「たのしみは」
中尾賀要子(心理・社会福祉学科 講師)
江戸末期に生きた橘曙覧(たちばな・あけみ)は、越前の国(福井)の歌人です。恵まれない生い立ちの中で家業を継いだものの、学問や和歌への思いが断ち切れず、家業を譲渡したのちに隠棲し、清貧に甘んじてうたにいそしみ、風雅の道を極めた生涯を送りました。
その橘曙覧が遺した歌集の中に、日常のひとこまをうたった「独楽吟」と呼ばれる連作五十二首があります。いずれも第一句が「たのしみは」ではじまり、末句を「時(とき)」で結んである珍しい形式のものです。三十一文字で描き出される情景は、家族との団欒、友人との交流、食べることの喜び、読書や筆などのすさびごとなど、権勢や富貴からは程遠い生活を選んだ曙覧のささやかなしあわせであり、読む人のこころをほのぼのとさせてくれます。
たのしみは 珍しき書(ふみ) 人にかり 始め一ひら ひろげたる時
たのしみは 紙をひろげて とる筆の 思ひのほかに 能く(よく)かけし時
研究者としての道は、読むことと書くことの専門家になる道ともいえます。先行文献を通して先達の歩みを学び、自分の努力を書き記すことで後進に伝えていく、とても地道な終わりのない作業の繰り返しです。これは分野に関係なく近道はないようです。
でも、楽しい。研究する日々に少しでもそう思える瞬間があるのなら、あなたが選んだ道は間違っていないはずです。
たのしみは すびつのもとに うち倒れ ゆすり起こすも 知らで寝し時
自分のからだとこころに気を配りながら、研究する暮らしにちいさなたのしみを見つけていきましょう。
引用文献:橘曙覧(2009) 『独楽吟』グラフ社