真宗寺本堂と築地本願寺

 真宗寺本堂は福井市田原町からこの鯖江に移り、昭和37年に鉄筋コンクリート造で今の姿(図2)に建設された。設計、建設は松井建設による。この松井建設は関東大震災で倒壊した東京築地の西本願寺の建設工事を松井組として担当した。昭和6年のことである。設計は東京大学建築学科の伊東忠太教授であった。それまでの東京築地の西本願寺は図4のような木造建築であった。
 伊東忠太は日本の社寺建築の権威であると共に、早くからアジア各地を廻り、日本の寺院建築との関連を調べたことでも知られている。そこで築地の西本願寺の設計に際して大乗仏教の遺跡ボロブドゥールの意匠を随所に引用しながら巨大な築地西本願寺を設計したと思われる。ただし内部は日本風であった。 
 この築地西本願寺の部分的形態を随所に使いながら、真宗寺は松井建設(松井組)によって設計され、建設されたようだ。例えば向拝、庇、塔屋、屋根などの形の原型を本願寺の中に見ることが出来、これらが真宗寺の独特の風貌をかもし出している。真宗寺の原型は本願寺にあり、さらにその原型は遠くインドネシアのボロブドゥールにあるということになる。真宗寺のみならず松井建設は築地西本願寺の様式を引用しながら、当本堂と同じ規模で同じような意匠の寺院を全国あちこちに建設したようだ。例えば偶然発見した図6図7がそれである。

図1 築地本願寺外観

図2 真宗寺本堂
築地本願寺
設計:伊東忠太
起工:昭和6年4月15日
竣工:昭和9年6月25日
様式:
インド仏教様式古代中天竺様式を基礎として適宜に換骨奪胎しかつ後期印度式の手法を加味せり。細部にはボロブドゥールその他印度系の地方の手法を適応す。ただし、本堂内部は純日本風とす。(「伊藤忠太建築作品」城南書店より抜粋)

図3 築地本願寺本堂内観

図4 築地本願寺正面玄関 向拝    

註)伊東忠太 いとう ちゅうた
 慶応3(1867)年10月26日、米沢藩(山形県米沢市)に生まれた。明治25年、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、大学院にて日本建築史の研究を続けた。翌年、平安建都1100年記念事業である平安遷都紀念祭の協賛会紀念殿建築技師として嘱託され、平安神宮を設計した。明治29年内務省古社寺保存会委員、明治30年東京帝大工科大学講師、明治31年造神宮技師兼内務技師、東京帝室博物館学芸委員、明治32年工科大学助教授などを歴任し、明治35年に中国、インド、トルコに留学し建築を研究した。明治38年に帰国し、工科大学教授となった。大正4年、明治神宮造営局工営課長となり、大正9年に明治神宮が竣工した。昭和3年、東京帝大を退官し早稲田大学の教授となった。昭和29年4月7日没。

 明治35年6月中の東南アジア旅行、それにつづく明治36年6月から明治36年3月までのインド旅行における見聞より、デザインの着想を得たと思われる。

主な作品:平安神宮、明治神宮、築地本願寺、真宗信徒生命保険本館、祇園閣、日泰寺仏舎利奉安塔、法華経寺聖教殿、可睡斎護国塔、恩賜林謝恩碑、J.コンドル銅像台座、他

図5 江戸時代の別院

築地本願寺 沿革:
築地本願寺は、浄土真宗本願寺派本願寺(京都西本願寺)の別院である。
 元和三年(1657)浅草近くの横山町に、本願寺第12世宗主准如上人によって建立された。当時は「江戸浅草本坊」と呼ばれていたが、明暦三年(1657)振袖火事と呼ばれる大火で消失。ところが、幕府の区画整理のため旧地に再建することが許されず、その替地として八丁堀の海上を下付された。佃島の門徒が中心となり、ここに土砂を運び土地を築き、本堂を再建した。本願寺の周辺を築地と呼ぶのはこのような因縁による。その後、天明三年(1783)の火災をはじめ、大正十二年(1923)の関東大震災にいたるまで多くの災害にあったが、昭和六年(1931)東京大学工学部教授 伊東忠太 博士の設計により、現在の印度風の本堂が起工され、同九年に落成した。

図6 和田堀廟所
築地本願寺の墓地。昭和二十年、戦災により旧本堂は消失。昭和二十九年に築地本願寺型の本堂が再建された。

図7 大典寺 (沖縄県那覇市 浄土真宗)



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