お知らせ

第71話 「本のカバーが語ること」(2017年9月)

 

 電車内で気になることがある。乗客の何人が本を読んでいるか。混雑時でなければ数えてみることがある。その本に書店のブックカバーが付いているのか。図書館の蔵書印が押されているのか。想像できることがたくさんある。

 私は表紙カバーをそのままにして、ブックカバーは付けない。思いもかけない人が想像を超える本を読んでいると嬉しくなる。逆に、ライトノベルとハウツー本だけにしか出合わない日もある。めったにないことだが、同じ本を読んでいる人が複数いれば、いつかその本はベストセラーに顔を出す。

 図書館でささやかな試みをしている。表紙カバーを外さず、帯を付けたまま並べるコーナーを設けた。「文学賞作品コーナー」だ。表紙カバーはその本の顔、帯は、時代の感覚を伝えている。そう思ったからである。選んだ文学賞は芥川賞、直木賞、谷崎潤一郎賞、三島由紀夫賞、川端康成文学賞などに加えて江戸川乱歩賞、松本清張賞と続く。総勢30タイトルの10年間分をバックナンバーとして揃えた。冊数にすると438冊。常に半数以上が貸し出されている。大宅壮一ノンフィクション賞、本屋大賞もある。メディアで話題になった本が多いのは当然である。

 なぜ図書館では表紙カバーを付けなかったのか。ベテラン司書に聞くと、「たとえ薄い紙一枚にしても膨大な蔵書量になればスペースを占めることになります」「表紙や帯はすぐに破損します。管理が大変になるのです」という事である。

 でもあえて、このコーナーでは、その「禁じ手」を破ってみた。図書館関係者の多くが、このチャレンジに関心を示してくれる。確かに、表紙カバーも作品と同じように大切な役割を果たす。多くの本が平積みになっていても、表紙の鮮烈さで手に取ることがある。デザイナーたちの「読んで欲しい」という叫びが聞こえる。帯もそうだ。ここを読んだだけで購入した経験は誰にでもある。編集者の声が届く。なぜ、今、その本が、という社会的背景が伝わる。

 そしてブックカバー。書店も、さまざまな工夫のデザインを凝らしている。ローカル色豊かなものもある。そのカバー欲しさに旅をする読者家がいる。店員に「カバー、いかがしましょうか」と問われた多くの人々は、頷いている。

 「本づくり研究所」のホームページを参考にする。

 書店で買えば、本は表紙、表紙カバー、ブックカバーの3重になっている。これは日本独特の「文化」だという。このブックカバーに通じる英語はない。そもそも海外ではペーパーバックと呼ばれる並製本が多いからだ。なぜ日本では、という答えは簡単である。「本をキレイに保つため」「何を読んでいるのか知られたくない」。90%がブックカバーを付けるという統計もあるそうだ。淵源をたどれば大正時代に行きつく。書店が宣伝のために、また代金は支払われているという証明のために生まれたとされる。

 私は残り10%の少数派である。

 『みをつくし料理帖』や『あきない世傳 金と銀』などで人気の田郁さんの著作に『晴れときどき涙雨 : 田郁のできるまで』というエッセイがある。その一文の「見えないバトン」。

「あっ、と思わず声を上げそうになる。
 病院の待合室。向かいのソファに座ったひとが鞄から取り出したのは『八朔の雪』―出版して間もない私の著作だった。
 我が家の近くの書店には、そもそも入荷自体がなかった。周辺の大型書店では、夥しい新刊の群れに埋もれて探し出すのも困難なほどだった。誰も手に取るひとなど居ないのかも、と思っていた矢先の出来事だった。
 時代小説の世界に転身して二年。この二年は決して平坦な道のりではなかった。その経験が私を頑なにしていたのかも知れない。目の前の光景がなかなか信じられず、見知らぬひとの読書する姿に心臓が早鐘を打った。」

 田さんは、編集者、装丁者、印刷所、広報、営業、書店員、そして読者。見知らぬ誰かが手に取って、記憶に加えてくれる。そのバトンをつなぐ人たちに報いたい、と結ぶ。

 もし、その『八朔の雪』にブックカバーがあり、表紙カバーがなければ、田さんの目に止まっただろうか。

 読書の秋。本の周りにも思いを馳せる季節である。ブックカバーを付けない10%に居残ろうと思う。私が読む本を見て、読もうと思ってくれる人がきっといる、若き作家を励ます機会になることもきっとある。

 『晴れときどき涙雨 : 田郁のできるまで 』は中央図書館1階の「現代女性作家コーナー」にある。