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甲子園会館の各所がロケ場所となった「日本のいちばん長い日」 その2
甲子園会館2階応接室(甲子園ホテル時代のカードルーム)
甲子園会館2階応接室(甲子園ホテル時代のカードルーム)
甲子園会館の玄関の真上にあるこの部屋は、「日本のいちばん長い日」では宮城の女官長室として使われました

昭和20年(1945年)8月14日正午の御前会議に続く24時間は、日本歴史上いちばん長い日となりました。そのいちばん長い24時間が始まります。
8月14日12:30、陸軍大臣室へ若い将校たちが顔を引きつらせて集まってきました。
「自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては我が国は焦土となる。そう陛下は申された」と話す阿南に将校たちは詰め寄ります。
「陸軍大臣には治安維持のための兵力使用権があります。これを行使していただきたく思います」と迫る竹下中佐には、「悪あがきだ」と一蹴。「辞職して全部ひっくり返してください」と言う畑中少佐には、「私が辞職したところで終戦は揺るがない」。畑中が、「全てを放棄せよとおっしゃるのですか」とさらに言うと、阿南は、「最後のご聖断は下った」と断言します。「大臣の決心変更の理由をお伺いしたい」と詰め寄る井田中佐には、「納得できんならまず私を斬れ、阿南を斬ってくれ」と声を張り上げます。
突然、畑中少佐が号泣しながら机を思い切りたたき続けるのでした。

畑中少佐は号泣の後、突如ロッカーから拳銃を取り出し、自転車で14:55近衛師団司令部へ走ります。近衛師団には畑中にかねてから共鳴している2人の参謀、石原貞吉少佐(尾﨑宇内)と東條の女婿である古賀秀正少佐(谷部央年)がいました。連絡将校として来た航空士官学校の上原重太郎大尉(松浦海之介)もいました。畑中は、彼らに蹶起を呼びかけます。
3人の少佐は自転車で日比谷第一生命館の東部軍管区司令部に向かいました。

15:05、放送協会の3首脳と録音班5人は宮内省の自動車2台で宮内省に入ります。

東部軍管区司令部(日比谷第一生命館)の階段を畑中少佐が駆け上がります。東部軍司令官田中静壱大将は、6階にある司令官室に畑中を通し、「俺のところへ何しに来た、貴様の考えていることは分かっておる、帰れ」と割れんばかりに一喝。畑中は、敬礼をすると一言もなく立ち去ります。

15:45、 井田は軍服の前をはだけ、呆然と焼け野原となった東京を見下ろしていました。陸軍省裏庭では書類を焼却処分していました。

三鷹の阿南邸へ松山と名乗る戦死した次男惟晟少尉の部下が訪ねてきます。惟晟が戦死したとき一緒にいたという松山は、その報告に来たのです。綾子は自宅へ迎え入れます。

畑中が陸軍省へ戻ると、井田と椎崎が部屋の片づけをしていました。畑中は、明日正午に予定されている陛下の放送までの20時間に近衛師団を動かして最後の努力をする、少数が蹶起することで全軍が蹶起する、と言って二人を説得します。椎崎は同意するが、「全陸軍の将校は、一人残らず首を並べて腹を切り、敗戦のお詫びを申し上げるべき」という井田は、「やる以上は内乱にならぬように気をつけろ」と忠告します。

17:00、閣議の合間に迫水が宮中に電話を入れます。詔書の内容で意見が分かれていて、18時に予定していた録音が19時以降になるというのです。
詔書にある「戦勢日に非にして」というのは負けたかのように聞こえるから、表現を変えるように阿南が閣議で次のように強硬に主張していたのです。
「外地第一線では今なお敵と戦っている300万余りの将兵がいます。彼らの闘志は烈々としてなお止まずです。それが明日は武器を捨てなければいけない。負けたから終戦にするんじゃない。戦局好転せず、やむなく終戦なんです。「戦局必ずしも好転せず」に訂正していただきたい」。
渡されたメモを見て米内は立ち上がり、「訂正不要、「戦勢日に非にして」で十分」と黒板を勢いよく叩き、「30分ほど海軍省に戻ります」と言って外へ出ます。

甲子園会館1階南側テラス
甲子園会館1階南側テラス
宮城吹上御苑という設定で、終戦の前日に昭和天皇と徳川侍従が会話するシーンが撮影されました
甲子園会館での撮影現場 ④

8月14日の日中。宮城吹上御苑での天皇と徳川侍従が会話する場面です。このシーンは、甲子園会館1階のテラスで撮影されました。
天皇と徳川侍従が、テラスの東の階段を上がり中央へと進んでいきます。東ウィングのスタジオ1(ホテル時代の大食堂)のテラスからの撮影でしょう。会館南側中央部の日華石の列柱や打出の小槌の装飾、ボーダータイルや装飾タイルが明瞭に美しく写されています。天皇が見つめる東ウィング南の園路には数人の近衛兵が通り過ぎます。
カメラは、今度は西ホール側からテラス中央部へ歩いてくる2人を捉えます。列柱や雫模様、ボーダータイルが印象的です。
「疎開している家族とも会えたかね」と言う天皇に、「はい、塩原に行く途中、日光で」と徳川は答え、天皇は、「あ、そう」と頷きます。
再び2人が庭を見ると、東ウィング南の園路を近衛兵が歩いてきます。
「外の人がここまで」と言う徳川。
再び東ウィングのスタジオ1(ホテル時代の大食堂)のテラスからの映像に切り替わります。「近衛師団が治安上心配だと言うのでね」と天皇が教えます。

海軍省に戻った米内に、中央の中堅将校たちの間に不穏な動きがある、鈴木総理と米内大臣の暗殺をひそかに企図しているものがあるという報告がされます。

汗まみれの下着を替えるため官舎に戻った阿南は、辞表の書式と手続きを調べておいてくれと陸相秘書官の林三郎大佐に命じます。林は、「明15日正午に総辞職の予定であると内閣総務課長は言っておりました」と答えます。
阿南は、女中の絹子に手に入るものなら何でもいいから酒の準備をしておいてくれるよう頼みます。絹子は、奥様からどうしてもお伝えしたいことがあるといって2度ほど電話があった、と知らせます。絹子に、「いろいろありがとう」と言って阿南は車へ向かいます。

阿南が閣議に戻ります。
閣議では、原文の「義命の存する所」か「時運の趨く所」かで、大臣と迫水の間で真剣な討議が繰り広げられていました。
米内は、海軍省から戻るなり、「「戦局必ずしも好転せず」にしよう、陸軍大臣の意見に僕は賛成する」と言い出します。戸惑う迫水に、鈴木は「「戦勢日に非にして」を「戦局必ずしも好転せず」に改め、「義命の存する所」を「時運の趨く所」に改めることにしましょう」と結論を出します。

阿南が陸軍省に戻ってくると、門にも本館入口にも衛兵も警備憲兵もいません。阿南が館内に入ると、ラジオの「明日15日正午に重大なるラジオ放送があります。国民は皆謹んで聞くように」という大本営発表の臨時ニュースが聞こえてきます。阿南がラジオのスイッチを切ると、灯の消えた館内にヴェラ・リンが歌う「ウィ・ウィル・ミート・アゲイン(また会いましょう)」が流れてきます。阿南は、大臣室で辞職願を書きます。机上には、1818と2003に受けた「奥様カラ電話アリ」のメモが残されていました。当番兵が入ってきて、竹下中佐は省内のどこにもいないと報告。阿南は、当番兵に前線の軍司令官、師団長あての電報を渡し、参謀総長に内容の確認をしてくれ、と命じます。当番兵に以後の連絡先を聞かれ、阿南は、30分後に閣議に戻り、その後は官舎、と答えます。林秘書官が入ってきて、荒尾課長は官舎で待っていたようだが、こちらへ来る。奥様から電話があったと伝え、車で待機していると退室します。

阿南の自宅の電話が鳴ります。綾子が、阿南からだと思って受話器を取るも長女喜美子からでした。綾子は、きょう惟晟の部下だった人が訪ねて来たことを話します。

阿南が、通話中の自宅に電話をかけているところへ荒尾課長が入ってきます。

「惟晟兄さんの戦死の様子はお父さんもずっと知りたがっていたけど、でも一刻を争うことではないでしょう」と喜美子。綾子は、「そうね、そうなんだけど」と返事します。「お父さんが帰ってきたとき、ゆっくり話せばいいじゃないの」と言う喜美子に綾子は返答ができません。何かを察して、「お母さん、もしかしてお父さんもう帰らないの」と言う喜美子。

「我々はこの後どうすればいいのでしょう」と途方に暮れる荒尾を阿南は励まします。「軍をなくして国を残す。日本は滅びるものか。勤勉な国民だよ。必ず復興する。中央幕僚の最大任務は平静な終戦処理だ。外地に残された将兵の復員も早急に実現してくれ」。
そして、箱の中から葉巻を1本取り出し荒尾に握らせ、肩を叩いて「頼んだよ」と言って出ていきます。

近衛師団司令部では、8月15日0200発の近衛師団命令に幕僚たちが押印。古賀が入ってきて、「父(東條)は大命どおりに従って行動せよと申しました」と言う。椎崎や畑中は、蹶起の連判状だと思えばいいと言って古賀に印を押させます。「水谷参謀長には本部に残ってもらい、我々は全員で宮城内警備司令部に入る」、「上原とは向こうで合流し、芳賀連隊長の説得に当る」と言います。古賀は、「私物の整理がしたい、少し時間をください」と言って、遺書を書きます。

21:30、宮城内警備指令所では、椎崎や畑中らが近衛歩兵第二連隊の連隊長芳賀豊次郎大佐(安藤彰則)に兵力使用計画を説明。「近衛師団長は承認しているのか」という芳賀に、近衛師団長はもとより、陸軍大臣、参謀総長、東部軍司令官も承認している、と畑中は嘘をつきます。

綾子は三鷹の自宅から東京へと歩いて出発します。

陸軍省地下防空壕では井田がふて腐れて寝ていました。畑中と椎崎が来て、「近衛歩兵第二連隊が立ちます」、「森師団長を説得してくれ」、「和尚さんを説得できるのは井田さんしかいないと皆の意見が一致しました」と言う。「俺が行っても同意しなかったらどうする覚悟だ」と言う井田に、「今は同意するしないが問題ではなく、最後の努力をするかしないかが問題なんです」と畑中。

閣僚が次々に詔書に署名。阿南が安井に「一生一度の一大貧乏くじを引いたぞ」と言い、握手します。

22:50、近衛師団参謀室では、井田や畑中が森師団長に会おうと待っていますが、森は義弟である第二総軍参謀の白石中佐と談話中でした。

総理大臣室へ帯刀、白手袋の阿南が入ってきて鈴木のそばに直立。「総理、私は陸軍の意志を代表して随分強硬な意見を申し上げました。慎んでお詫びいたします。私の真意は一つ、ただただ国体を護持せんとするにありまして、なにとぞご了解くださいますよう」。鈴木はイスから立ち上がり、「私こそあなたの素直なご意見を心から感謝し拝聴しました。みな国を思う情熱でした」。阿南の肩に手をやり、「阿南さん、日本のご皇室は絶対に安泰です」。
阿南はうなずき、「私もそう信じております」。阿南は葉巻が入った箱を差し出し、「これは南方第一線からの届け物であります。私はたしなみませんので、総理に吸っていただきたく持参いたしました」と言って総理に箱を手渡します。陸相が退室した後、鈴木は、「阿南君は暇乞いに来たのだね」と言います。

天皇は録音のため御文庫を出発しました。

陸相官舎に帰ってきた阿南は、夜が明けるまで誰も入れるなと歩哨に命じます。

23:25自動車で宮内省に着いた天皇は、政務室に入ります。

陸相官舎では、阿南が惟晟の遺影を座卓に置きます。座卓には、酒の用意と肴が置かれており、「奥様にご連絡してください」という絹子のメモが置かれていました。

近衛師団参謀室に井田、畑中、椎崎は待機していました。部屋に入ってきた窪田兼三少佐(青山草太)から竹下中佐は駿河台の宿舎にいると聞かされた畑中は、師団長の説得を井田に任せて窪田とともに竹下の下へ走ります。

政務室では天皇が録音に臨もうとしていました。
「声のほうはどの程度でよろしいのか」と問う天皇に、下村総裁は「そのお声のままでよろしいかと思います」と答えます。
録音が始まりました。

井田と椎崎は、近衛師団長森赳中将を説得に師団長室に入ります。浴衣姿の森は、義弟である第二総軍参謀白石通教中佐(本郷壮二郎)と歓談していました。森は、2人に、まず自分の人生観を聞いてくれ、と語り出します。

8月15日00:08、綾子は東京へと夜道を歩いていました。

駿河台の渋井別館で同僚と寝ていた竹下中佐は畑中と窪田に起こされます。

竹下は、「万事休すだよ、畑中」と第一声。畑中が「森師団長を説得しているところです。午前2時を期して我々は蹶起します」と言うが、竹下は「阿南大臣は同意しない」。畑中が「必ず全軍が立ち上がります」、「竹下中佐殿、説得してください」と訴えるが、竹下は「無駄だ。今さら何をしても始まらんよ」と言ってもみ合いになります。

録音は無事終了しました。2組の録音盤は2個の缶に納められ、それぞれ袋に入れられます。技師の手から放送局に録音盤が入った袋が渡されます。しかし、陸軍の不穏な動きもあるようだし、放送局はかえって危ないのではないか。むしろ正午の放送まで宮内省で保管した方がいいのではとして、「侍従職にお預けできませんでしょうか」と頼まれた徳川侍従があっさり承諾しました。

01:03、阿南は、「大君の深き恵に浴みし身は言ひ遺すへき片言もなし」という辞世の歌と「一死以て大罪を謝し奉る」という遺書を書きます。辞世の歌は、昭和13年第109師団長として中国に向かう時、天皇と二人だけで食事をした後に、その感激を込めて詠んだものです。

近衛師団長室では、森と井田、椎崎の間で激論が交わされていました。
「陛下のご意志に反する行動は絶対に許さん。これが近衛師団の本分だ」と森。
01:20、畑中らが近衛師団に帰って来ます。
森は「諸君の考えは分かった。率直に言って感服した。どちらが正しいのか、井田、わしには分からん」と言い、明治神宮へ参拝に行き、神前で心を清めて考えると言います。3人が明治神宮へ参拝に行こうとしているところへ畑中や上原大尉らが入ってきます。それは時間稼ぎだと、畑中が拳銃で森を射ち、他の者が日本刀で白石中佐を殺害します。畑中は、井田に「時間がなかったので」とつぶやき、「東部軍を頼みます」と要請。井田は、事件報告に東部軍へ行こうとしていた参謀長水谷一生大佐(香山栄志)と一緒に車で東部軍へ向かいます。
かねてから用意していた師団命令書に畑中が殺害したばかりの森の印を押し、偽命令は完全な形を整えます。芳賀連隊長に蹶起の電話連絡、陸軍大臣がもうすぐ行くと告げます。

芳賀は、第二連隊に全員白襷で出動準備を命じました。
01:37、警備司令所の芳賀二連隊長に偽の師団命令書が届けられます。芳賀は、宮城各門の警備兵に「宮城から外へ出る車両は玉音放送関係者及び情報局総裁下村宏等である。全て捕虜とせよ」、また、皇宮警察の武装解除を命じます。

東部軍司令部の参謀長高嶋辰彦少将(奥田達士)の部屋に井田と水谷が入ってきます。水谷はふらつきながら高嶋に、「森師団長が殺害され、自分は東部軍司令官の指示を仰ぐために参りました」と報告して、その場にフラフラと倒れかかります。井田は「一応反乱軍です」と名乗ります。

陸相官舎に竹下がやってきます。
「今夜自刃することに決めた」と阿南。竹下は「事ここに至った以上、あえてお止めいたしません」と応じます。「そうか安心した。一緒に飲もう」と言う阿南に、竹下は「畑中には閣下に出馬をお願いするよう言われましたが、お顔を見て吹っ切れました」。阿南は「私が死ねば一つの幕引きになるさ」と言います。

東部軍司令部参謀長室では、高嶋参謀長の前で井田が床に座って独白します。「私の生家には家訓があります。「王子に仕うるも、武家に仕うる事なかれ」。これにもとる事なきやと自問自答して行動したのですが、国体護持に全てを捧げよという教えであると想定した所で、武力に訴える事は駄目なんです」。

