「同じ釜の飯を食った仲間」
横川公子
突然の連絡が入った。仕事帰りに、スーパーマーケットのレジで買い物の支払いをしているときだった。古い友人のご主人の訃報である。享年70歳。3か月前に癌が見つかったのだそうだ。人一倍お元気で、社会活動に熱心な明るい熱血漢だった。二人のお子さんは、我が家と同じ年廻りだ。
今から40年以上も昔になるが、保育園への子供たちの送迎で、彼女とはほとんど毎日顔を合わせた。しかし最近20年余は年賀状のやり取りぐらいだった。―――そろそろ訃報がきかれるような年齢になったのだなあと思う。帰宅すると、別の保育園仲間からも同じ訃報が入っていて、こちらは連れ合いが受けて、葬儀の段取りについてのメモを残してくれていた。友人たちは私も含めて郊外住宅地に引っ越し、以前の住所からは離れているが、葬儀の会場には駆けつけられる距離感だ。
翌日、夫とともにお通夜の会場に着く。受付に自宅の方に連絡をくれた、これも古い友人がいて、この3か月間の出来事を話してくれた。彼女たちは朝の散歩でたびたび遭遇し、身辺についても情報を交換していたが、こんなに早くやって来るとは思わなかったという。
「まあ、ヨウコちゃん、すっかり美人になって!」―――私。
「お母さんがよう言わんというので、
私が喪主をしますのでよろしくお願いします。」―――ヨウコちゃん。
未亡人になった友人は、定年まで府立高校に勤めたしっかり者の元教諭だ。が、大学時代のサークルで知り合った同級生の夫の死には動転したもののようだ。44歳の娘の横で頭を下げている。それにしても最初に口を突いて出た私の言葉は、お通夜らしからぬ浅はかなものだと、言った瞬間から反省した。
お通夜の儀礼は滞りなく済み、おまいりの人々がまばらになる中で、かつての保育園仲間が何となく帰りそびれ、集まった。4組である。申し合わせた訳ではないが、それぞれ夫を伴っていた。出不精のわが夫も、珍しく、当然のように出席したのだった。
当時は気付かなかったが、子育ての10年余をともにした保育園仲間は、コミュニティー形成の原点ではなかったろうか。苦楽を共にし、同じ釜の飯を食った仲間なのだと思う。