日曜日の新聞は「書評」のページからめくる。今日はどんな本とめぐり合えるのか。小さな楽しみである。7月25日の読売新聞で紹介された本の題名に少し驚いた。「図書室からはじまる愛」。このコラムにぴったりではないか。
舞台はインドのボンベイ(ムンバイ)やマドラス(チェンナイ)。ヨーロッパでは戦争が始まり、やがて真珠湾につながってゆく1941年から1年余、15歳の娘に起こった苦難と恋の物語である。イギリスの支配下にあり、ガンジーによる非暴力に徹した独立運動の嵐が吹き荒れていた。一方でカーストも厳然と存在していた時代である。作者はチェンナイ生まれの女性、パドマ・ヴェンカトラマン。異なる文化に生まれた小説は、なじめないのでは、と思いながら読み始めた。
間違いだった。書評が表現したように「珠玉」の作品である。筆致は平易で、筋立てもシンプルだ。黄金色の陽光、むせ返るような木々や果実の匂い、最下層の人々が暮す町の騒音と喧騒。沸き立つような映像となって目の前に現出する。そして、決して夢を諦めない少女、ヴィドヤの、激しく、優しく、凛とした思いが熱気とともに、心に溶け込んでくる。小梨直さんによる翻訳もいい。
最上層の豊かな家庭に育ったヴィドヤ。医師の父が廃人になったのは自分が制止を振り切ってデモの渦のなかに巻き込まれたからだと深い自責の念を抱く。家族は伯父の家に移る。そこは階層や男と女の間の差別を守る家庭だった。満ち足りていた暮らしは一変する。階段は男だけのもの。女は2階にはあがれない。兄とも会えない。だが、2階には図書室がある。本を読みたい。覚悟を決めて、この空間を大切にしている祖父に打ち明け、許してもらう。
「オリバーツイスト」「銀のスケートーハンス・ブリンカーの物語」、ワーズワースの詩集、「アイヴァンホー」「高慢と偏見」。次々に読んだ。図書室は限りなく美しく見えた。ヴィドヤは語る。
「幸福感を味わえる場所は図書室だけだった。階段をのぼるたびに胸が躍った。あの素晴らしい部屋で過ごす至福のときだけが朝から待ち遠しくて仕方がなかった」
「人間が発明したなかで、もっとも価値があるものはとたずねられたなら、それは文字であり言葉であると、迷うことなくわたしは答えるだろう」。そんな場所で遠縁の青年と出会い、恋に落ちる。書物が二人の心を育んで、ついには結婚を誓う。矛盾と真っ直ぐに向き合い、自由を求めた少女が得たのは女性の新しい生き方だった。物語はアメリカの大学に留学した婚約者に送る手紙で終わる。「人びとに自由と正義を約束する国。いつかわたしも、あなたに会うために行きます」
原題は『Climbing the Stairs』、「階段をのぼって」である。その階段は図書室に、書籍に、そして自由にも通じている。颯爽と駆け上がるヴィドヤがまぶしい。
白水社刊。パドマ・ヴェンカトラマンはアメリカのウイリアム・アンド・メアリー大学で海洋学の学位をとり、キール大、ジョンズ・ホプキンス大で研究生活を。アメリカ在住。本書はデビュー作で、09年、全米図書館協会の「ヤングアダルトのためのベストブックス」に選定された。中央図書館で現在受入手続中。