02:00、近衛兵が放送会館を占拠し録音盤を探しています。

録音技師など放送関係者が宮城の門を出たところで拘束されます。兵舎に入れられるが、中には既に下村情報局総裁らが捕らわれていました。

東部軍司令部では、田中軍司令官が「宮城内と電話連絡ができん。塚本、反乱軍を説得、鎮圧するぞ」と叫んでいます。そこへ高嶋参謀長が入ってきて「はい、参謀数名を宮城内に派遣しました。状況が明らかになるまで今しばらくお待ちください」と報告します。田中が「陛下に万が一のことがあったら腹を切るだけではすまんぞ」と言い、高嶋は「闇夜に動いても同士討ちの可能性があります。閣下のご同意を得て、高嶋は軍参謀の陣頭指揮をとります」と了解を求めます。
参謀長室に戻った高嶋は「憲兵司令部に軍司令官出動の場合の護衛憲兵の派遣を要請しろ。宮城内のあらゆる電話回線を調べろ。反乱軍が使う生きてる回線がどこかにあるはずだ」と指示を出します。井田は呆然と床に座ったままです。
そこへ近衛歩兵第七連隊長が命令確認に来ます。「ただいま電話で師団参謀から重要命令が下達されましたが、不審の点があります。軍司令官のご意図をお伺いにまいりました」。高嶋は「近衛師団長は殺害され偽命令が飛び交っている。第七連隊は東部軍の指揮下に入って待機」と指示します。
高嶋が井田に「井田中佐、君は宮城に戻って畑中少佐の説得だ。うちの車両を使え」。

宮内省では、職員3人が「クーデターに間違いないです」、「二・二六事件のときと同じだ」、「地下の防空本部に近衛師団直通の電話があります」などと会話しながら階段を下りかけると、近衛兵が駆け降りていきます。地下では近衛兵が電話線を切断していました。

甲子園会館1階の談話室・アートショップ(甲子園ホテル時代のバー)
甲子園会館1階の談話室・アートショップ(甲子園ホテル時代のバー)
侍従室という設定です。終戦の日の未明、近衛兵の反乱を知らされた3人の侍従がベッドから起き上がるというシーンが撮影されました
甲子園会館での撮影現場 ⑤

8月15日03時前、侍従室のシーンです。甲子園会館1階の談話室・アートショップ(甲子園ホテル時代のバー)で撮影されました。
侍従室で寝ていた戸田、徳川、三井の3人の侍従が、ただならぬ物音に目を覚ましかけます。そこへ、大金次官がドアを開け「近衛兵が暴れている。誰とも連絡ができない」と知らせ、あわてて侍従がベッドから起き出すという場面です。中は暗くて、アートショップの特色である床の乱張りタイルは全く認識できませんが、扉や窓枠がかすかに見て取れます。

甲子園会館東棟階段
甲子園会館東棟階段
宮内省1階という設定です。侍従室を抜け出した3人の侍従が外へ出ようと忍び足で歩いているシーンです。シェル型の照明で甲子園会館と分かります
甲子園会館東棟1階の東通用口
甲子園会館東棟1階の東通用口
宮内省1階の東口という設定なんでしょうか。外へ出ようと侍従がドアを開けますが、近衛兵がいたため慌ててドアを閉めるというシーンが撮影されました。ドアを開けたときに足元のタイルが確認できます
甲子園会館での撮影現場 ⑥

8月15日03時前、宮内省1階のシーン。侍従室に続く場面です。甲子園会館東棟の階段や東通用口付近で撮影されました。
陛下の傍に行こうと、侍従室を飛び出した戸田、徳川、三井の3人の侍従が、建物の外へ出ようとしているところです。
東棟階段で「とにかく陛下のお傍に行かないと」、「表玄関もダメです」、「北口だ」と言いながら忍び足で歩いています。東棟階段のシェル型の照明が写っています。
外へ出ようと扉を開けると、近衛兵がいて「出てはいかん、命令だ」と怒鳴られます。「出ていくものですか、ごきげんよう」と言ってドアを閉めます。このドアは、甲子園会館東棟1階の東通用口の扉ですが、開けたときに足元のタイルが視認できます。

03:00、宮城内では放送局関係者ら捕虜の尋問をしようとしていました。「大臣がまだ来られないが、どうしたんだ」と言う芳賀に師団長死亡の報告が入ります。「ただいまより連隊とともに師団の指揮をとっていただきたい」と要請された芳賀は「水谷参謀長はどうした」と聞き返します。水谷参謀長は蹶起要請に東部軍司令部へ行ったという返事に、芳賀は師団長が死んだ経緯を聞きただします。経緯は調査中という答えが返ってきます。再度の指揮要請に、芳賀は「指揮は執る。ただし、マルゴーマルマル時までに大臣が来られなければ宮城から撤退する」と答えます。
畑中と古賀が兵舎内に入り、下村を尋問しているときに井田中佐が戻ってきます。東部軍の状況を訪ねる畑中に、井田は「冷めきっている。畑中、もういかん。失敗だ。手を引け」と言います。「恐れるものは何もない」と言い張る畑中に「馬鹿を言え。師団長の死は師団内に広がっている。第七連隊は東部軍直轄となった。各連隊も続く。籠城は混乱を招くだけだ。それが貴様には分からんのか」と𠮟ります。「畑中、夜が明けるまでに兵を引こう」、「我々だけで責任をとろう」という声が上がり、井田は「世の人々は真夏の夜の夢を見たと言って、笑ってすませてくれるさ」となだめます。しかし、椎崎は「阿南閣下の出馬で事情が変わる。竹下中佐が説得中だ」と食い下がります。井田が「無理だよ」と言うも、「いや違う。閣下が切り札だ」と強硬に主張します。ついに井田も「だったら俺が確認する。夜明けまでには必ず引け」と言って出ていきます。
電話が鳴り、放送会館を占拠した小田中尉から、録音盤はまだ宮城にあるという報告が入ります。「もう一度放送関係者を尋問しますか」と聞かれた畑中は「いや、宮内省を捜索して木戸内大臣を捕える方が早い」と答えます。
宮内省では反乱軍による捜索が行われています。「木戸内大臣はどこにいる」と聞かれた戸田侍従は「僕みたいな若僧には分かりません」。さらに「録音盤はどこにあるか知ってるだろ」と聞かれ、「分かりません」。

甲子園会館1階西応接室。甲子園会館1階ラウンジ(甲子園ホテル時代のレセプション・ルーム)の東西両側にはアルコーブ(小室)があります。
甲子園会館1階西応接室。甲子園会館1階ラウンジ(甲子園ホテル時代のレセプション・ルーム)の東西両側にはアルコーブ(小室)があります。ラウンジとアルコーブの間には折り戸があり、現在は通常折り戸を閉め、アルコーブを東応接室、西応接室として使っています。ホテル時代には、折り戸を開放してレセプション・ルームを広く使っている写真が多いようです。アルコーブにはホテル時代からの暖炉が残っていますが、今は使用できません。
宮城の内大臣室という設定で西応接室が使われました。終戦の日の午前3時頃、反乱軍に奪われないよう木戸内大臣が重要書類を破っているのをやきもきしながら徳川侍従が急かしているというシーンです。背景に暖炉がはっきりと見て取れます。
甲子園会館での撮影現場 ⑦

8月15日03時頃、宮城・内大臣室のシーンです。
木戸幸一内大臣が、反乱軍に奪われないよう重要書類を破く場面です。甲子園会館1階西応接室で撮影されました。背後に西応接室の暖炉が明瞭に写っています。
木戸が、書類を破きながら、「今になって騒いで何になるんだ、馬鹿。石渡宮内大臣は?」と尋ねます。徳川侍従がやきもきしながら「既に地下金庫にお隠れです。いつ兵士が戻ってくるかわかりません。一刻も早く地下の金庫室へ」と急がせます。「精一杯急いでおる」と木戸。

陸相官舎では、阿南が自決を前に竹下と酒を酌み交わしていました。「陛下がね、喜美子の結婚を気遣ってくださった。アナンは幸せ者です。おっと、もう3時を回ったか。自決は14日のつもりで、辞表は14日にしておいてくれ」と言う阿南に、竹下は「了解しました」と答えます。「はじめは20日にするつもりだったんだ。次男の命日だからな。しかし、それでは遅すぎる。14日なら父の命日だからな」と阿南。「家族ありきなんですね」と言う竹下に、阿南は「楠木正成の真の教えとは何か。家族を大事に思うことだ」と言います。

綾子は夜道を歩き続けています。

宮内省では、戸田、徳川、三井侍従が御文庫へ行こうとしていました。御文庫へ通じる3本の道の2本が封鎖されているといいます。残りの1本である紅葉山トンネルを抜ける道も当然封鎖されているだろうとして、三井侍従は侍従武官と相談すると言って去ります。戸田、徳川侍従は機転を利かせて、「御文庫に戻りたいのですが通していただけませんでしょうか」と言って反乱軍に通してもらいます。

阿南は短刀2振りを取り出し、1振りを形見だと言って竹下に渡し、もう1振りを座卓に置きます。竹下が「家族に対して何か伝えることはありませんか」と尋ねます。阿南は「綾子には、信頼し感謝していると伝えてくれ、よく尽くしてくれた」と答えます。
表で騒ぐ声が聞こえ、竹下が見に行きます。
04:05、井田が部屋に入ってきました。阿南が「介添えが二人か」と言うのに、井田は「私は後からお供いたします」と答えます。
阿南が井田の頬を殴り、「馬鹿言うな」。「お供させてください」と言う井田に、阿南はさらに激しく井田の頬を殴ります。「死ぬのは俺一人だ、いいな」と阿南。井田は「はい」と答えます。「しょうがない。決別の宴だ」と阿南は井田の盃に酒を注ぎます。
「あまり飲まれると、手元がくるって仕損じると困ります」と竹下。阿南は「まだまだ。飲めば血行がよくなるから、出血多量で確実に逝ける。心配せんでええ、飲もう」と3人で盃を上げます。

東部軍司令部では、やっと宮城と回線がつながります。高嶋参謀長が芳賀に電話するが、回線不良でよく聞き取れません。畑中が芳賀から受話器を奪い、「どうか我々の熱意を汲んでください」と訴えます。高嶋は、「私情を捨てた君たちの気持ちには頭が下がるが、東部軍は大命に従って動く。今引けば叛乱とは見做さない」と言います。畑中は、なおも「10分だけ時間をください。陛下の放送ある前に10分間。我々の気持ちを一般国民に聞いてもらいたいのです。放送局に行かせてください」と訴えます。高嶋は「それが未練だ。分らんのか、畑中少佐」と拒絶。畑中は受話器を置きます。
事態を完全に飲み込んだ芳賀は「もしこれ以上反乱行為を続けるなら私を殺せ」と言い渡します。畑中は、「積極は如何に努めてもなお神の線より遠し」とつぶやき拳銃を抜こうとするが、「もう終わったんだ、畑中」と逆に拳銃を向けられ、出ていきます。

甲子園会館2階応接室(甲子園ホテル時代のカードルーム)
甲子園会館2階応接室(甲子園ホテル時代のカードルーム)
宮城の女官長室という設定です。終戦の日の早朝、女官と侍従が反乱軍への対策を協議する場面が撮影されました
甲子園会館での撮影現場 ⑧

8月15日早朝、宮城の女官長室で反乱軍への対策を協議するシーンです。甲子園会館2階の応接室(ホテル時代のカードルーム)で撮影されました。保科女官長と女官2名、徳川、戸田、入江、永積寅彦侍従(岩寺真志)が詰めています。半円形の独特な窓が印象的です。
「反乱が進行していることは心得ておきます。御文庫全体としては、反乱軍と戦う構えを見せましょう」と保科。「戦う構え?」と聞き返す侍従に、保科は「1階窓には鉄の扉が付いております」。侍従が「敵の空襲のときにも閉めたことはございませんが」と言うのに、保科は「今がその時です」と毅然とした態度を示します。

首相官邸への機銃掃射で、迫水が飛び起きます。横浜警備隊長佐々木武雄大尉(松山ケンイチ)率いる兵と学生が襲撃してきたのです。官邸護衛の巡査は、総理は丸山町の自宅に帰っておりここにはいない、迫水も総理と一緒だ、と教えます。迫水は、直ちに脱出するよう鈴木私邸へ連絡を依頼して、慌てて逃げ出します。佐々木は官邸に火をつけます。

酒盛りを終えた阿南が立ち上がり、純白のワイシャツの袖に腕を通します。「これはお上が肌に付けられていたものだ。侍従武官だったころ、陛下に拝領した」。すべての勲章を佩用した軍服をきちんと畳んで床の間に置き、次男惟晟の写真を軍服の両袖の間に載せます。

04:50、放送会館に畑中らがやってきます。「これより自分たちが放送する。すぐに準備してくれ」と命じますが、技術員保木玲子(戸田恵梨香)は「防空情報が出ているときは放送できません」と拒否。畑中がピストルを突き付けて「5時からの報道番組の時間のとき、自分に放送させてください」。放送員館野守男(野間口徹)が「警報発令中の放送は東部軍管区に連絡をしないと」と拒みます。「放送員がそこにいるじゃないか」という声に館野は「彼は、マイクのテストをしているだけです。東部軍の許可をまず…」とあくまで拒絶しました。畑中が、ピストルで脅して「マイクテストを始めろ」と命じます。そのとき、女子技術員保木玲子が電源を落としました。畑中は、それでも空しく暗闇のマイクの前で、全軍将兵に告ぐという檄文(陸軍大臣訓示)を読むのでした。

田中軍司令官が近衛師団司令部に車を乗り付けます。近衛師団営庭では近衛歩兵第一連隊の将兵が完全軍装で連隊長渡辺多粮大佐の指揮で宮城内に向かい行進を始めようとしているところでした。田中はその前で車を停め、命令は偽物だと叫びます。
05:30、連隊長室に入った田中は、反乱の指導者の一人参謀石原貞吉少佐(尾﨑宇内)に「貴様らの行為は叛逆罪だ」と叫び検挙を命じます。田中は、渡辺大佐に「宮城内の芳賀連隊長に連絡して私を乾門で迎えるよう」命令します。

大城戸憲兵司令官が宮城の事件を陸相に報告に来ました。
阿南は竹下に、君が聞いてくれ、宮城の件が終わっていればもう終わる、と言います。
井田には、「一人にしてくれ」と言って去らせます。
ワイシャツ姿の阿南は、廊下に出て短刀を腹に突き刺し、横に引きます。
大城戸の報告を聞き終えて戻ってきた竹下が「介錯いたしましょうか」と尋ねると、「無用だ、あっちへ行っておれ」。竹下が去ると、静かに右頸をなで、短刀を右頸に押し当てます。

甲子園会館1階西ホール(ホテル時代のバンケットホール)の南部分
甲子園会館1階西ホール(ホテル時代のバンケットホール)の南部分
宮城の天皇の居室という設定です。終戦の日の朝、不吉な予感があったのか天皇がイスからはっと身を起こすシーンが撮影されました
甲子園会館での撮影現場 ⑨

8月15日の朝、宮城の天皇の居室のシーンです。甲子園会館1階西ホール(ホテル時代のバンケットホール)で撮影されました。
阿南自決後、何かを察したように天皇がもたれているイスから身を起こす場面です。セリフはありません。西ホールのしずくの装飾等が視認できます。美術部が天井に設えた帷が見えます。大きな壺が飾られています。「甲子園会館の各所がロケ場所となった「日本のいちばん長い日」 その1」で「甲子園会館での撮影現場②」として西ホールに設えられた皇居内天皇の居室の映像2枚を紹介しました。これらの映像は西宮流に提供いただいたものですが、そのうちの1枚にこの大きな壺が写っています。

西ホール(甲子園ホテル時代のバンケットホール)入口
西ホール(甲子園ホテル時代のバンケットホール)入口
宮城の奥廊下という設定です。終戦の日の朝、2人の侍従が天皇に起きていただく相談をしているシーンが撮影されました
西ホール(甲子園ホテル時代のバンケットホール)入口の階段
西ホール(甲子園ホテル時代のバンケットホール)入口の階段
宮城の天皇の居室の階段という設定です。何かを感じて目を覚ました天皇が、居室の階段を上がって侍従に「何があった?」と尋ねるシーンが撮影されました
甲子園会館での撮影現場 ⑩

