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第65話 「やさしい本泥棒」(2016年12月)

 

 美しい少女の瞳の奥に、本が見える。激動の時代、本とともに生き抜いたリーゼルの物語である。ナチスの狂気が吹き荒れるドイツ・ミュンヘン近郊の田舎町。彼女は1冊の本を胸に、今夜も寝る。『墓堀り人の手引書』。およそ13歳の少女には似つかわしくない本である。養子としてこの家に来る途中、弟が死ぬ。雪の中、母と2人だけの寂しい弔いをした。そのときに、拾った本である。きっと、埋葬をした男のポケットから滑り落ちたのであろう。リーゼルは読み書きができない。

 新しい家族の暮らしは貧しい。妻ローザは夫を「甲斐性なし」と口汚くののしり、リーゼルにも冷たい。だが、夫のハンスは違う。読み書きを教え、この「手引書」も読んで聞かせる。地下室の壁は黒板代わりだ。「2月」という単語が出れば「F」のコーナーに「FEBRUARY」と書いて覚える。賢明な少女はたちまちに本と言葉の虜になる。ルディという同級生の少年とも仲良くなり、ようやく両親との別れ、弟の死という失意から立ち直る。

 学校にはカギ十字の旗やヒトラーの肖像が掲げられ、子どもたちは「ドイツの栄光のために」と反ユダヤを高らかに歌い上げる。そして1938年11月の「水晶の夜」事件。全ドイツでユダヤ人経営の商店などが焼かれ、破壊された。窓ガラスが割られ、まるでクリスタルのように散乱したことから名づけられる出来事である。ホロコーストに向けて、一歩ずつ前進してゆく、その起爆でもあった。翌年の4月、ヒトラーの誕生日にちなむ行事があった。リーゼルはルディと加わる。燃え盛る炎のなかに、本が次々と投げ込まれる。有害図書の一掃をスローガンとしたナチスの蛮行である。書籍は山のように積み重なって消えてゆく。熱狂する群集の中で、リーゼルの表情は変化する。なによりも本が好きになった少女である。次第に顔は強張り、いたたまれないような面持ちになる。

 人々が去ったあと、立ちすくむ少女は、まだ燻っている1冊の本を手にし、コートに潜ませた。見つかれば一家全員の命すら保証できない行為である。父に、そっと見せる。ナチス党への入党を勧められても断り続ける父は、リーゼルの勇気に驚き、隠し持つ。少女の2番目の愛読書は焼け残った、H・Gウェルズの『透明人間』だった。

 ユダヤ人の青年、マックスが匿ってほしいと現れる。ハンスが先の大戦で命を救ってもらった男の息子である。彼は1冊の本を持っている。「見せて」というリーゼルに「子ども向きではないよ」と諭される。ユダヤ人であることを隠すために持っていたヒトラーの『我が闘争』のようだが、映画ではわからない。これがリーゼルの出合った3冊目の本である。

 ローザは洗濯屋をして生計を立てている。アイロンをかけた洗濯ものを町長の豪邸に届けるように命じる。町長夫人が書斎に案内してくれる。そこは小さな図書館だ。眼を輝かせるリーゼル。戦争で亡くなった息子の本である。このすべてを読んだと母は語る。「本が好き?」。少女はうなずいて1冊を手にする。

 『夢を運ぶ人』。むさぼるように読みふける。この書斎に通うのが楽しくて仕方ない。高熱に苦しむマックスのために読む本が必要だ。『透明人間』は読んでしまった。町長宅の書斎に忍び込んで、あの1冊を盗む。でも彼女は「借りた」と思っている。

 地下室で暮らすマックスはすべてのページを白いペンキで塗ってしまった。『我が闘争』は1冊のノートに生まれ変わった。マックスからのプレゼントだ。一時は死を覚悟したマックスの病。ようやく元気になった彼は一家との離別を決意した。「書き続けて。僕はいつも君が紡ぐ言葉の中にいる」と、塗りつぶされたページを残して去った。声高でない反ナチの主張が伝わってくる。

 ナチスの敗色が濃くなるなか、ハンスが突然召集される。空襲が激しい。防空壕でリーゼルは紡いだ物語を隣人たちに聞かせる。絶滅収容所であるミュンヘン近くの「ダッハウ」へ連行されるユダヤ人の列を見かけ、マックスを探すが見つからない。負傷したハンスは戻るが、空爆で彼もローザも死ぬ。ルディも。地下で本を読んでいたリーゼルは助かった。瓦礫の中から『夢を運ぶ人』を見つけたときに、町長夫人が現れた。抱き合う2人。2年後、リーゼルは15歳。働いていたルディの父の仕立屋で尋ねてきたマックスと再会する。

 この物語を展開させてきた「死神」のナレーションで映画は終わる。リーゼルは90歳まで生き、作家として多くの言葉を紡いだそうだ、と。

 2015年夏、ミュンヘンを訪れた。反ナチスの文書を配布して逮捕されたミュンヘン大学生、ゾフィー・ショルとハンスの兄妹の跡を確かめたかったからだ。2人は判決のあと3時間弱で死刑が執行されている。その公判でゾフィーは「私たちは言葉の力で戦う」と敢然と語っていた。「白バラの祈り」という映画に描かれている。そのシーンを思い出した。言葉には力がある。

 「やさしい本泥棒」は2013年、アメリカとドイツの合作。日本では劇場公開されなかった。原作はマークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子訳)。主演のリーゼルはソフィー・ネリッセ、ハンスはジェフリー・ラッシュ、ローザはエミリー・ワトソンが演じている。