1冊の本が新たな出会いを生む。物語をつくる。その出来事が身近に起きてみると、驚き、本の力に絶句する。2015年、英語文化学科を卒業した辰己由貴さんが原稿を書いてくれた。辰己さんは「宇宙図書館」(第66話)にも登場してもらっている。以下は『坂の上の雲』を巡る、その物語である。
不思議な朝だった。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を手に通勤してから1ヶ月。この本に夢中である。本には書店のブックカバーを付けていない。電車待ちのためホームに立っていつものように読んでいた。
すると1人の男性が声をかけてきた。本を閉じ、横に立っていた男性に視線を移した。中年男性と記憶している。
「よかったらこの本を読んでみてください」とカバンから出てきた1冊。紺色の包装紙に綺麗に包まれた、購入したての文庫本。
思いもかけないことだった。「何の本だろう・・・」と戸惑いながら「ありがとうございます・・・」と受け取った。なぜ、私にこの本を。怪訝な顔に彼が説明してくれた。
「『城下の人』(中公文庫)です。『坂の上の雲』を司馬さんが執筆する際に参考にしていた本ですよ」という。私が『坂の上の雲』を読んでいることに、それも毎朝、時間を惜しむかのように読んでいる姿に興味を持ったという。どうやら彼は歴史小説の大ファンで中でも司馬作品には思い入れがあるらしい。中国駐在の友人と旅順にも足を運んだことも話してくれた。3分ほどの出来事であったが私にはとても感慨深い時間となった。
それから私は一層、司馬作品に引き込まれていった。司馬さんの世界をもっと知りたくて、恩師に頼み東大阪市にある「司馬遼太郎記念館」へ連れて行ってもらった。記念館に置かれていた司馬作品の数々と膨大な量の参考文献2万冊がすさまじい力で迫ってくる。
館長の上村洋行さんとお会いする時間をいただいた。駅での出来事を話しながら、受け取った本をお見せした。すると「へえ、それは嬉しい話ですね」と穏やかな笑顔。「『城下の人』は、その時代を生きた人々を描いた素晴らしい作品です、是非読んでください」と教えてくださった。司馬さんの世界が私の中でどんどん広がって行くのがわかった。
上村館長は、身を乗り出し「『坂の上の雲』は戦争の物語ではありません。明治維新から日露戦争までの時代に、主体的に生きる事を目指した若者たちの青春小説なのです、だから本当はあなたのような若い人達にもっと読んで欲しいです」と語る。
私はこの言葉にハッとした。なぜ自分がこんなに『坂の上の雲』に惹かれるのか、答えがわかったからだ。情熱的で真っ直ぐな青春を過ごした秋山兄弟・正岡子規は過去に生きているのではない。彼らの生き方から吸収できるものが沢山あるのだ。この本は、そういう男たちを描いている。彼らの熱い心。時代は移ろうが、人の「心の熱さ」は普遍的である。こればかりは文明の進化とは関わりがない。ノットイコールである。誰にも操作できない。それを備えた男たちは眩しいくらい輝いている。私は彼らに憧れていたのだ。
青春という使い古された言葉。でもこの男たちを知ると、なんと清冽なイメージに変わるのだろうか。
「『坂の上の雲』4巻の終わりを読んでいます。25才でこの世界に出合えた事に感謝しています。読み続けます」と資料館の来館者用ノートに記した。「『坂の上の雲』は、どこまで私を新しい世界に導いてくれるのだろうか。1冊の文庫本が紡ぎ出す物語はとてつもなく深く、重い。圧倒される。
読書好きの周りには読書好きが集まるのだ、と身をもって体験した。
辰己さんの文章をそのまま使わせてもらった。ブックカバーをつけない文庫本が主人公でもある。この話を聞いた、もう1人のOGが「坂の上の物語」を読み始めている。
『坂の上の雲』は中央図書館地階(918.68||SH||24〜26)にある。