8月15日の朝、宮城の奥廊下のシーンです。甲子園会館1階西ホール(ホテル時代のバンケットホール)の入口で撮影されました。
天皇がもたれているイスから身を起こす場面に次ぐ場面です。宮城の奥廊下(西ホールの入口)で三井侍従と戸田侍従が「そろそろ陛下をお起こしせねば」と話しているときに、天皇が居室(西ホール)の階段を上がってきて、「何があった?」と尋ねる場面です。
天皇が駆け上がるときに、西ホールのボーダータイルや西ホールの下から見た泉水上のシェル型シャンデリアやラウンジの一部が見えます。

綾子が陸軍大臣官舎にようやくたどり着きます。阿南は寝かされ、すべての勲章を佩用した軍服がかけられています。綾子は、阿南が知りたがっていた惟晟のことについて語りかけます。

08:00、出勤してきた岡部長章侍従(中村靖日)に、陛下が無事なことや録音盤がまだ宮城内にあることを侍従たちが教えます。

古賀は、家族に宛てた遺書の前で自決しました。
畑中と椎崎は宮城前の芝生でピストル自殺します。

鈴木は、弟である鈴木孝雄大将(福本清三)の私宅に避難していました。正午の玉音放送の見通しもついたとして一が作成した辞表の案文を読みながら、鈴木は「これからは老人の出る幕ではないな。二度までも聖断を仰ぎ、誠に面目ない」とつぶやきます。

綾子が、阿南に向かって、松山から聞いた惟晟の軍隊生活について語りかけます。

正午に玉音放送が始まります。天皇が放送を聞いている場面で映画はラストを迎えます。

甲子園会館での「日本のいちばん長い日」の撮影は、平成26年(2014年)11月29日と30日の2日間にわたって行われました。甲子園会館に来られた主な出演者は、昭和天皇役の本木雅弘さん、皇后(香淳皇后)役の池坊由紀さん、木戸幸一内大臣役の矢島健一さん、入江相政侍従役の茂山茂さん、三井安彌侍従役の植本潤さん、徳川義寛侍従役の大藏基誠さん、戸田康英侍従役の松嶋亮太さん、保科武子女官長役の宮本裕子さんなどでした。
11月30日にはオープンキャンパスが行われていたため、撮影との調整が必要でした。
「日本のいちばん長い日」のパンフレットには、撮影現場14か所について、出来事が紹介されています。甲子園会館については次のように記されており、オープンキャンパスにも触れられています。
兵庫県西宮市 甲子園会館
[舞台:宮城 天皇の居室・吹上御所/御文庫棟 他]
武庫川女子大学の施設。フランク・ロイド・ライト様式のモダンさで、他のロケ地とは対比が生まれることを狙った。床や壁のディテールに凝っていて、構造が変化に富み、どこか浮世離れしている点が天皇の居室としてあうと思った。撮影時にオープンキャンパスなどの行事があって調整に苦慮したが、撮影自体は大学の協力で順調に進んだ。

令和3年(2021年)7月30日の神戸新聞夕刊に、「兵庫舞台の名画 銀幕かわらばん特別編⑳」として「日本のいちばん長い日」が取り上げられています。この映画のロケ地となった甲子園会館を「時代に翻弄された近代建築」として紹介しています。記事の中では、天皇・皇后両陛下食事の場面で使用された1階ラウンジについて、「建築当初から敷かれ、現在は色あせたじゅうたんがそのまま写っており、趣を醸す。」と書かれています。しかし、当該じゅうたんは、武庫川学院が甲子園会館を取得後に敷いたものであり、ホテル時代からのものでないことをお断りしておきます。

2022.03.04

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甲子園会館の各所がロケ場所となった「日本のいちばん長い日」 その1
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
昭和20年(1945年)6月12日、宮城内吹上御所での昭和天皇・皇后両陛下の食事シーン
甲子園会館1階ラウンジで撮影されました
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
昭和20年(1945年)8月14日、宮城内御文庫地下防空壕で開かれた御前会議のため集結した陸相と首相の公用車

武庫川女子大学甲子園会館は、前身の甲子園ホテル時代を含めると、5本の劇場映画のロケ地となっています。

甲子園ホテル時代には、昭和12年(1937年)公開の日独合作映画「新しき土」(原節子主演)に、東京の「ホテル ヨーロッパ」という設定で登場しています。
昭和40年(1965年)に武庫川学院が取得して甲子園会館となって以降では、平成19年(2007年)公開の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」、平成27年(2015年)公開の「日本のいちばん長い日」、平成28年(2016年)公開の「秘密 THE TOP SECRET」、令和2年(2020年)公開の「日本独立」の4本の作品が甲子園会館を舞台に撮影されました。
「新しき土」と「ALWAYS 続・三丁目の夕日」については、以前のホームページで紹介しました。

『新しき土』に関する記事
原節子が一躍銀幕のスターダムに駆け上がるきっかけとなった映画「新しき土」と旧甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)(2018.10.19)

『ALWAYS 続・三丁目の夕日』に関する記事
甲子園会館がロケ地となった「ALWAYS続・三丁目の夕日」(2020.06.23)

今回は、「日本のいちばん長い日」について紹介いたしましょう。

昭和20年(1945年)8月14日正午の御前会議で日本の降伏が決定し、15日正午の玉音放送でポツダム宣言受諾を国民に知らせるまでの24時間を中心に、4月の鈴木内閣組閣時から描いたものです。その舞台裏では何が行われていたのかを、阿南惟幾陸軍大臣、鈴木貫太郎首相、昭和天皇を中心に描いています。脚本・監督を務めた原田眞人は「昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の3人を中心とする‟家族“のドラマを狙いとしていきました」と述べています。阿南陸軍大臣を役所広司、鈴木首相を山﨑努、昭和天皇を本木雅弘、迫水久常内閣書記官長を堤真一、畑中健二陸軍少佐を松坂桃李が演じています。原作は半藤一利の「日本のいちばん長い日 決定版」。制作は松竹撮影所。戦後70年に当る平成27年(2015年)8月8日に公開されました。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では、甲子園会館はわずかに内側から見た正面玄関や廊下で撮影したシーンしか画面には出てきませんでしたが、「日本のいちばん長い日」では甲子園会館の多くの場所が登場します。
映画は東條英機陸軍大将(元首相)のアップから始まります。中嶋しゅうの迫力ある演技です。

昭和20年(1945年)4月5日、小磯国昭内閣が総辞職。同日、後継内閣首班を推薦するための重臣会議が宮中で開かれました。出席者は、木戸幸一内大臣、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、若槻礼次郎、広田弘毅、東條英機、鈴木貫太郎の8人。東條ひとりは畑俊六元帥を主張。他の重臣は枢密院議長である海軍大将鈴木貫太郎を推薦しますが、鈴木は受け入れようとしません。
重臣会議が終わって部屋を出たところで、東條が鈴木に、「海軍出身の総理では陸軍はソッポを向きますよ。陸軍がソッポを向けば内閣は崩壊する」と恫喝と思えるような発言。岡田(吉澤健)がこれに正面から嚙みついたというシーンです。

重臣会議の結論を聞いた昭和天皇は、同日、鈴木を宮中御学問所に呼び、組閣を命じます。鈴木は拝辞を願い出ます。「77歳にして政治には疎く、耳も遠く、内閣の首班としては不適当です。軍人が政治に関わらぬことを明治天皇に教えられ、今日までモットーとしてまいりました」と言います。
天皇は「鈴木がいてアナンがいた。あの年月が今は懐かしく思う」と言い、回想シーンが挿入されます。
昭和8年の特別大演習。戦況を眺めていた天皇の上衣の背中あたりに大じわが。阿南惟幾侍従武官がツカツカと天皇のうしろに近寄り、手早く上衣の裾をひっぱり服装を整えます。天皇のうしろには鈴木侍従長をはじめ将官が大勢ひかえており、だれもが思わず注目しました。鈴木は昭和4年1月から昭和11年11月まで侍従長を務め、阿南は昭和4年8月から昭和8年8月まで侍従武官でした。2人は阿南が侍従武官であった4年間一緒だったことになります。
天皇は、鈴木に「耳が聞こえなくともよい」、「もうほかに人はいない。頼むからどうか気持ちを曲げて承知してもらいたい」と言います。鈴木は、組閣を決意するほか手立てはありませんでした。

私邸へ帰った鈴木を家族が迎えます。玄関には東郷元帥の肖像画が飾られています。長男の一(小松和重)は農商省山林局長のポストを捨て総理秘書官になって鈴木を助けると言います。鈴木は、昭和11年2月26日の二・二六事件でいわゆる君側の奸として反乱軍から頭、心臓、肩、脚の付け根に4発の拳銃弾を受け、瀕死の重傷を負ったことが語られます。とどめを刺そうとした襲撃隊にたか夫人(西山知佐)の咄嗟の機転で助かったのです。たかは天皇の養育係を勤めていたことが語られます。22歳だった明治38年5月から鈴木と結婚するために退職した大正4年まで、皇孫であった天皇が4歳のときから養育係を勤めていたのです。

組閣にあたって、鈴木は、総理秘書官の一を伴ってまず陸軍省へ陸相杉山元元帥(川中健次郎)を訪問。鈴木は、単刀直入航空総監の阿南惟幾大将を入閣させてほしいと希望します。杉山は、別室で参謀総長の梅津美治郎大将(井之上隆志)、教育総監の土肥原賢二大将と陸軍三長官会議を開き、1.戦争の完遂、2.陸海軍の一体化、3.本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的かつ躊躇なく実行すること、という3条件を付して阿南入閣を承諾します。
阿南が陸相にという報に、軍務局の竹下正彦中佐(関口晴雄)、井田正孝中佐(大場泰正)、椎崎二郎中佐(田島俊弥)、畑中健二少佐ら若手将校の士気は盛り上がります。竹下は阿南の義弟です。

三鷹にある阿南の自宅では、和服姿の阿南が長女喜美子(蓮佛美沙子)やその婚約者秋富公正海軍主計大尉(渡辺大)及び3人の子供たちとトランプを楽しんでいました。壁やテーブルには家族や戦死した次男惟晟(三船力也)の写真が飾られています。喜美子と秋富が、帝国ホテルでの婚礼は時節柄自粛すべきだとおずおずと申し出ます。阿南は、「次男惟晟が一昨年20歳で戦死した。どんな状況で死んだのか、いまだによくわからん。こんな時節だから、できるときにできる限りのことをしておきたい」と二人を諭します。
軍服に着替えて待っている阿南に、妻綾子(神野三鈴)が鈴木総理の到着を告げます。入閣を要請しに訪れたのです。

4月12日、内閣書記官長になった迫水久常が首相官邸に到着。官邸では、鈴木が同盟通信社長古野伊之助の取材を受けていました。この日、アメリカ大統領ルーズベルトが急逝。鈴木は、「深甚なる弔意をアメリカ国民に申し上げる」と表明します。「しかし、大統領の死去によってアメリカの戦争努力が変わるとは思いません。より激化するとも思われます」ともコメント。

4月30日にはヒトラーが自殺。
5月25日には東京大空襲があり、宮城本殿や参謀本部、海軍省、首相官邸内の首相公邸も焼失します。

東京大空襲の直後、下村宏国務大臣兼情報局総裁(久保酎吉)と左近司政三国務大臣(鴨川てんし)の要請で、首相及び下村・左近司・安井藤治(山路和弘)の国務大臣3人と阿南陸軍大臣、海軍大臣米内光政大将(中村育二)による戦力の見通しと時局の将来について話し合う懇談会が首相官邸で開かれました。阿南と安井は陸軍士官学校の同期です。阿南と米内は、陸海軍の一体化を巡って、陸主海従か海主陸従かで鋭く対立します。

昭和天皇・皇后両陛下が昭和20年(1945年)6月12日、宮城内吹上御所で食事をされようとするシーンが撮影された甲子園会館1階ラウンジ
昭和天皇・皇后両陛下が昭和20年(1945年)6月12日、宮城内吹上御所で食事をされようとするシーンが撮影された甲子園会館1階ラウンジ
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
昭和20年(1945年)6月12日、宮城内吹上御所での昭和天皇・皇后両陛下の食事シーン。甲子園会館1階ラウンジで撮影されました
甲子園会館での撮影現場 ①

6月12日、宮城内吹上御所での天皇・皇后(池坊由紀)両陛下食事(雑炊)のシーンです。この場面は甲子園会館1階のラウンジで撮影されました。
ラウンジに楕円形のテーブルが置かれ、両陛下は窓際のイスに並んで座っています。
入江相政侍従(茂山茂)と三井安彌侍従(植本潤)が両陛下に「本日も雑炊でございます」とテーブルに膳を置き、反対側に立っている保科武子女官長(宮本裕子)の横に行き並んで立ちます。一歩後ろには女官が一人控えています。「何か?」と怪訝な表情で問う陛下に、両侍従が、「食糧事情が民間の方が多少融通が利きますので」、「侍従各自が自宅から弁当を持ち込み、陛下のお食事に陪席させていただけたらと思いまして」と提案。女官長が、「君臣語り合う長年の美風をいささかでも回復できるのではないかと思います」と説明。陛下が、「皆に食事の心配をさせて気の毒に思う。しかし弁当の会食とは良い考えだ。ありがとう」と言うシーンです。
背景に南庭園やテラスが写っており、扉が開けられているためカーテンが風で揺れています。ラウンジ東側の木戸には大きな柱時計が掛けられており、真ん中に大きな楕円形のテーブルとイス、西側には丸テーブルに大きな壺が飾られています。それ以外にはラウンジは絨毯を含めて現状のまま。シャンデリアや柱のシェル型照明、ボーダータイルが見えます。

6月22日、最高戦争指導会議が御文庫地下防空壕で開かれました。天皇自らが召集した異例の御前会議でした。最高戦争指導会議のメンバーは首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の6人ですが、この日の会議は懇談という形で木戸内大臣(矢島健一)が同席しています。天皇から発言がありました。「6月8日の会議で今後の戦争指導要綱は決まり、4日前の会議では陸相と統帥部両総長は本土決戦で勝利をあげたうえで和平交渉をなすが可であると主張した。ために、3月から5月にかけての空襲で東京の半分は焼け野原となった。今は地方都市への空襲が続いている。この際、従来の概念にとらわれることなく戦争の終結についても速やかに具体的な研究を遂げる、これの実現に努力するよう希望する」。
天皇退室後、鈴木が発言します。「陛下から我々が心で思っても口にするのを憚らねばならぬ和平に関するお言葉を直接お聞きすることができた。まことにありがたいことです」。
阿南が木戸に呼ばれて廊下に出ると、天皇が近づいてきて声をかけます。「5月の空襲で帝国ホテルも休業していたと聞く。結婚式は無事すんだのか」。
阿南が、「九段下の軍人会館に急遽会場を移しまして何とか」と答えると、天皇は、「よかった、よかった」と言って去っていきます。

翌日、東條が陸軍省へ阿南を訪ねてくるが、阿南は水際作戦指導のため九州出張中で不在でした。軍務局では、阿南が第二方面軍司令官として指揮をしたビアク島作戦の研究をしている最中でした。阿南は、かつて中国で野戦軍を指揮したとき、「積極は如何に努めてもなお神の線より遠し」と言っていました。そうしたことなどから、阿南は若手将校から勝利は攻撃精神に徹してこそと信じて疑わない人だと言われていました。井田は、「あれだけ部下を殺しても恨まれなかったのは乃木大将と阿南大将だけ」と言い放ちます。東條が軍務局に入ってきて、前日の陛下の発言に関して若手将校にハッパをかけます。
「勤皇には二つある、狭義と広義だ。狭義の解釈では陛下より和平せよとの勅命あれば、これに従う。広義の解釈では国家永遠を考える。たとえ陛下より仰せあるも、まず諫言したてまつる。それでもお許しなくばどうする、どうする、どうする」。
椎崎中佐が、「矯正したてまつりても所信を断行すべし」と答えます。
東條は満足げに、「よく言った椎崎中佐。「矯正したてまつりても所信を断行すべし」。予はこれを取る」と返します。

阿南が弓道場で弓を引いているところへ、安井国務大臣が訪ねてきます。「どうやったら戦争を終結させられるか」という阿南に、安井は手帳に「聖断」と書いて示し、「陛下に大元帥陛下として行動してもらうほかはない」と言います。阿南は、「英国式の立憲君主制では許されない。大本営と内閣が一致して決定したことについては反対であろうが承認するのが原則だ」と返します。安井は、「総理が命を懸ければ事はなせる」と断言します。

