車椅子の村田延子さんの瞳をまっすぐに見つめようと院生の横井川周子さん、昨年卒業した渡辺世理菜さんは膝まづき、背筋を伸ばした。延子さんの目から涙が溢れた。「あなたたちのおかげでご褒美をもらいました」と二人の手を握り締めた。阪神・淡路大震災からもうすぐ16年を迎える、その日の午後、図書館は涙と笑顔に満ちた。亡くなった長女、恵子さん(文学部4回生)が通い、本と向き合った場である。卒業論文と、下書き、万年筆、メモ。愛おしいほどの丁寧な文字で、テーマとした谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』の世界を描いている。文章は手で書く時代だった。メモ帳の日程には震災10日後の「ゼミ旅行 高山」があった。
周りに300冊の震災関連図書を展示している。延子さんが編んだ『恵子、さよならも言わずに』もある。恩師の玉井敬之先生、家族、友人たちが、あの日のことや恵子さんの夢を、家族思いのその人柄を書いている。21歳の彼女が起き上がってきて、目の前にいるような思いがする。震災から6年後の刊行、表紙に「風化させないために」という延子さんの気持ちが添えられている。
展示されているのは約150点。恵子さんは卒論関係の資料を黄色いトートバッグにまとめて入れていた。触れると、思い出が壊れるようで延子さんはそのままにしていたが、昨年暮れ、初めて、なかを取り出してみた。砂や土がかすかに舞った。そのバッグを玉井先生や延子さん、横井川さん、渡辺さんが見つめている。みなの目にまた涙が宿る。
震災の時、私は報道を指揮する立場にあった。一線の若い記者たちが「いのち」を受け止めながらの取材を続けた。その取材で巡り合った遺族に、16年間、1月17日に花を贈り続ける記者は、いまデスクという立場にいる。歳月は経過しても、彼の心から震災が風化することはない。そんな記者たちの思いや恵子さんの死を昨年の1月、学生たちに話す機会があった。彼女たちが語り継ぐためにと動き出してくれた。
展示コーナーの片隅に記した私の思いである。
忘れてはならないことがある。
風化をさせてはならないことがある。
この「卒業論文」は今を生きる若者たちに、そう伝えている。
卒論を書き終えた学生の生命は、あの日、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で消えた。2週間後、瓦礫のなかから母が卒論を見つけ出した。無傷だった。逝った娘の想いが、400字詰めの原稿用紙45枚に凝縮されていた。
その卒論を、母の手記、震災と関わる蔵書とともに展示した。図書館に悲しく、辛い空間が生まれるが、彼女のことを、6,400人を超える犠牲者のことを、多くの若者たちの志が瞬時に絶たれたことを、そして学生、教職員6人を失った本学のあの時のことを記憶にとどめたい。学生たちは実相を知り、語り継いで欲しいと思う。それがわたしたちの責務である。
あの日からまだ16年しかたっていない。
地下1階のコーナーにはいつも学生たちの姿がある。卒業論文という「等身大」の遺品を通して恵子さんのことを語り合っている。中学、高校も含め10年間、武庫川に通った彼女は後輩たちに確かに伝えてくれている。
『恵子、さよならも言わずに−天国に旅立った恵子ちゃん−』『じゃがいもの子:追悼村田恵子詩文集』はともに創元社刊。貸出用と館内閲覧用が備えられている。