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第64話 「アウシュヴィッツの図書係」(2016年11月)

 

 ホロコーストの象徴ともいえるアウシュビッツに立ったのは記者時代を含めて6回である。幾度訪ねても同じ気持ちになる。苦しい。しかし、歩かなくてはならない。見なくてはならない。2トンもある女性の髪の毛。その前ではいつも同じ情景が蘇る。ブロンドも亜麻色も黒色もあったはずなのに70年余りの歳月は一様に茶褐色にしている。でもウエーブは変わらない。個性がある。顔が、肉体が現れてくる。そうこれは虐殺されたユダヤの女性たちの生きていた証なのだ、と思う。アウシュビッツで何があったのか。知っているはずだった。だがこの物語の存在に触れて衝撃を受けた。アウシュビッツにささやかな図書館があって、それを14歳の少女が図書係をしていたという。そして、極限の中で人々はぼろぼろになった僅かの本を愛おしみ、生きる支えにした。

 ヒロインのディタはアウシュビッツのビルケナウ収容所BUb区画31号棟に収容されている。旧チェコのテレジン収容所から送られてきた。知人で、アウシュビッツで唯一の公式日本人ガイドをしている中谷剛さんの著書『アウシュヴィッツ博物館案内』(*1)によると、テレジン収容所は国際的な批判を避けるためにナチスが作った家族収容所と名づけられた施設で、そこから移送された人々は、アウシュビッツでも待遇が違った。「選別」や持参品の没収もない。髪の毛も剃られなかった。幼稚園も小学校もあった。しかしドイツの敗色が濃い1944年になると抹殺の対象となり、テレジンから送られたユダヤ民家族1万8,000人のうち93%あまりが犠牲になったという。ディタ は生き残った。

 ひそかに持ち込まれた本は8冊である。「地図帳」『幾何学の基礎』『世界史概観』(H・G・ウェルズ)『ロシア語文法』『モンテ・クリスト伯』「表紙のないロシア語の小説」『精神分析入門』(フロイト)『兵士シュヴェイクの冒険』(チェコのユーモア小説)。連行されてきたユダヤ人の荷物にあった本を収容者である電気工や大工が持ち出したのだ。ほかに『ニルスのふしぎな旅』など人の記憶に残っていて、子どもたちに読み聞かせをする「生きた本」もある。

 どの先生にどの本を貸し出したかを覚えておいて、授業が終わると本を回収して一日の終わりに隠し場所に戻す、それがディタの仕事だった。リーダーであるヒルシュの部屋の床板を一枚はがすと中から8冊が現れる。

 何枚かページが抜けている「地図帳」をめくる。ディタ は世界の空を飛んでいるような気になる。広大な海や森や山脈や川や街、すべての国をそんな小さなスペースに詰め込むのは、本にしかできない奇跡だ。『幾何学の基礎』には別の風景がある。『世界史概観』。ディタは目を見張った。新しい文明の数々、滅んだ文明。『ロシア語文法』。ソ連は今、ドイツと闘っている。

 ディタはこれらの本を優しく撫でた。縁がこすれ、シミもある。ページが欠けているものもある。ディタ は思う。

 ―困難を乗り越えたお年寄りたちのように大切にしなければ。本がなければ、何世紀にもわたる人類の知恵が失われてしまう。本はとても貴重なものだ。私たちに世界がどんなものかを教えてくれる地理学。読む者の人生を何十倍にも広げてくれる文字。数学に見る科学の進歩―。

 ディタは傷んだ本の世話係にもなった。

 しかし、「死の天使」と恐れられた医師、メンゲレと出くわした。「お前は私の解剖室で最期を迎えることになる。生きたまま解剖すると、じつに面白い」と言い残す。恐怖。彼に目を付けられてどうやって図書係を続けられるだろうか。彼女の戦いは続く。ぶかぶかの服の内側に秘密のポケットをつくり、動くときはそこに本を隠す。これなら「気をつけ」にも大丈夫だ。見つかればガス室。命をかけてディタは本を守る。生きる力になると信じている。

 東からソ連軍が近づいている。アウシュビッツが解放されるのももうすぐだ。ナチスは家族収容所を閉鎖し、ドイツ国内に移そうとする。殺害して、証拠を隠滅するには時間がないからだ。

 ディタが命がけで守った8冊と別れる日が来た。ページがバラバラになりかけた『兵士シュヴェイクの冒険』。背表紙にアラビア糊を少しつけ、注意深く貼り付ける。隠し場所の土で汚れた表紙を布で拭く。

 「並べられた本が小さな列になった。奥ゆかしい古参兵のパレードだ。この何か月か、何百人もの子どもたちが世界中を旅行し、歴史に触れ、数学を勉強するのを助けてくれた本たち。フィクションの世界に誘い込み、子どもたちの人生を何倍にも広げてくれた。ほんの数冊の古ぼけた本にしては上出来だ。」

 ディタは父を失い、母とともにドイツ国内の収容所に移動させられる。さらに数か月でベルゲン=ベルゼン収容所へ。

 そこでは何列か先のベッドでチフスに感染した姉妹が最後の戦いをしていた。アンネ・フランクと姉のマルゴットだった。姉が死んですぐアンネも息絶えた。1945年4月15日、イギリス軍によって解放された。ディタの母も自由の身になったが間もなく死んだ。

 ディタはアウシュビッツにいた青年と結婚。3人の子ども、4人の孫に恵まれた。本たちと約束したように自由な人生を過ごしたのだ。

 アントニオ・G・イトゥルベ著、小原京子訳(2016年集英社刊)。著者が取材を始めたのは、アルベルト・マングェル著の『図書館 愛書家の楽園』(2008年白水社刊)(*2)に、強制収容所の中にあったとても小さな図書館についての言及があったからだ。イトゥルベはこの物語を追いかけ、ついにディタが生存していることを突き止めた。 ヒルシュの死の謎、脱走劇、2組の恋など盛り込んでいるが実話に基づいている。アウシュビッツの様相がリアルに描かれている。 

                  

 『アウシュヴィッツの図書係』は中央図書館で現在受入手続中。
 *1『アウシュヴィッツ博物館案内』【中央図書館3階学習図書, 234.074||NA, 20879850】
 *2『図書館 愛書家の楽園』【中央図書館3階学習図書, 010.2||MA, 20513892】