首相官邸大会議室で開かれた閣僚会議で、長野県松代町への宮城移転について陸軍大臣としての見解を聞かれた阿南は、「お上は国民とともに東京で苦痛を分かちたいとおっしゃっていたと記憶しますが」と答えます。鈴木は「帝都固守、帝都固守、これこれ、これあるのみ」と気持ちを表現します。

閣議終了後、国民義勇隊に使わせる兵器の展示を全閣僚が見に行きます。その途中、阿南は下村宏国務大臣兼情報局総裁に、「私は大本営直属の軍人ではありませんよ。天皇直属です」と言い切ります。
兵器として、火縄銃、槍、さすまた、鋤、鍬、鎌までが並べられており、「まともな兵器はもう残っていないんだね」と言う鈴木に、迫水は「まともな思考力は陸軍には残ってませんよ」と応じます。鈴木は、「鍋の火加減は慎重に、小魚はすぐ煮崩れするからね」と愛読する「老子」にある言葉から返します。
窓の外では女生徒が竹槍訓練をしていました。

7月27日、アメリカ、イギリス、中華民国政府首脳連名で13項目からなるポツダム宣言が発令されました。日本に対し無条件降伏を勧告してきたのです。
定例の閣議で、東郷茂徳外相(近童弐吉)から「ソ連首相が名前を連ねておりません。故に現在行われている対ソ交渉をすっぽかしてポツダム宣言即時受諾は好ましくないと考えております」という報告がありました。阿南は、「国体護持に関しての確証が全く与えられていない以上、拒否を明らかにすべきです」と主張。政府の方針としては、ポツダム宣言を最後通牒とはみなさず、静観あるいは黙殺となりました。

8月6日広島に原子爆弾が落とされ、8月9日にはソ連が日本に宣戦布告します。
8月9日5:35、首相私邸に駆けつけた迫水と東郷を前に、鈴木は「総辞職はしません。この戦争はこの内閣で決着です」と宣言。陸軍大臣が内閣を総辞職に追い込むのではないかと危惧する東郷に、鈴木は「阿南さんは倒れません」と陸相の辞職について否定します。

8:38、陸相秘書官の林三郎大佐(柏村栄行)が陸相官舎に公用車で阿南を迎えに来ます。義弟の竹下が阿南に「原子爆弾恐れずに足らずです。ぜひとも本土決戦を」と要請。

鈴木が天皇に詳しい報告をした後、首相官邸に戻ってきます。
ポツダム宣言受諾ですかと問う迫水に、鈴木はうんと答えます。鈴木一総理秘書官が、「最高戦争指導会議を開き、ついで閣議を召集します。その後抜き打ち御前会議をして聖断を仰ぐ所存です」と説明します。「憲法運用上の規範を破ることになります」と言う迫水に、鈴木は「ルールを破る。大元帥命令によって軍を抑える」と言ってウィンクします。「国の方針を陛下の意志によって決したら…」と危惧する迫水に、鈴木一総理秘書官は、「必然的に天皇にして大元帥に全責任が生じます。しかし陛下に責任を負わすことはできません。輔弼の最高責任者である総理大臣が一命を投げるしかありません」と応えます。鈴木は、「臣下がやってはいけないことだ。死刑は覚悟している。それぞれの段取りを考え、間違いないよう取り運んでくれ」と覚悟を述べます。

迫水は海軍省仮庁舎に行き、軍令部総長豊田副武大将(井上肇)に「御前会議開催の場合は必ず事前に連絡します」と約束して花押署名を求めます。豊田は軍令部次長の大西瀧治郎中将(嵐芳三郎)を呼び意見を聞きます。大西は、署名したらよいと即答。大西は迫水に、「とにかく戦争を続ける方策を考えようよ。2千万人の国民を特攻で殺すつもりなら必ず勝てるんだ」と言い放ちます。
迫水は陸軍省に回り、梅津参謀総長の花押・署名をもらい、10:10軍務局長の吉積正雄中将(桂憲一)に説明します。
「御前会議が正式に最高戦争指導会議として成立するためには総理大臣と統帥部の両総長の3人が連署し、花押を添えた書面を宮中に提出、宮中から大本営に打診が入り…」と手続きを主張する吉積に、迫水は、「ですから問題は緊急対応なんです。総理が相当に体調を崩されています」と緊急事態であることを説明します。
阿南が、「吉積、いくぞ。参謀総長もお待ちだ」と急かします。
「必ず事前連絡くれよ」と言う吉積に、迫水は、「もちろんです」と答えます。
最高戦争指導会議に出席するため、陸軍省玄関を出ていく阿南、梅津、吉積、迫水を、将校が整列し、「命にかけて本土決戦をお願いします」と敬礼で見送ります。

11:20、宮中で最高戦争指導会議が開かれました。
冒頭、鈴木が発言。「広島の原爆といいソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない。ついては各員のご意見を承りたい」。
誰もが黙っている中、沈黙を破って米内海相が発言します。「黙っていたらわからんよ。ポツダム宣言を無条件で鵜吞みにするか、それともこちらから希望条件を提示するか」。
阿南が、「まずは国体の護持の確認です」と答えます。鈴木が、「天皇の国法上の地位を変更しない」と要約。阿南が、「占領は小兵力、小範囲。武装解除は日本人の手で行う」と続けます。「ありえない」と米内。阿南が熱弁を奮います。「外地派遣軍にとって武装解除は屈辱的であり危険です。この条件が入らなければ戦争継続のほかありません。死中に活を求める戦法に出れば勝機は必ずあります」。米内が、「希望的観測で物を言うのは止めたまえ。日本は事実上敗北しているのだろう」と応じます。「敗北とは聞き捨てなりません」と阿南。米内も、「この状況を敗北と言わずして何が敗北だ」と負けていません。阿南の熱弁は続きます。「局地的会戦では負けています。しかし戦争には負けていません。大日本帝国陸軍は明治4年の創立以来一度も戦争には負けていない。こんな議論で敗北を受け入れるわけにはいかない」。
書記官長にメモが届けられます。迫水は、「11時2分に2発目の原子爆弾が長崎に投下されました。被害は広島と同じく甚大であります」と報告します。

鈴木は参内し、天皇に報告、助けを求めます。「戦争指導会議では結論が出なかったので、これより首相官邸に移動し閣議に入ります。おそらく深更まで議論を重ねても結論は出ないと思われます。その場合、陛下のお助けをお願いいたします」。
天皇は「わたくしの名によって始められた戦争。わたくしの本心からの言葉で収拾できるなら有難く思う」と告げます。

阿南は閣議に参加するため、宮中から首相官邸へ徒歩で移動中、燃料切れで車を停めている軍令部次長大西瀧治郎中将に出会います。大西は、「皇族を訪問して戦争継続のお願いをしているがうまくいかんのです」、「米内大臣は腰抜けで陸軍大臣に期待するしかありません。死中に活を求める戦法は私と同じですよ。特攻あるのみ。2千万の国民特攻隊で戦えば神風は吹く」と言います。
阿南は大西の言葉を否定します。「誤解するなよ大西君。死によってのみ任務が遂行される作戦は武士の情けに欠ける。統帥の道にも反する。皇軍精神への冒とくだ」。
「冒とく」と気色ばむ大西に、阿南は、「海軍大臣の立場もあるぞ。この話は以上。誠なれ、ただ誠なれ誠なれ。誠、誠で誠なかれし」と道歌を歌いながら去ってゆきます。
大西は、去ってゆく阿南の後ろ姿に向かって叫びます。「あんた何考えているんだ。わけわからんよ。このまま終戦なら大和民族は死したるも同然ですぞ」。

閣議が始まりました。
ポツダム宣言受諾か否か、激論が交わされます。「筋道から言えば、内閣は総辞職すべきですよ、総理いかがお考えですか」と言う太田耕造文部大臣に対して、鈴木は、「直面する重大問題を私の内閣で解決する決心です」と答えます。
阿南陸相にメモが渡され、阿南は暫時陸軍省へ戻るため21:40退室。

陸軍省に戻った阿南に、参謀次長河辺虎四郎中将(辻本晃良)から全国に戒厳令を布き内閣を倒して軍政権の確立を目指すという蹶起案を渡され、阿南は苦悩します。

阿南が閣議に戻ってきたときに、鈴木が迫水に御前会議の段取りを尋ねます。迫水は、総理と統帥部の両総長の3人が連署し花押を添えた書類をいつでも宮中に提出できると答えます。鈴木は、「これから参内、上奏するので閣僚はしばらく待機されたい」と部屋を出ようとします。阿南が、「大本営条項に違反していないか」と迫水に問いただします。迫水は、「本日の会議は結論を出すというものではなく、実情をそのまま陛下に聞いていただくものと理解しています」と答えます。阿南は、「そしたら閣僚を待機させる必要はない」と追及します。迫水は、「御前会議には平沼枢密院議長にも列席していただくわけで、そこで出た議決を閣議にかけるための体裁を整えるよう皆様にも待機をお願いしようと」と苦しい答弁をします。阿南は、「分かった」とそれ以上は追及しませんでした。

鈴木が参内するため離席。
廊下で安井と阿南が立ち話をしています。「会議の内容は逐一参謀たちに漏れている」と安井。「分かっている」と阿南。安井は、「全軍が貴様の一挙手一投足を注視している。陸相が孤軍奮闘している限りクーデターは起こらない」と強く言います。「その積りでやっている」と言う阿南に、「足りない」と安井。

8月10日、御文庫付属の地下防空壕で御前会議が開かれました。
00:55、阿南が発言します。「ソ連は不信の国、米国は非人道の国、こんな敵どもに保証もなきまま皇室を任せることは絶対にできない。一億枕を並べて斃れても大義に生くべきであります。ただし、4条件案によって戦争を終結させることができるならばポツダム宣言受諾に賛成いたします」。
続いて、参謀総長が発言。「陸軍大臣と同意見です。本土決戦の準備は既に完了しております」。
平沼騏一郎枢密院議長(金内喜久夫)は、まず、国体の護持を確認する字句について問題があると長々と考えを述べます。鈴木からあらためてどちらに賛成かを聞かれた平沼は、「外務大臣の原案に同意です。連合国への要望は陛下の国法上の地位保証1点に集中すべきであります。しかしながら陸軍大臣の4か条もしごくもっともなる故、これも十分に考慮したい」と発言。
最後に鈴木が発言します。「議を尽くすことすでに2時間に及びましたが、戦争指導会議の6名は遺憾ながら3対3のままなお議決することができませぬ。しかも事態は一刻の遅延も許さないのであります。この上は誠に異例で畏れ多いことでございますが、ご聖断を拝しまして本会議の結論といたしたいと存じます」。
鈴木は天皇の前に進み出て恭しく一礼。天皇は、鈴木に「席に復してよい」と言いますが、耳の遠い鈴木は右耳を手で囲って「は?」と天皇を見ます。天皇は再度、「席に復するよう」と言います。見かねた阿南が立ち上って鈴木を席に戻します。
天皇が発言します。「それならばわたくしが意見を言おう。わたくしは外務大臣の意見に同意である。このまま本土決戦に突入すれば日本民族は死に絶えてしまう。わたくしの任務は祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。一人でも多くの日本国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらうほか道はない。このまま戦争を続け文化を破壊し世界人類の不幸を招くことはわたくしの望むところではない」。

9:30、阿南は、陸軍省地下防空壕に高級部員を集めて御前会議の内容を伝えます。
「御前会議の席で主張すべきことは十分主張した」、「和するも戦うも敵方の回答いかんによる。ポツダム宣言受諾は、皇室保全の確証が得られて初めて実行される。この条件がなければ戦争を続ける。陸軍は和戦両様の構えで連合国側の回答を待つ。厳粛な軍紀の下、一糸乱れず団結していけ」。

午後1時から開かれた重臣会議の後、東條は参内して天皇にポツダム宣言受諾反対を奏上します。
「重臣たちは政府の方針に賛同したと聞く」と言う天皇に、東條は進言します。「先ほどの集まりは重臣会議ではなく、鈴木首相による決定通告でございました。東條は納得いたしておりません。あらためてポツダム宣言受諾反対を奏上にまいりました。陛下のお好きな生物学に例えれば、軍はサザエの殻と申し上げてもいいのであります。殻を失ったサザエはその中身も死なないわけにはまいりませぬ」。
天皇が発言します。「チャーチル首相がサザエを食す姿を想像できるか。スターリン元帥もトルーマン大統領もサザエを殻ごと捨てるだろう」。
「東條の比喩は不適切でございました」と言う東條に、天皇は歴史観を述べます。「ナポレオンの前半生は本当によくフランスに尽くしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ働き、その結果フランスのためにも世界のためにもならなかった。わたくしは歴史をそのように見ている。日本はその轍を踏みたくない。違うか東條」。

陸軍大臣公舎では、阿南が陸相官舎付女中絹子(キムラ緑子)にビタミン注射を打ってもらっていました。そこへ軍務課長荒尾興功大佐(田中美央)が入ってきます。稲葉正夫中佐(小林且弥)が書いた陸軍大臣訓示を新聞社に流す前に陸相の確認を得たいと持ってきたのです。陸軍中央は、陸相を担ぎ出そうというクーデター派と陸相ごと内閣を倒そうという過激派の二つに分かれており、荒尾は、双方を牽制するためにもこの訓示を出すべきであると判断したというのです。

縁側に座って葉巻を吸っている鈴木のところへ迫水がやってきます。ポツダム宣言受諾の文書がスイスとスウェーデンに届いた頃だという話の後、迫水が陸軍大臣布告を見せます。既に、放送局や新聞社に回っているといいます。全軍将兵に告ぐという徹底抗戦の檄文であり、放送や新聞掲載を阻止すべく、迫水は下村情報局総裁に強く進言したといいます。鈴木は、「下村総裁には阿南陸相と直接話してもらいなさい」と指示。「本人が望むならそのまま流せばよい」とも鈴木は言います。

下村総裁と阿南の電話交渉の結果、一般国民を対象とした微妙に終戦を匂わせる不透明な総裁談と直接陸軍将兵に向けた戦争継続をうたう陸相布告が11日朝の各新聞に共に掲載されます。

8月11日、三鷹の自宅へ帰った阿南は、下の2人の男の子たちと一緒に湯船に浸かっていました。20:30、突然陸軍省軍務局の畑中健二少佐と井田正孝中佐が訪ねてきます。和平派が阿南を監禁するという噂が流れており、暗殺も気がかりだとして警備強化のため憲兵を引率してきたのです。2人は自宅に上がり、戦争継続を訴えて阿南と話し合います。2人は盃に口をつけますが、阿南は母親逝去以来酒を断っているといいます。井田が、阿南は、長沙作戦のときに「ドンドン行け」と指示した話を、酒席で好んでしたと話題にします。

「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
甲子園会館西ホール(ホテル時代のバンケットホール)内の南部分に、天皇の居室のセットが設えられました。絶えずレベルの高さを要求する原田監督に美術部が応えた出来栄えとなっています
甲子園会館での撮影現場 ②

8月12日00:15、皇居内天皇の居室のシーンです。
西ホール(ホテル時代のバンケットホール)内の南部分に設えられた天蓋付きベッドなどのセットで撮影されました。天皇が物思いに耽った表情でベッドに入るところでしょう。映画ではわずかに10秒あるかないかのシーンで、セリフはありません。かすかにボーダータイル様のものが見えますが、果たして実物でしょうか、セットでしょうか。

03:05、総理官邸で迫水と松本俊一外務省事務次官(長澤壮太郎)、同盟通信社の安達鶴太郎は、日本の申し入れに対するアメリカ側回答の英文を検討していました。第1項を「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かるものとす(subject to)」と訳します。
陸軍では、独自に回答を入手し、subject toを「隷属する」と訳していきり立っていました。

7:33、自宅で阿南は、戦死した次男惟晟の写真を鞄に入れ出かける準備をしていました。妻綾子に「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺すへき片言もなし」という和歌が書かれた紙を渡し、こう言います。「第109師団を率いて中国山西省へ出征するときに、陛下は私と二人きりで食卓を共に遊ばされた。侍従武官を4年間務めたが前例のないことであった。この恩義に報いるためには戦場で死ぬほかはない。そう思って詠んだ。もう何も恐れるものはないからね」。
阿南が公用車で出かけるのを、綾子と下の3人の男の子が、私邸の外へ出て見送ります。

