飲料水会社の社長、家族はだれもが個性的だ。庭には小さな動物園があり、コビトカバは1番の人気者。2人は仲好くなり、当時の芦屋市立図書館で多くの本を借りて読む。あっという間の1年、別れが来る。しかし、心の結びつきは大人になっても続いてゆく。

 馴染みのある地名や建物、店が次々と登場するのも楽しい。小川さんにとって初めての新聞連載小説。2006年、谷崎潤一郎賞受賞。中公文庫(中央公論新社)刊。

 『ミーナの行進』【中央図書館1階現代女性作家コーナー, 女性‖オガ, 40012676】

                 

             

                 芦屋市立図書館打出分室 
   芦屋市打出小槌町15−9
   阪神打出駅北すぐ。開室時間は水曜日から土曜日まで。午前10時〜午後5時。