「映画の中の図書館」というキーワードで調べると、間違いなく現れるのが「ショーシャンクの空」だ。もちろん見たことがある。新聞記者の頃だった。ラストシーン。海岸の砂浜で2人の男が再会を喜んで抱き合う場面が焼き付いている。この映画で図書室(館)が大きな役割を担っていたことなどは記憶からは消えていた。もう一つはポスター。脱獄に成功した主人公が降り注ぐ雨に向かって叫ぶ絵柄だったと思う。自由。それを取り戻した時の男の雄叫びが聞こえてくるようだった。再度、挑戦してみる。図書館長の立場で見ると、印象はどう変わるのだろう。
まず粗筋を追わない。図書室が登場するカットのみに集中する。このコラムを始めて3年。何度も失敗をしている。図書館が出てくるのが数秒、小説だと数行という作品があるからだ。これでは書けない。どれだけのボリュームで、その作品として図書館を位置づけているか。それを知りたいのである。DVDは便利だ。
メイン州ショーシャンク刑務所の図書室は初めから52分後に姿を見せる。主人公であるアンディはエリートビジネスマン。銀行の副頭取まで務めたが、妻と不倫相手のプロゴルファーを殺害した罪で終身刑の判決を受けている。冤罪を主張するが、だれも取り合ってはくれない。冷酷な所長、ノートンが経理に明るい彼に目をつけた。ノートンは公共事業の工事に、受刑者をただ同然に使うから仕事が次々に舞い込む。他の業者は裏金を届けては受注を回してもらおうとする。当然ながら莫大な金が集まってくる。それをマネーロンダリング(洗浄)する不正にアンディを利用したい。「学のある君にふさわしい仕事をやろう」と「図書係」を条件に加わることを求めたのだ。これなら一般労働から解放される。暴力と男色からも逃れられる。
そのころの図書室は倉庫のようだった。40年近く図書係をしているブルックスは「簡単な仕事さ」という。本は雑然と積み上げられている。それも雑誌やミステリー小説が多い。アンディはさっそく着手した。本を購入する予算を増やそう。ブルックスは「6人の所長がいたが本に予算をつける男なんていなかった」と語るが、アンディは州政府に手紙を書き始める。週1回。返事はこない。あきらめない。予算のアップを求める手紙が続く。週2回になった。
6年後、返信があった。図書費の大幅増だ。なんと週500ドル。中古図書も寄贈するとある。銀行マンだから、その金を有効に使うのはお手のものだ。注文した本が届く。友人であるレッドや受刑者たちが手伝う。デュマの『岩窟王』。どこに分類するかがわからない。アンディが教える。「脱獄の話だよ」と。「それじゃ教育図書だ」。笑いが起きる。部屋も書架も見事に生まれ変わり、いつも本を読む男たちで埋まっている。彼らは読書によって「自由」を味わうことを覚えたのだ。1963年、アンディが入所して16年目のことである。
真犯人を知っているという若い男が入所してきた。アンディは所長に再審を請求したいという。しかし、もし彼がここから出ればたちまち不正は明らかになる。所長は、若い男を射殺して、冤罪を葬り去ろうとする。そしてアンディを脅す。「図書室もなくなるぞ。お前が苦労して集めた本も広場で焼いてやる」。それはアンディにとっても、読書を覚えた仲間たちにとっても、「自由」を奪われることだ。その一言が決意させた。脱獄である。
レッドには「出所したらメキシコのジワタネホという海辺の町に行き、ホテルを経営したい」と語る。そして、レッドが仮出所したら、あるところにものを隠したから、それを探してくれと言い残す。独居房の壁には女優のポスターが貼ってある。リタ・ヘイワースからラクエル・ウェルチに変わっていたが、その奥には長い間かけて穿った逃走のための通路がある。雷鳴がとどろく夜、脱獄に成功した。服役19年目、ついに自由になった。
1年後に仮出所したレッドは約束を思い出し、指示通り樫の木の下に埋めてあった缶を見つけた。そこには手紙と現金があった。国境を越えてジワタネホに向かう。
図書室は、やはり主役である。ここで本を読めば心はいつも自由だ。この映画の主題である「自由」の戦慄が繰り返し流れている。たとえ罪を犯しても自由を感じれば人は変化する。図書室にこだわり続けたアンディは、そう言いたかったに違いない。
原作はスティーヴン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』。1994年公開のアメリカ映画。監督・フランク・ダラボン、主演(アンディ)ティム・ロビンス、友人(レッド)モーガン・フリーマン。95年アカデミー賞7部門にノミネート。ポスターとして登場するリタ・ヘイワースは40年代にセックス・シンボルとして一世を風靡(ふうび)し、ラクエル・ウェルチは1960年代後半に「20世紀最高のグラマー」と称された。アンディが服役したころ、脱獄したときの間の歳月を3人の女優で表現している。