08:25、梅津参謀総長と豊田軍令部総長が揃って参内し、「敵の回答は天皇の尊厳を冒瀆しております」、「これを受諾することは我が国体の破滅、興国の滅亡を招来するものと断言できます」と奏上。
天皇は、「議論するとなると際限はない。文言が気に入らないからとて戦争を継続することはあり得ない」と奏上を否定します。

陸軍省に着いた阿南を若手将校が出迎えます。竹下が、「ポツダム宣言受諾を阻止すべきです。できなければ大臣は切腹すべきです」と訴えます。

8月13日7:15、阿南が天皇に上奏。「陛下のご信任の厚い畑元帥から陸軍の総意を上奏してもらうべく、広島へ迎えの飛行機を出しております」と伝えます。天皇は、「アナンよ、もうよい」と返します。天皇は、阿南を親愛の情を込めてずっとアナンと呼んでいるのです。
阿南は、「最終的な日本国の形態決定に陸軍として大きな不安を抱えております」と言いますが、天皇は断言します。「心配してくれるのはうれしいが、もうよい。わたくしには、国体護持の確証がある」。

一人トランプをしていた鈴木が、一の妻に、何が起こるかわからんので孫が疎開している秋田へ顔を見に行くように言います。

7:49、軍務局では、若手将校がクーデター計画を図上演習していました。荒尾課長が、実行には陸軍大臣、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の4者が承諾することという条件を付します。井田中佐は、「4者の同意がなければ我々は理念なき逆賊に堕ちる。俺は荒尾課長に賛成です」と意見を述べます。

陸相公舎に、荒尾や若手将校が兵力動員計画書を持って押しかけてきます。「明14日午前10時に予定されている閣議の席に押し入り、主要な和平派要人を監禁。陛下に制度の変更を迫ります。たとえ逆賊と呼ばれても行動いたします」というのです。「あらゆることを考え抜いた上での結論なのか」と問う阿南に、「当然であります」という返事が返ってきます。「それにしては根本が漠然としているぞ」と言う阿南に、「閣下の支持はいただけますか」と畑中。阿南は、「今は閣議に全力を注ぐ。経過は吉積軍務局長に伝える。軽挙妄動は慎め」と言って、閣議に出席するために立ち上がります。井田は、「我々は右するも左するも一に大臣を中心にして、一糸紊れず行動する決意であります。その点は、重々ご安堵ください」と決意のほどを示します。

閣議が始まりました。
鈴木は、ポツダム宣言受諾の可否を全閣僚に聞きます。結果、真っ向から受諾反対を主張したのは阿南陸相と安部内相の二人だけでした。
阿南は閣議の途中で席を立ち、迫水を促して閣議室の隣の部屋へ。阿南は陸軍省軍務局長吉積正雄に電話。「閣僚たちの大多数は受諾反対だ。だから、私がそちらに帰るまで動かないでじっと待っていてもらいたい。ここに今、内閣書記官長がいるから、もし閣議の模様を直接聞きたければ代わるよ」と言います。「いえ大丈夫です。閣下にお任せいたします」と吉積。「午前0時には陸軍省に戻って、荒尾課長に決心を伝えるから、皆にそう伝言してくれ」と阿南は電話を切ります。

迫水はまたも外へ呼び出されます。朝日新聞記者の柴田敏夫が一枚の紙きれを迫水に示します。新聞社や放送局に配られており、ラジオでは午後4時に放送されるはずという。あと30分もありません。迫水は、紙切れをつかんで閣議室の阿南の下へ走ります。阿南は、「全く知らない、大本営報道部の管轄は参謀本部だ」と言います。
参謀本部で電話を受けた梅津参謀総長は、「「大本営13日午後4時発表。皇軍は新たに勅令を拝し、米英ソ支四カ国軍隊に対し、作戦を開始せり」だと、知らんぞそんな命令」と叫びます。これが大本営報道部の若い将校が勝手につくったものと判明。梅津は、至急取り消しの措置をします。

閣議に戻ります。
鈴木は、「私は本日の閣議のありのままを陛下に申し上げ、あす重ねて聖断を仰ぎ奉る所存であります」と考えを述べます。「御前会議の手続きはどうします」と言う米内に、鈴木は、「陛下のお召しであれば手続きは省けます」と明言。

18:28、閣議散会後、阿南は総理室に向かいます。
阿南は鈴木に、「総理、御前会議を開くのをもう2日、いや1日待っていただくわけにはいきますまいか」と要請します。鈴木は毅然として、「時期はいまです。この機会を外してはなりません。どうか悪しからず」と断ります。「お寛ぎのところお邪魔いたしました」と阿南は退室します。阿南退室後、迫水が、「阿南さんは陸軍の暴発を抑えようと苦労されているようです。1日待つわけには」と鈴木に尋ねます。鈴木は、「1日待てばソ連が満州、朝鮮、樺太ばかりか北海道にまで来る。ドイツ同様分断される。相手がアメリカのうちに始末をつけねばならぬ」とはっきりと断ります。

陸軍省に戻った阿南を荒尾が待っていました。
「クーデターに訴えては国民の協力は得られない」と言う阿南に、「同感です」と荒尾が応じます。阿南は、「君も綱渡りだったか」と言い、荒尾は、「どうおさめていいかわからず、とりあえず4将軍の合意を得るようにという条件だけは付けさせました。しかし、何人かは近衛軍の若手幕僚と連絡を取り合っています」と答えます。阿南は、「竹下たちには明朝7時、私が参謀総長の意見を聞くと回答してくれ。梅津さんはクーデターには絶対反対だ。その前に森近衛師団長、田中東部軍司令官、大城戸憲兵司令官と会う」と指示。荒尾は、「手配いたします」と応じます。

8月14日、陸軍大臣室に阿南、近衛師団長森赳中将(高橋耕次郎)、東部軍司令官田中静壱大将(木場勝己)が座り、大城戸を待っています。田中と「和尚」と呼ばれている森が話しています。森が、「ご聖断が下ったら同期の連中に死ねと言って回って、そのあとでゆっくり」と言って腹を切る仕草をします。そこへ憲兵司令官大城戸三治中将がやってきます。阿南は、「若い幕僚連中が戒厳令を強く要求している。戒厳は断固阻止する。しかしながら、若い連中を罰することは極力避けていただきたい」と指示します。

「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
「日本のいちばん長い日」撮影風景 写真提供:西宮流
昭和20年(1945年)8月14日、宮城内御文庫地下防空壕で開かれた御前会議のため集結した陸相、首相、海相、外相の公用車
御文庫地下防空壕の入口に擬せられた甲子園会館瓦置き場入口
御文庫地下防空壕の入口に擬せられた甲子園会館瓦置き場入口
甲子園会館での撮影現場 ③

8月14日11:13、宮城内御文庫棟のシーンです。この場面は、甲子園会館の南西にある竹林横の瓦置き場の前で撮影されました。
塩原の御用邸に疎開されていた内親王のお見舞いから帰京してきた徳川義寛侍従(大藏基誠)を御文庫地下壕入口で戸田康英侍従(松嶋亮太)が迎える、という場面です。瓦置き場入口が御文庫地下壕入口に擬せられています。
建築学科2年生以上の学び舎である建築スタジオの方角から竹林の木道を歩いてきた徳川侍従を御文庫地下壕入口(瓦置き場)で戸田侍従が出迎えます。「ごきげんよう。今塩原からお帰りですか。肌もつやつやで」と語りかける戸田侍従に、徳川侍従は、「新型爆弾が落ちたり、ソ連が参戦したり、こんなワヤクチャなときに塩原で1週間内親王さまたちと温泉に浸かっているのも惨めなものですよ」と応えます。甲子園会館南には西ホールから会館の真ん中付近にかけて4台の公用車(阿南陸相・鈴木首相・米内海相・東郷外相)が並んでいます。
戸田侍従が、「陛下が閣僚全員をお召しになりました」と状況を説明します。2人の視線の先に御文庫地下防空壕の入口(瓦置き場)がアップで写されます。

御文庫地下防空壕で、天皇のお召しによる最高戦争指導会議の構成員と閣僚全員の合同の御前会議が開かれました。
天皇が語り始めます。
「陸海軍の将兵にとって武装解除や保障占領ということは耐え難いことであろう。しかし、わたくし自身はいかになろうともわたくしは国民の生命を助けたいと思う。三国干渉のときの明治天皇の苦しいお心持を偲び、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、将来の回復に期待したいと思う。わたくしとしてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民はさだめて動揺すると思うが、わたくしが呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。必要であればわたくしはどこへでも出かけて親しくとき諭してもよい」。
天皇はハンカチで涙を拭い、壕内は嗚咽する声で溢れます。
「内閣では至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」と天皇は結びます。

この御前会議に続く24時間は、日本歴史上いちばん長い日となったのです。

2022.02.28

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甲子園会館の冬2022
建築スタジオ(建築学科2年生以上の学び舎)3階から見た甲子園会館
建築スタジオ(建築学科2年生以上の学び舎)3階から見た甲子園会館
サクラやモミジなどが葉を落とし、わずかながら池の水面が見えるようになりました

甲子園会館にとって、冬は一年中で最も殺風景な季節です。雪が積もればモノクロのファンタジーな世界となりますが、それだけの雪は数年に一度くらいしか降りません。花も目立つのはツバキくらいであり、木の実はあちこちでなっているものの、落葉樹はすっかり葉を落としています。しかし、冬ならではの景色を見ることもできます。葉が落ちて、幹の隙間から甲子園会館の建物が見えやすくなるからです。

甲子園ホテルの設計者遠藤新は、「婦人之友」昭和11年(1936年)9月号に「甲子園ホテルの場合」という短い文章を寄せています。そこには「たとへば水辺の松並木に建つこの甲子園ホテルの場合に、建物と並木の高さと相如き相及びつゝ、扉を押して佳人が現はれるやうに松並木を開いて建物が建つのです。」(註:漢字は一部常用のものに改めています)という表現を見ることができます。甲子園ホテルが竣工した昭和5年(1930年)頃の写真を開くと、ホテルはまさに松並木に建てられており、東西南北いずれの方向からもその美しい姿を目にとどめることができたのです。竣工から90年以上を経た現在、マツは数を減らし、代りにクスノキやサクラをはじめ多くの樹種が繁茂しています。ために、どの角度からもなかなか全景を見ることは難しくなっています。広葉樹などが葉を落とす冬場には視野が開け、他の季節よりも建物外観が見え易くなったということです。

南庭園から見た甲子園会館①
南庭園から見た甲子園会館②
南庭園から見た甲子園会館③
南庭園から見た甲子園会館。建物外観がかなり見えるようになりました。冬ならではの景観です

甲子園会館北側でも、西ウィングの側に植わっている大きなケヤキがすっかり葉を落とし、西棟の建物外観が見渡せるようになりました

北側から見た甲子園会館中央部と西棟
北側から見た甲子園会館中央部と西棟
2階応接室(ホテル時代のカードルーム)から見た西棟
2階応接室(ホテル時代のカードルーム)から見た西棟

甲子園会館南西、園路脇の低木の枯葉にアオスジアゲハの蛹が2つぶら下がって、冬を越そうとしていました。食草のクスノキからは少し離れた木です。蛹になろうとしていた前蛹時代にはおそらく葉は青かったのでしょう。今ではすっかり葉は枯れて、青い蛹は一際目立っています。

春を待つアオスジアゲハの蛹
春を待つアオスジアゲハの蛹

昨年の晩秋、甲子園会館南庭園の池に置かれた石に、1匹の大きなカエルが座っていました。ウシガエルでしょうか。それまでは、カエルの鳴き声や水にとび込む音を聞いたり、ときにはとび込む姿を一瞬目にすることはありましたが、全身をはっきりと人目にさらすようなことはありませんでした。この日はどうしたのでしょうか。冬眠前にひなたぼっこでもするかのように石の上にいたのです。今頃はこのカエルも冬眠していることでしょう。

晩秋のある日、大きなカエルが池の石に座っていました
晩秋のある日、大きなカエルが池の石に座っていました

寒い日が続いていますが、池の南縁では紅梅が咲いていました。白梅もほころび始めています。
これからボケ、アセビ、ヒュウガミズキ、サクラ、ハナミズキ等々が次々に咲き、庭園は百花繚乱となることでしょう。

紅梅が咲き、庭園に華やかさが少し戻ってきました
紅梅が咲き、庭園に華やかさが少し戻ってきました

2022.02.16

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アメリカンジョークか、師匠へのリスペクトか
 -甲子園ホテル大食堂の天井の装飾に秘められた謎
甲子園ホテル大食堂の絵はがき
甲子園ホテル大食堂の絵はがき
現在の甲子園ホテル大食堂
ホテル時代の大食堂は、現在、武庫川女子大学建築学部建築学科1年生のためのスタジオ1となっています。学生1人に専用の製図机1台とパソコンを備えています。学びの場として活用するため、天井の照明が大食堂時代より増設されています。

令和3年(2021年)1月24日(日)、BS朝日の番組「百年名家」で、「甲子園に残る伝説のリゾートホテル~武庫川女子大学の「甲子園会館」」が放送されました。3月7日(日)には再放送が行われています。「百年名家」は、日本全国の歴史的建築物や町並みを通し、日本の歴史文化や建築技術のすばらしさを広く紹介する番組です。

番組では、海野克彦甲子園会館庶務課職員(元大林組大阪本社設計部長)が1階エントランスホール(廊下)、レセプション・ルーム(ロビー)、レセプション・ルーム東側のアルコーブ(現・東応接室)、「泉水」と呼ばれている水鉢、バンケットホール(現・西ホール)、庭園、3階屋上、大食堂(現・建築学科1年生が学ぶスタジオ1)、4階和室などを案内し、それぞれの場所で説明しました。

スタジオでは俳優の八嶋智人さんと牧瀬里穂さんが番組を進行しました。今回は建築家の遠藤現さんが出演。遠藤現さんは、甲子園ホテルの設計者・遠藤新の孫にあたります。遠藤新の逸話も含めて甲子園会館について詳しく解説しています。

同番組から、海野課員がホテル時代の大食堂(現・スタジオ1)を案内する場面を紹介いたしましょう(Nはナレーション)。

Nかつての名ホテルを建築学部の校舎として活用している武庫川女子大学の甲子園会館。続いて拝見するのは東側の客室棟です。
海野続いてホテル当時のメインダイニングにご案内します。製図演習を行うスタジオとして活用されています。
N当時のメインダイニングに置かれていたのは製図机とパソコン。現在は建築学部建築学科の1年生がここで学んでいます。

続いてカメラは、1階南のテラスでタイル等の寸法を測って記録している建築学科1年生を映します。「甲子園会館の実測と図面化」という課題を与えられ、実測しているところです。指導している柳沢和彦建築学科長が、この授業の内容や意義についてコメントしています。甲子園会館は建築を学ぶ学生たちにとっては最高の教科書と考えている、という説明をします。

ホテル時代の大食堂(現・スタジオ1)の天井
ホテル時代の大食堂(現・スタジオ1)の天井
テレビ東京系列の「新美の巨人たち」では、アートトラベラーを務めた女優、内田有紀さんが、この天井を見上げた途端ライトへの遠藤の愛に感激します。

カメラは再びホテル時代の大食堂(現・スタジオ1)へ戻ります。

N学生たちの教科書となっている甲子園会館。
あらためて海野さんにメインダイニングの見どころを伺いました。
海野天井のデザインに注目をしてください。まず仕上げ材ですが、当時は銀箔仕上げです。先ほどご覧になった宴会場、メインバンケットでは金箔が使われています。やはり日本の美意識を意識しています。
パターンですが、ライト式建築、帝国ホテル、自由学園、山邑邸でも同じような天井のパターンを見ることができます。
数年前ここを訪れたアメリカ人が残していった言葉ですが、センターの紋様ですが、W、左側がL、右側がFです。フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)、ちゃんと書いてあると。これはどうでしょう。真実でしょうか。
次の年、やはり同じグループの見学があったときに確認をしました。アメリカンジョークやと言っておられました。
「F」 「L」
「F」 「L」
「W」
「w」

画面はスタジオへ移ります。

八嶋結局アメリカンジョークだったんですか。
遠藤現そうですね。私もこれはちょっと分からないですね、本当のところは。
八嶋でも僕はそういう風に結びつける人がいてもいいのかなと。
遠藤現逆にそういうイマジネーションを湧かせるようなデザインになっているということだから、それはそれで価値があるのかもしれませんね。

令和3年(2021年)9月18日(土)、テレビ東京系列の「新美の巨人たち」でも甲子園会館が紹介されました。この日のテーマは「フランク・ロイド・ライト「ヨドコウ迎賓館」兵庫」で、芦屋市にあるヨドコウ迎賓館(旧山邑太左衛門別邸)が主役でした。ヨドコウ迎賓館はライトの設計。甲子園会館はライトの愛弟子である遠藤新が設計し、ライト式建築を代表する建物の一つと言われていることなどから両者には深いつながりがあります。番組では、無類の建築好き女優・内田有紀さんがヨドコウ迎賓館と甲子園会館を訪れます。

内田さんがドアを開けて甲子園ホテル時代の大食堂(現・スタジオ1)へ入り、南端の天井の装飾を見上げるシーンです。

Nかつて食堂だった部屋は現在建築を学ぶ学生たちのための製図室に。
内田有紀アッ(両手で頬を押さえます)
N思わぬ光景が待っていました。
内田有紀こういうことですか。ちょっとここは何か感動します。
N見上げたところにライト様式としか言いようのない独特なデザインが施されています。
甲子園ホテルは、遠藤がライトの右腕としてではなく、一建築家として挑んだ大仕事。ですが、ここではあえて師匠へのリスペクトを捧げているように見えるのです。
内田有紀遠藤さんはやっぱりライトが大好きなんですね。さっきヨドコウ迎賓館の食堂で見た天井にある縁取りであったりとか確実にライトのDNAを引き継いでるなって思うし、愛を感じます。いやすごい。

甲子園会館は、従来から数は多くないものの海外からの建築家や建築愛好家による団体見学を受け入れてきました。記録がはっきりしている平成17年(2005年)度から令和元年(2019年)度の累計では、延べで32団体、975人を受け入れました。国別ではアメリカが一番多く延べで17団体、421人となっています。2位はベルギー、3位は台湾と続いています。平成29年(2017年)度には、建築学科学生・建築学専攻の大学院生による通訳を介さない英語によるガイドをスタートさせました。学生・院生によるガイドは学業に支障がない範囲で行ったものですが、令和元年度までの3年間で、この間の外国からの見学団体・人数の50%を超える10団体、302人に対し、学生・院生が直接英語で案内しました。しかし、令和2年度以降現在までは、新型コロナウィルス感染症のため海外はもとより国内の一般見学も受け入れは中断しています。

平成17年(2005年)度に訪れた海外団体は、アメリカのフランク・ロイド・ライト財団の2回でした。以後、同財団は毎年のように見学に訪れています。

「百年名家」の中で海野甲子園会館庶務課職員が紹介したアメリカンジョーク?は、同財団の参加者によるものです。

ライトが設計した林愛作邸にもHというイニシャルが入れられていたという話もあります。内田有紀さんが感じたように、ライトが大好きであった遠藤新が、ライトのイニシャルを密かにデザインの中に忍ばせていても不思議はないとも言えます。遠藤が甲子園ホテルについて多くを書き残していない以上、アメリカンジョークだったのか、ライトのイニシャルを溶け込ませたものだったのか、真相は闇の中です。甲子園会館のデザインのモチーフとして使われている水珠や打出の小槌とともに、ホテル時代の大食堂の天井の装飾も想像を膨らませてくれるのに十分なデザインとなっています。

2022.02.02

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甲子園会館と戦争
(松の木に今も残る傷跡)-松脂油
甲子園会館西側園路脇の松 甲子園会館西側園路脇の松
甲子園会館西側園路脇の松。松脂を採取してから75年以上経ったと思われるが、その傷は癒えることなく、痛々しく残っています

甲子園会館の南庭園を散策していると、松の木にハート型をした奇妙な傷があることに気付かれることでしょう。戦時中、油の原料となる松脂(まつやに)を採集した跡と言われています。
松の木から採れる油としては松根油(しょうこんゆ)が知られています。

松根油について、「昭和二十年 第一部=6 首都防空戦と新兵器の開発」(鳥居民著 草思社1996年8月5日発行)や「戦時用語の基礎知識」(北村恒信著 光人社NF文庫2002年9月16日発行)などから紹介しましょう。

松根油は、松の切株を乾留して得られる液体です。精製することにより、テレピン油やクレオソート油などが得られます。松根油は、戦前から塗料、香料の原料として年間5千~6千キロリットルを生産したこともあり、生産業者の団体により日本松根油統制組合がつくられていました。

昭和19年(1944年)、駐独海軍武官から軍令部に届いた電報のなかに、ドイツでは針葉樹のテレピンから航空揮発油を生産しているという情報がありました。米軍の雷爆撃により多くのタンカーが次々に沈められ南方から内地への石油輸送が危機に瀕していた時、日本に豊富にある松から航空揮発油を造ることができるという朗報でした。軍令部は海軍省と協議し、大船の第一海軍燃料廠に松から採れる油を研究するように命じます。燃料廠では、松の木から乾留油を得、松根油の精製を行い、処理を施してオクタン価90、92の航空揮発油を造りました。しかし、実用化にはさらなる精製技術の研究が必要でした。松の根の研究も行い、収油率は刈られて2年以内のものは10%、5年経ったものでは15%と、新しいものより以前に刈られて土中に残っている松の根の方が収油率は高いことが分かります。日本中に刈り跡の松の根は750万トンはあるだろうということも分かりました。海軍では松根油に力を注ぎます。陸軍でも松根油を生産することになり、原料地について北海道の一部と中部、近畿、九州を陸軍の担任地域、それ以外を海軍の担任地域と協定します。昭和19年(1944年)10月23日には松根油増産要綱が閣議決定。施行細則は農商省山林局が定め、軍ではなく農商省が指揮をとり、農業会を生産責任団体に定めます。農業会は、全国の町や村に昭和19年4月1日につくられたものです。11月に入って、各県では松根油緊急増産協議会をつくり、知事が会長、経済部長が副会長となります。経済部長が各町村の農業会の会長から町村長、国民学校の校長までを集め、指示を与えます。松の伐根には多大な労力が必要です。「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」などのスローガンの下、内地に残っている高齢者、女性や子どもが動員されました。

しかし、松根油からの航空燃料(揮発油)の生産は実用化には至らなかったようです。終戦後、松根油は近海の漁船の燃料などに使用されました。

甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります 甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります
甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります 甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります
甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります 甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります
甲子園会館南庭園の中央部には松脂を採った傷跡が残る3本の松があります

松根油は、松の伐根(切株)を乾留炉に入れ、酸素を遮断して加熱する方法で得られるものです。甲子園会館の松に付けられたハート型の傷跡は、松脂(まつやに)を採集したことによるものであり、いわゆる松根油とは異なるものです。しかし、松脂から航空揮発油を精製する手法を検討し、松脂の収集が行われていたとも言われていますので、最終目的は一緒だったのかもしれません。

五和町史資料編(その三)「戦後五十年・大戦記録集 火筒の響」(平成7年8月15日 五和町教育委員会発行)に松脂採りの実相をつぶさに伝える記述がありますので、以下に紹介いたします。五和町(いつわまち)は、熊本県天草郡にあった町です。平成18年(2006年)3月27日に本渡市、牛深市他7町と合併し天草市となりました。かつての町域は天草市五和町となっています。

恐ろしかったこと
岩崎ミチエ[五和町城木場]

昭和20年8月8日、私達は松根油を造るため、松脂を採りに井手河内の峠に浦仁田組全部が行っていました。松の木に傷を付けると松脂が出て来るのです。
もとの診療所の所に松根油を造る工場がありました。それを戦地に送られるとの事でした。

松脂(まつやに)採り
岩崎元幸[五和町城木場]

昭和12・3年頃、日本は日支事変の最中で、物資も不自由になった頃でした。特に自動車、飛行機の燃料となる油は外国からの輸入が大部分だったので、国は、なんとか国内でも油を作ろうと考え、色々なものから油を採ることを研究され、その一例として松脂から燃料を作ることをはじめられた様です。

其の頃、打越の高尾山にも何十年も経った松の大木が密生していました。その松の大木から松脂を採る仕事に私も従事した事がありました。

松の根元から人の手が届く高さの箇所の荒皮を薄く削り、両方から斜めに鋸目を入れて、両方の鋸目の交差する所にセルロイドの舌をつけ、其の下に缶詰の空き缶をぶらさげて松脂を集める方法です。

特に松脂の良く出る夏の間の仕事で、毎日晴天の暑い中、前日に出た松脂をバケツに集め、また新しい鋸目を入れていく作業でした。

この仕事は国策として、県の林務課から直接技術指導に来られました。採取した松脂は私共で石油缶に詰め、ハンダ付けして密封したものを集荷されていたようです。これを精製し燃料を作るとの事でした。これは全国で行われ、公園などでも終戦まで鋸目の入った松の木をよく見かけたものでした。

また、昭和17・8年頃から松根油の製造も始まり、原料の松根(古い松の切株で外側が腐って油気の強い芯だけになったもの)は、村の人たちが総出の奉仕作業で、山から掘って来られました。 現在の農協の精米所(荒河内宇野)に松脂油工場も建てられました。この工場で松根を細かく削り、釜に入れて焼き、その煙をパイプで引いて水槽で冷却して油にする方法です。この仕事にもしばらく従事したことがありました。この油を精製したのをテンピン油と言っていたそうです。

それから間もなく終戦になったので、この油がどれだけお国の役にたったかは知りませんが、兎に角、戦争の良し悪しは別として、当時の国民がお国のためと信じて、あらゆる研究、努力を尽くしてきた事を後世に伝えたいと思います。

甲子園会館南庭園、東ウィング前にもハート型の傷跡が残る1本の松があります 甲子園会館南庭園、東ウィング前にもハート型の傷跡が残る1本の松があります
甲子園会館南庭園、東ウィング前にもハート型の傷跡が残る1本の松があります

「戦後五十年・大戦記録集 火筒の響」の記事から、松脂採りの作業工程がよく分かり、傷跡がハート型となった理由も理解できます。
甲子園会館(旧甲子園ホテル)が所在する西宮市内でも、松脂油あるいは松根油についての記録がありました。

昭和41年(1966年)9月1日の朝日新聞に、「武庫川」と題する連載記事の第7回が掲載されています。「受難続きの名物松 矛盾からむ風致と防災」とタイトルがつけられた本文には、次のような記載があります。

とにかく武庫川堤防の松は、受難の歴史をたどっている。江戸時代以来の古木と、明治時代に外人らの植樹運動でふえたものだが、戦前は宝塚市域から川口まで、ほとんど切れ目なしに松並木がつづいていた。堤防を緑でつつんだばかりでなく、増水で堤防があぶなくなると切倒し、土のう積みとあわせて堤防補強に使った。戦時中は飛行機の燃料不足を補うためさかんに松根油をとった。樹液をぬきとられた松はあいついで枯れた。

西宮市議会本会議の発言でも松根油のことが出てきます。昭和61年(1986年)3月(第18回)定例会の一般質問で、民政会の前田東議員が次の発言をしています(3月11日)。

武庫川の松並木は、徳川幕府の中期、河川のはんらんによって苦しめられた農民の生命と財産を守るため、治水の一環として堤防を築き、堤防の強度を強くするために松を植樹したものとうかがい知ることができます。しかし、その松並木や桜も、戦時中、軍の防空ごうの材料や松根油の原料や燃料に切り倒され、その後も台風で倒れ、あるいは工事のために切り倒されて、その数も年々減少しています。特に国道2号線以南のことであります。

夙川自治会が平成17年(2005年)3月31日に発行した「夙川地区100年のあゆみ」には、松ヤニ採取について次のように記載されています。

戦時中のことですが、夙川の東側土手に飛行機が草で隠してありました。土手の松も表面に傷をつけて松ヤニをとったり、松の木を切って燃料にしたりしていました。

台風により倒壊、喪失した松脂採集の跡が残る松
台風により倒壊、喪失した松脂採集の跡が残る松
南庭園中央部にあったこの松は、平成30年(2018年)9月の台風21号により倒壊しました(当時の記事はこちら)。流されたタンカーが関西国際空港連絡橋に衝突して空港島を孤立させた台風です。NHKの朝ドラ「まんぷく」で、ヒロインの結婚式の記念写真撮影のシーンにも登場した松でした

甲子園会館の松たちが、いつ、どのような人たちによって松脂を採取されたのか、その松脂がどこで処理され、どのように使われたのかは明らかではありません。 現在、コロナ禍により甲子園会館の見学は休止しています。新型コロナウィルス感染症が収束して見学が再開できたときには、これらの松もぜひご覧いただき、歴史の教訓を後世に伝えていただきたいと願っています。

甲子園会館の東側にある「東山」にも松脂を採取したと思われる松があります
甲子園会館の東側にある「東山」にも松脂を採取したと思われる松があります
甲子園会館の東側にある「東山」にも松脂を採取したと思われる松があります

資料提供:西口公章(日本海事史学会会員)
     豊田みか・住田未絵(西宮市総務課公文書・歴史資料チーム)

特に、西口氏から多大のご教示、資料提供をいただいたことを付記し、感謝申し上げます

⇒『甲子園会館と戦争 海軍病院(病院関係者の証言)』はこちら

2022.01.26

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昭和11年阪神沖観艦式と皇族の甲子園ホテル宿泊 その2
昭和11年特別大演習観艦式の記念絵はがき(御召艦比叡)
昭和11年特別大演習観艦式の記念絵はがき(御召艦比叡)

初めて阪神沖で行われた昭和11年(1936年)の観艦式は、乗組員の主たる上陸地となった西宮市にとって一大イベントであり、全市一丸となって歓迎にあたっています。その有様が西宮市公報第119号(昭和11年11月20日)に詳述されていますので、紹介いたしましょう。

艦隊歓迎

昭和11年10月25日!!世界に君臨する我が帝国艦隊の精鋭百余隻を大阪湾に迎ふる歓びの日が遂に来た。
秋空爽かに澄み渡つて錦繍の色一入濃い此の日阪神沖一円は午後1時御召艦比叡の神戸入港、次で南方洋上に数ケ月の大演習を終了して阪神沖に投錨した第一、第二の連合艦隊第四艦隊の百八隻からなる堂々たる艨艟を迎へて未曾有の歓喜に酔うた。
我が西宮沖は艦隊投錨の中心地となり従つて海の将兵の上陸中心地となるので艦隊歓迎には全市一丸となつて心からなる準備をなしたのである。即ち西宮港岸壁の全部何処でも水雷艇内火艇ボートの横付けを容易ならしむる爲防舷材を幾百となく岸壁から海中に吊り下げて待ち構へ、札場筋前の上陸地正面には軍艦司令塔を型どつた歓迎大アーチを建設し、清掃された五万坪の埋立地には公設市場を初め市内主要商店の出張売出しがあり何れも紅白の幔幕を張り軒並に書かれた艦隊歓迎の文字も嬉しく市の玄関口を飾り、付近の鞍掛町福田秀太郎氏方には臨時憲兵分隊の詰所、久保町森井熊治郎氏方には無電詰所を夫々設置し又郵便局の臨時出張所もあり市の案内所も設けられ面会所も建てられた。
案内所には特に仮設電話の取付をなす等水兵の利便に万全を期してゐるが一方市内にも数ケ所の案内所を設置し、観光の案内は勿論茶菓の接待観光案内図歓迎マッチを贈呈した。
札場筋を初め市内主要街路には市を初め衛生組合各種商店連合組合等公私を挙げて紅白の幔幕、万国旗等にてデコレーションを施し或は歓迎奉祝提灯に或は縁門に交叉国旗に等々明粧を凝らし、又入港と同時に市庁舎、各学校には軍艦旗を、各戸には国旗を、掲揚して誠意をこめて海の勇士を歓迎し、打揚げる花火は威勢よくこだまして興奮した人々の耳朶を打ち、碧空に浮揚する無敵艦隊歓迎のアドバルーンは歓喜の人々を馳り、早朝から日曜と云ふ好条件も手伝つて本市を中心とする一帯は午後に入ると共に更に押し寄せた拝観群のため文字通人の波を描出した。
足並早い晩秋の斜陽が六甲山を紫に染め出した午後3時過沖合遥か水平線上に黒点がポツカリと浮び上りそれが次第に増大すれば後方に又一点、又一点オー威なる哉、壮なる哉、我が連合艦隊が旗艦長門を先頭の入港だ、稍西よりに陸奥を先頭に第四艦隊が入港してゐる。ワツと湧き挙がる歓呼、どよもす声は陸地から遥か艦隊にまで轟くばかりだ。艦隊投錨と見るや早や艦載艇は続々西宮港めがけて白波を切つてゐるではないか、サー待ちに待つた海の勇士の上陸である。港頭の雑沓は急ピツチを挙げてゐる。
面会人の世話に宿舎の割当てに緊張した係員の面上も汗する許り斯くて夜に入つてもこの賑ひは拍車を加へ、磨き上げられた鈴蘭燈、華やかに輝く奉祝並に歓迎の提燈に映へて、浮き浮きと素晴しい景気は軍艦から照射する幾百条のサーチライトと相対応して華麗なる夜景を現出して歓喜と絢爛のコーラスの中に第一夜は華やかに更けて行つた。
此の日市役所は日曜にも不拘全庁員早朝より登庁し各種団体とよく連繋を保ち晴れの艦隊入港を祝福すると共に艦隊歓迎事務に精励したが正午頃には蔭山市長は伊藤市会議長と共に礼装に威儀を正して神戸に向ひ御召艦比叡に伺候して天機奉伺を申上げ退艦後更に連合艦隊の投錨を待つて山城の高松宮殿下に拝謁仰付けられ次で霧島に久邇宮朝融王殿下の御不在中に参向し御機嫌奉伺を御付武官に伝奏方依頼をし長門艦上に高橋連合艦隊司令長官、妙高に加藤第二艦隊司令長官、陸奥に鹽澤第四艦隊司令長官を歴訪して歓迎の挨拶を述べ後午後7時半頃甲子園ホテルに御宿泊遊ばされてゐる久邇宮朝融王殿下の御機嫌を奉伺し、特に市の道路改善に付御懇篤なるお褒の御言葉を頂戴して恐懼感激して退下した。
これより先艦隊投錨と同時に在郷軍人西宮分会海軍部長植松中佐は市の発動機船により霧島に赴き同艦に御乗艦軍令部員として大演習審判の軍務に御精励遊ばされたる久邇宮朝融王殿下の御機嫌を奉伺し御上陸時間の打合せをなした。かくて同殿下には午後5時半艦載艇に御移乗、艦隊歓迎の歓喜にわきかへる市特設桟橋から御上陸遊ばされた。
海岸には松尾助役、田口市会副議長をはじめ市内官吏市庁員、県市会議員在郷軍人会、衛生組合役員、消防組、青年団、少年団、愛国婦人会、連合婦人会、国防婦人会、女子青年団及学校代表生徒児童等約一千名堵列奉迎送申上げる中を殿下には御付武官を従へさせられ次で松尾助役、田口市会副議長松原県社寺兵事課長等扈従し奉り同45分御宿舎甲子園ホテルに入らせられた。

◎10月26日
『いらつしやい』全市を挙げて今日はなつかしい水兵さんに呼掛ける上陸第一歩の歓喜の日だ、此の日は朝から冷雨が降り続いたが歓迎の大群にとつても上陸の勇者達に取つても『豪雨何ものぞ』と突堤の彼方が乳色を呈する夜の引あけ頃から海岸は一どきに出来上つた臨時艦隊都市、上陸輸送にあたる内火艇、艦載水雷艇、カツターの活動も飛燕の如く眼覚ましく又水兵さんへの心尽しから市内に設けた9つの案内所と3ケ所の接待所、埋立地の面会所は雨雫がポトポト垂れる中を市吏員はもとより在郷軍人、青年団、衛生組合、国防婦人会員等も詰めて喜ばしい光景、斯く海の将士の案内は至れり尽せりであつたが一方桃山御陵参拝の水兵さん達は両側に連なる幔幕や、提灯、要所に美装を凝らした縁門など市民の熱誠の表現を縫つて札場筋を北進本町通から石在町線に出で市役所前を国道から西宮駅に出で用意された臨時列車で約二千数百名出発したが午後に入り雨も漸く晴れ上り商店街、盛り場はセーラー服で塗り尽されて歓喜は街に盛上り、南の荒海で風にたゝかれ雨にさいなまれて来た勇士達と市民とが温い握手と団欒風景を幾千となく描き出した。宿舎予定の急変から歓迎大振舞の準備万端出来上つてゐた舎主から苦言を持ち込まれたこともあつたが之れも市民熱誠の現出であり、水兵さん歓迎は夜の更けるとともに益々高潮に達した。
午前7時より松尾助役、前田兵事戸籍、永良教育両課長等は旗艦、陸奥、長門及妙高に司令長官を訪れたが何れも不在の爲、陸奥は艦長に、長門及妙高は参謀に面会し労を犒ひしばし歓談の後夫々銘酒並に銘酒せんべいを贈呈し正午頃帰庁した。
其の間鹽澤第四艦隊司令長官は市庁を来訪、蔭山市長伊藤市会議長に謝辞を述べ歓談を交へた。尚午後には海軍中将豊田副武軍務局長代理者の来庁あり市庁舎も海軍関係将官の出入漸く繁くなつて来たのである。
午後6時より蔭山市長、伊藤市会議長は甲子園ホテルに東久邇宮殿下、宝塚ホテルに伏見軍令部長宮殿下、同妃殿下、並に若宮殿下、同妃殿下の御機嫌を奉伺し午後8時頃帰庁す。
此の日市役所前広場では午後7時から中村第二艦隊次席軍楽長指揮の下に軍楽隊の演奏会が開催せられたが定刻前から会場に詰めかけた聴衆実に一万有余名、先づ永良教育課長の開会の辞に始まつて行進曲「観艦式」の演奏より行進曲「軍艦」に至るまで聴衆は恍惚として勇壮なる軍楽のリズムに酔はされたが再び永良課長立つて閉会の挨拶あつてのち、ステージの軍楽隊、聴衆共に起立裡に荘厳な君ケ代が吹奏せられ、感激のうちに同8時半頃盛会裡に幕を閉ぢた。

◎10月27日
皇艦百余隻、淡路の島を背景に茅淳の碧海に鉄鋲をうつて列ぶところ大磐石の帝国を具象して人々の心に鉄筋を流し込む概がある、強き無言の牽引力に魅せられた市民は艦隊投錨以来軍艦へ軍艦へと拝観に出掛けてゐるが29日晴れの御盛儀を前に此の日碇泊錨地をめぐつて観艦式予行演習が行はれた。観艦式予行演習拝観の群衆は早朝から『いゝ場所』の占拠を目指して山手や海岸に大進軍だ!!西宮港湾へ通ずるバスは超満員、タクシーは行列、札場筋なども人間の大潮流だ、五万坪を誇る埋立地もぎつしり人が密集し、其の他苦楽園甲陽園何れも人、人、人の埋りであつた。
早朝この日も桃山御陵参拝の将士をはじめ多数の水兵さんが上陸、前日に引かへての快晴で市街はセーラー服のネーヴイ、カラーで塗り尽され、繁華街戸田町をはじめ馬場町、本町など水兵さんの大行進だ、艦隊歓迎、奉祝大観艦式の提灯が火に映へる頃には上陸第一歩桃山御陵参拝後宿舎たる一般民家に休養を取た水兵さん達の三々五々打連れ立つた足並も朗かだつた。
東口公会堂では午後7時より本市主催で海軍々事講演会が催されたが先づ蔭山市長の開会の挨拶に次で、第四艦隊派遣講演官水町喜兵衞海軍機関少佐が立つて「現下の国際情勢と帝国海軍」の題下で堂々1時間40分余諄々と国民的関心事たる国際情勢と帝国海軍の立場に就き熱弁を振ひ一千有余の聴衆に多大の感銘を与へ再び蔭山市長の閉会の挨拶を以て盛会裡に閉会し斯くて観艦式予行演習の夜も海軍気分横溢のうちに更けて行つた。
これより先午後1時頃曩に25日観艦式参列の各艦隊が阪神沖に入港と同時に市長、議長が各艦隊司令長官を歴訪したに対する答礼と艦隊投錨に際し本市各方面の厚意を謝する爲、海軍の信望を担つて立つわれらの提督高橋連合艦隊司令長官は晴れの大観艦式を目前に控へて非常に多忙の中を野村参謀長、石川副官を伴つて市庁舎を訪問、貴賓室で蔭山市長、伊藤市会議長、松尾助役、前田兵事戸籍課長等と対談、本市駐在各新聞記者、写真班に取巻かれながら「熱誠籠もる艦隊歓迎」に謝辞を述べ、歓談の後市庁舎玄関前にて記念撮影をなし辞去した。

◎10月28日
午前7時松尾助役は献上酒(別項参照)を県庁に持参引渡をなし同10時頃大任を果して帰庁した。又同10時頃加藤隆義第二艦隊司令長官は新見参謀長山口副官を同伴市庁舎を訪れ、蔭山市長、伊藤市会議長、松尾助役等と対談市の厚意を謝し、庁舎玄関前にて記念撮影をなし辞去した。
此の日も午前中は水兵さんの上陸。水兵さんに面会の爲軍艦に行く家族達などで港頭は雑踏を極めたが明日の盛儀に列する爲午後2時過各艦隊は淡路沖に向け抜錨した。

◎10月29日
闌秋冷爽の気満つ阪神沖に於て畏くも大元帥陛下の御親閲を仰ぎ奉り、光輝弥増す錦旗のもと藍波をきりすゝむ長蛇の大艦列、海のつはもの達が咽喉もさけよと奉唱する万歳、大空をよぎり飛ぶ数知れぬ銀翼の編隊陣、華麗の大景観をひろげた観艦式の日である(別項観艦式に就て参照-引用註・「昭和11年阪神沖観艦式と皇族の甲子園ホテル宿泊 その1」に掲載)
此の聖代の盛儀を拝観せんものと早暁より海岸に山に押し寄せる群集は実に物凄いばかりであつた。
此の日蔭山市長は御召艦比叡に、伊藤市会議長は供奉艦愛宕に、松尾助役、山本収入役、前田兵事戸籍課長は供奉艦足柄に、市会議員、各課長は榛名にそれぞれ陪乗を差許され曠古の御盛儀をまのあたり拝観するの光栄に浴し式後午後零時半より市長、議長、助役、収入役、兵事戸籍課長は賜饌に預り重ね々々の光栄に恐懼感激し、市会議員、各課長も海軍大臣の招待に預り共に午後4時過神戸に上陸した。
一方西宮市拝観船悠紀丸は別項の通(引用註-略)午前5時半暁暗を衝いて大阪櫻島梅町桟橋より観艦式拝観指定場に向け発航し、陸上一般拝観にても予て指定拝観所と決定した香櫨園東浜海岸、西宮港埋立地、今津西浜海岸、今津浜防潮堤を目がけて大阪京都兵庫各府県の愛国婦人会員約三千名を始とし本市各種団体及各学校生徒約一万二千名其の他一般拝観者約四万二千名総数実に五万七千余名に達し、午前10時頃にはさしもに広き場内の大部分を埋め尽した。斯く大多数の拝観者は途中天候頓に崩れ寒気を含む驟雨さへ催し始めたるも熱心に姿態を崩さず御召艦御抜錨まで終始静粛であつたのは民草の赤誠と熱烈なる海国思想の発露として慶びに堪へなかつた。
輓近の国際関係は日にその複雑性を加へ寸前の予断をも許さず殊にワシントン及ロンドン軍縮両条約は将に本年を以て解消し、海軍の強化に虎視眈々たる列強を向ふに回して、東洋平和の爲軍備強化の叫ばれるときこの盛儀に接し国民として寔に歓喜に堪へず将に国民的興奮に胸が躍つたのである。

◎10月30日
一夜明けても昨日の余奮まださめやらず今日もまだ市内の隅々まで海軍色の横溢だ。此の日長門陸奥を残して全艦隊は早暁より母港を目指して抜錨したが港頭は尚是等2艦の面会人で賑はつてゐた。
午前9時半長門に於けるアツトホームの会に列席の爲市長、議長、助役、各課長は市の発動機船にて西宮港を出発、同艦に赴き、艦内を拝観後正午軍楽隊の奏する勇壮なる曲に迎へられ阪神の名士と共に勇士の接待に舌鼓を打ち軍民和楽の一ときを送つた。
斯くて6日間に亘る艦隊とも午後2時の長門陸奥抜錨を最後に幾多の朗話を残して名残尽きせぬ別れを告げた。

清酒献上

大観艦式を臠し賜ふ御爲本県下に行幸被爲在賜ひし天皇陛下に予て本県知事宛清酒黒松白鹿、日本盛、白鷹、大関及東自慢の5樽を伝献方願出ゐたるところ、宮内省より採用の旨通知があつたので、28日早朝松尾助役が謹んで県庁に持参申し上げた。
又御西下の各宮殿下には同28日蔭山市長、伊藤市会議長が甲子園ホテル、宝塚ホテルに伺候し伏見宮殿下、同若宮殿下、閑院宮殿下、久邇宮殿下、並に東久邇宮殿下に夫々清酒献上の目録を奉呈申上たるところ全部御嘉納被爲在たので同日鉄道便で輸送申上げたが、本市の名産として芳醇を誇る清酒を畏きあたりを始め奉り各宮殿下より御嘉納賜つたことは寔に本市全市民斉しく感激する次第である。 尚献上酒取扱に関しては関係者一同光栄に感激して粗漏なきを期したるは言ふに及ばず、特に天皇陛下献上酒に関しては10月10日午前9時より市庁舎会議室に於て県高岸医員を煩はし製作者及従業員並に其等全家族の健康診断をなし県市協力して衛生関係の万全を期した。

武庫離宮正門の絵はがき
武庫離宮正門の絵はがき
昭和天皇は、艦隊親閲終了後神戸港から武庫離宮に向かった、と「鳴尾村史1889-1951」(平成17年(2005)3月31日西宮市鳴尾区有財産管理委員会発行)には記されています

西宮市公報第119号(昭和11年11月20日)から、昭和11年阪神沖観艦式に参加された皇族と甲子園ホテルとの関わりが次のようにうかがえます。

南西方海面で3カ月にわたる演習を終えた第一、第二の連合艦隊、第四艦隊の108隻が、昭和11年(1936年)10月25日、阪神沖に投錨しました。投錨と同時に、在郷軍人西宮分会海軍部長植松中佐が、市の発動機船により戦艦霧島に乗艦。同艦で軍令部員として大演習審判の軍務に従事した久邇宮朝融王殿下を奉伺し、上陸時間の打合せをしています。殿下は、午後5時半艦載艇に乗り各団体など約千名が迎える中を市特設桟橋から上陸。御付武官を従え、西宮市の松尾助役、田口市会副議長などが付き従い、5時45分宿舎である甲子園ホテルに入られました。午後7時半頃には、西宮市の蔭山市長と伊藤市会議長が甲子園ホテルに久邇宮朝融王殿下を奉伺し、市の道路改善に対するお褒めの言葉をいただき恐懼感激して帰っています。

10月26日、午後6時より西宮市の蔭山市長と伊藤市会議長が、甲子園ホテルに東久邇宮殿下、宝塚ホテルに伏見軍令部総長宮殿下、同妃殿下、第1王子である伏見宮博義王殿下、同妃殿下を奉伺し、午後8時頃帰庁しています。

10月28日、西宮市の蔭山市長と伊藤市会議長が、甲子園ホテルと宝塚ホテルへ伏見宮博恭王殿下、伏見宮博義王殿下、閑院宮載仁親王殿下、久邇宮朝融王殿下、東久邇宮稔彦王殿下を訪れ、西宮市の名産である清酒の献上を申し上げています。各宮殿下より嘉納の返事をいただき、同日鉄道便で輸送しています。

以上から、甲子園ホテルに久邇宮朝融王殿下と東久邇宮稔彦王殿下、宝塚ホテルに伏見軍令部総長宮殿下、同妃殿下、第1王子である伏見宮博義王殿下、同妃殿下が宿泊されたことが分かります。閑院宮載仁親王殿下がどちらのホテルに泊まられたのかは西宮市公報からは明らかではありません。なお、閑院宮載仁親王殿下は、当時元帥陸軍大将で参謀総長の要職にありました。

国立公文書館アジア歴史資料センターの公開資料では、観艦式に伴う殿下の御旅館御予定は次のようになっています(レファレンスコード C05034780200)。

高松宮宜仁親王殿下  御未定
同     妃殿下  神戸西常磐
閑院宮載仁親王殿下  甲子園ホテル
伏見宮博恭王殿下   御未定
同    妃殿下   大阪宝塚ホテル
伏見宮博義王殿下   大阪宝塚ホテル
同    妃殿下   大阪宝塚ホテル
賀陽宮恒憲王殿下   御未定
久邇宮朝融王殿下   甲子園ホテル
同    妃殿下   甲子園ホテル
朝香宮鳩彦王殿下   須磨区水野町岡崎忠男邸
東久邇宮稔彦王殿下  甲子園ホテル

この資料から、甲子園ホテルには西宮市公報第119号で明示されている皇族の宿泊者の他に、閑院宮載仁親王殿下と久邇宮朝融王妃殿下が宿泊されたと思われます。

また、同センターの資料から、観艦式陪観の各妃殿下及び未成年皇族(高松宮妃殿下、伏見宮大妃殿下・妃殿下、賀陽宮妃殿下・治憲王、久邇宮妃殿下・多嘉王妃殿下・恭仁子女王)は、先導艦である重巡洋艦「鳥海」に乗艦していたことが分かります。

旧芦屋市営宮塚町住宅の外壁
旧芦屋市営宮塚町住宅の外壁

「昭和11年阪神沖観艦式と皇族の甲子園ホテル宿泊 その1」で天保山公園の「明治天皇観艦之所」の碑を紹介しました。碑は、甲子園会館の壁面や柱など内外装に広く使用されている日華石でできています。日華石は、白山の火山灰が堆積して形成された凝灰岩です。産地の地区名から「観音下石(かながそいし)」とも呼ばれています。甲子園会館がある西宮市の西に隣接する芦屋市にも日華石を使用した建物があります。昭和20年代の住宅不足と都市の不燃化に対応するため、昭和27年(1952年)に鉄筋コンクリート造4階建の宮塚町住宅1号棟が建設され、昭和28年(1953年)に石造2階建の2号棟が建設されます。1号棟は平成29年(2017年)に解体。同年、建築面積177㎡の2号棟も住宅としての用途廃止。耐震改修工事を実施した上、令和元年(2019年)に貸店舗としての利用を開始しています。外壁には日華石が使用されており、自然な暖かみを感じることができるデザインは高く評価されています.令和2年(2020年)8月、登録有形文化財に登録されています。

旧芦屋市営宮塚町住宅
旧芦屋市営宮塚町住宅
旧芦屋市営宮塚町住宅

資料提供:清水裕士
     豊田みか(西宮市総務課公文書・歴史資料チーム)

⇒『昭和11年阪神沖観艦式と皇族の甲子園ホテル宿泊 その1』はこちら

2022.01.17

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昭和11年阪神沖観艦式と皇族の甲子園ホテル宿泊 その1
「天保山沖軍艦御親閲」(明治元年3月26日の第1回観艦式)の絵はがき
「天保山沖軍艦御親閲」(明治元年3月26日の第1回観艦式)の絵はがき
各藩からの6隻の他にフランスから1隻が参加。明治天皇は陸地から親閲されました

昭和11年(1936年)10月29日、阪神沖で大演習観艦式が行われました。観艦式に参加した皇族が甲子園ホテルに宿泊したと言われています。

当時、海軍省はこの観艦式について次のように発表しています。西宮市公報第119号(昭和11年11月20日)に掲載された中から紹介いたしましょう。なお、漢字等については常用のものに改めていることをお断りしておきます。

観艦式に就て  海軍省海軍軍事普及部

1. 概説
本年海軍特別大演習は、本邦南西方海面に於て、8月1日以来満3ケ月に亘り実施せられつゝあるのであるが、其の最終作業として特別大演習観艦式の一大盛儀が10月29日阪神沖に於て挙行せらるゝことゝなつた。今次観艦式は帝国海軍創建以来、実に第17回目であつて、畏くも今上陛下御親閲第5回目の観艦式である。

今回の観艦式は、所謂移動観艦式であつて、従来多く行はれたる碇泊観艦式とは、大いに趣を異にしてゐる。即ち一部特務艦等を除き参列艦船の全部が、陣形を整へて威風堂々御召艦の側近を航過し御親閲を受けるのであつて今回の如き大規模なる移動観艦式は、帝国海軍としては真に未曾有のものである。

2. 観艦式の意義
我が国の観艦式には、今回の如く特別大演習の際に行はれるものと、国家大典の場合に行はれるものとの二通りあるが、孰れも、畏くも大元帥陛下が、親しく帝国海軍の軍容を御親閲遊ばされる御儀式である。

帝国海軍の将兵は、御親閲の光栄に浴し得たるものは勿論、海外警備其の他の爲此の盛儀に参列し能はざるものも、斉しく此の盛儀に際し、光輝ある帝国海軍の歴史と伝統とを回顧し、其の有する重大なる責務に対し益々尽忠報国の念を堅くし、至誠一貫護国の大任を全ふせんことを誓ふ次第である。

3. 観艦式の歴史
今より596年前、皇紀二千一年(西暦1341年)、英国「エドワード」3世が自ら艦隊を率ゐて英仏戦争に出征の砌艦隊の威容を視閲したことがあつたが、これが抑も世界に於ける観艦式の歴史的起原を為すものと認められる。

我が国では明治元年3月26日明治天皇御親閲の下に行はれたる大阪港口天保山沖の観艦式を以て嚆矢とする。当時の参列艦船は各藩より参列したものであつて、肥前藩の電流丸、肥後藩の萬里丸、久留米藩の千歳丸、長州藩の華陽丸、芸州藩の萬年丸、薩州藩の三邦丸の6隻、総計噸数2,452噸で、海総督軍聖護院宮が電流丸に御座乗指揮せられ明治天皇には陸岸の叡覧所から御親閲遊ばされた。爾来69年16回の観艦式を経て今回茲に各種最新鋭の新艦を加へ、移動観艦式を挙行せらるゝに至つたのである。

今日迄に行はれた各観艦式の概要を表示すると左の通りである。

【観艦式一覧表】
回次年月日場所名称参加艦船隻数噸数航空機数記事
1明治元.3.26天保山沖観艦式6隻
2,452噸
移動観艦式
2明治23.4.18神戸沖海軍観艦式19隻
32,328噸
3明治33.4.30神戸沖大演習観艦式49隻
129,601噸
4明治36.4.10神戸沖大演習観艦式61隻
217,176噸
5明治38.10.23横浜沖凱旋観艦式166隻
324,159噸
6明治41.11.18神戸沖大演習観艦式123隻
404,460噸
潜水艦始めて参列
7大正元.11.12横浜沖大演習観艦式115隻
460,825噸
飛行機 2
8大正2.11.10横須賀沖恒例観艦式57隻
353,965噸
飛行機 4移動観艦式
9大正4.12.4横浜沖特別観艦式124隻
598,848噸
飛行機 9拝謁式及勅語伝達式
10大正5.10.25横浜沖恒例観艦式84隻
472,254噸
飛行機 4移動観艦式
11大正8.7.9横須賀沖御親閲式26隻
86,013噸
1.戦利潜水艦7隻を含む
2.駆逐艦、潜水艦は運動
 して親閲を受く
12大正8.10.28横浜沖大演習観艦式111隻
624,180噸
飛行機 12
13昭和2.10.30横浜沖大演習観艦式158隻
664,292噸
飛行機 80
飛行船 1
14昭和3.12.4横浜沖大礼特別観艦式186隻
778,891噸
飛行機 百数十機
飛行船
15昭和5.10.26神戸沖大演習観艦式164隻
703,295噸
飛行機 約百機
16昭和8.8.25横浜沖大演習観艦式159隻
806,000噸
飛行機 約二百機
17昭和11.10.29阪神沖大演習観艦式約100隻
約580,133噸
飛行機 数百機移動観艦式

4. 今次観艦式
次に今回行はれる観艦式の大要を述べることゝしよう。

(1)参列兵力、指揮官等

御召艦 比叡
御先導艦 鳥海  供奉艦 愛宕、足柄
御召艦の東側分列航進艦隊
 戦艦      4隻
 航空母艦    2隻
 巡洋艦其の他約50隻
御召艦の西側航進艦隊
 戦艦      3隻
 航空母艦    1隻
 巡洋艦其の他約40隻
分列航空部隊  100機
指揮官等
 大演習観艦式指揮官   海軍大将 高橋三吉
 同参謀長        海軍少将 野村直邦
 大演習観艦式事務委員長 海軍中将 豊田副武
外に分列航進せざる参加艦船
 水上機母艦   1隻
 特務艦     3隻

(2)式場図、分列航進順序及隊形

別図第1、第2の通である。(引用註-略)

(3)観艦式の光景

当日午前8時5分御召艦比叡は神戸港内浮標解纜、港外にある御先導艦、供奉艦は登舷礼式を行ひ、各艦が一斉に発射する皇礼砲の殷々たる中を嚠喨たる君が代の吹奏、天地に轟く万歳の祝声裡に御召艦は金色燦たる天皇旗を檣頭高く翻へして出港、港外に於て新鋭1万噸巡洋艦鳥海御先導をうけたまはり、愛宕、足柄之に供奉し、概ね針路を南に定め厳粛なる御親閲の航行を開始する。
是より先、観艦式指揮官高橋海軍大将の率ゆる全艦隊は、前日来碇泊してゐた淡路洲本沖を抜錨し、戦艦長門を先頭とする東側の艦列と戦艦陸奥を先頭とする西側の艦列は、式場図に示してある様な隊形を整へ、威容海を圧しつゝ式場に進入して御召艦の両側を反航分列航進を行ふのである。而して各隊は御召艦に近接するに従ひ、各其の指揮官の令に依り登舷礼式を行ひ皇礼砲を発射し、「君が代」の奏楽又は吹奏を行ひ、御召艦御航過の際乗員は一斉に万歳を三唱し、御親閲を受ける。斯くして隊列の長さ約13浬に亘る艦隊の御親閲が概ね終了する頃、数百機の航空機は南方の大空から爆音勇しく銀翼を連ねて空の護りの威容も頼しく、御召艦西側上空を通りつゝ御召艦に敬礼を行ひ御親閲を受ける。
此の間軍令部総長玉座の側に在つて参列部隊の各指揮官の官氏名其の他必要なる事項を奏上せられるのである。
御親閲が終ると御召艦は反転して式場錨地に向ひ、一方御親閲を受けた全艦隊は順次に編隊の儘逐次阪神沖碇泊式場錨地に投錨、投錨と同時に満艦飾を行ひ御召艦の御入港を御待ち申上げ御召艦が其の付近を御航過の際逐次登舷礼式を行ひ「君が代」の奏楽又は吹奏を行ひ、万歳を三唱し、大演習観艦式指揮官の旗艦長門に倣い一斉に皇礼砲を行ふ。斯くて御召艦投錨後、大演習両軍指揮官以下各級指揮官及統監部員を御召艦比叡に召させ給ひ大演習に関する御講評を行はせられ次に勅語を賜はるのである。
午後零時50分頃御召艦並に鳥海、愛宕、足柄、陸奥及加賀に於て、大演習関係高等官並に陪観者の一部に対し午餐を賜はるのであるが、御召艦以外の5艦には特に皇族を御差遣あらせられる。
賜饌後御召艦は午後2時40分抜錨駆逐艦時雨、白露供奉、横須賀に向はせられる。この時御入港の場合と同様の儀礼が行はれるのである。日没と共に軍艦旗は降下せられ、満艦飾は撤せられるが、暮色漸く濃かとなる頃、軍艦は電燈艦飾を行ひ、探照燈を点ずることになつて居るから、阪神沖の海と空とは爲に不夜城を呈するであらう。
而して明治元年同じ大阪湾で行はれた第1回の観艦式の参列艦船が6隻二千五百噸足らずであつたことを回顧するとき、我々国民は海洋国日本躍進の表象たる今日の帝国海軍の威容に接して誰しも感激と矜持とを新にすることであらう。此の海軍は我が皇室の御稜威と国民の偉大なる努力と我が海軍将士の義勇奉公とに依り整備発達し、平戦時を通じ帝国の国運隆昌に光輝ある寄与を為し来つたものであるが、今日帝国内外の困難なる情勢に鑑み、我々は此の盛儀に際し只々その壮観に快哉を叫ぶのみでなく、帝国の発展に対する我が海軍の使命に就て認識を新にすべきではあるまいか。

天保山公園と「明治天皇観艦之所」の碑
天保山公園と「明治天皇観艦之所」の碑
天保山は、天保年間に安治川の浚渫工事による土砂を積み上げた人工の山(築山)。標高4.53メートルでかつて日本一低い山と言われていたが、仙台市の日和山が震災の影響で標高が変化したことにより、日本で二番目に低い山となっています

昭和11年(1936年)10月29日に阪神沖で行われたこの大演習観艦式について、「鳴尾村史1889-1951」(平成17年(2005)3月31日西宮市鳴尾区有財産管理委員会発行)には次のように記されています。

沖合の連合艦隊

鳴尾村の人々が戦争をより身近に実感した出来事として、太平洋戦争開戦前の5年間に2度、村の沖合で行なわれた帝国海軍連合艦隊の観艦式がある。

昭和11年(1936)の10月29日、3カ月におよぶ南方洋上での演習を終えた帝国海軍が阪神沖に姿を現わし、第一・第二艦隊と第四艦隊の計108隻が西宮沖に投錨した。夜になると各艦はサーチライトを投光し、海上に艦隊の全容が浮かび上がった。鳴尾村でも海岸部はもちろん、阪神電鉄本線以北の家の2階からも夜空で光の帯が重なり合うさまを見ることができた。上陸地である西宮市は歓迎一色に染まり、官線や阪神電鉄は記念乗車券を売り出して近畿一円の話題をよんだ。観艦式当日は辰馬汽船が拝観船を無償で提供し、千名以上の招待客を運んだ。鳴尾村では港からはしけに乗り艦隊の近くまで見物に行った人たちもいた。地元児童の見学もあった。観艦式の壮大な印象は、村民の記憶に強く刻まれることになった。

大元帥として戦艦「比叡」で艦隊を親閲した昭和天皇は、終了後、神戸港から須磨の武庫離宮に向かったが、軍令部総長を務めた伏見宮は西宮港(現・西宮市朝凪町)に上陸し、甲子園ホテルに宿泊している。海軍将兵も西宮周辺の一般民家に宿を得て久々の家庭料理を楽しんだ。鳴尾村の家々でも水兵たちが歓待されている。彼らは桃山御陵(京都府)参拝やパレードなどの行事にも追われ、地元国防婦人会による茶菓の接待を受けて夜は歓楽街へ繰り出した。

ところで、明治以来関西での観艦式は、神戸沖で挙行されるのが恒例であった。なぜこのときは少し東寄りの阪神沖が選ばれたのだろうか。狭い海域に参加した艦艇が多かったから東に伸びたという説があるが、戦艦の艦数・トン数は昭和5年の神戸沖観艦式を下回っている。

陸上一時拝観所は香櫨園、東浜、西宮埋立地、今津西浜、今津港防潮堤に設けられ、大阪・京都・兵庫愛国婦人会三千名、市内各種団体・学校生徒一万二千名、その他四万二千名計五万七千名の拝観者を迎えた。このたびの観艦式(引用註―昭和11年)は移動観艦式と呼ばれ阪神沖に1万トン級巡洋艦鳥海を先導に愛宕・足柄を従えて停泊した御召艦比叡の前を艦艇が隊列を整えて御親閲を受ける形がとられた。(飯田寿作『酒都遊観記』)

ここに記されている「移動観艦式」という形式をとるため、より広い海域が必要とされたというのが正解かもしれない。諸外国との緊張が高まるなか、国外へ向けたデモンストレーションという意図とともに、国民の戦意発揚を図る目的もあったものと思われる。

茅淳の海とよばれた大阪湾は、大和王権の時代においても外国へ開かれた国の玄関口であった。難波宮から見た湾の対岸に軍港「務古水門」が設けられたときも、鳴尾の集落が間近に存在していた。戦争は村を出て海を越えた異国の地へ赴き、そこで敵と戦うことだ、と人々は沖に並ぶ連合艦隊を眺めて再認識したのではないだろうか。

そして昭和15年(1940)3月9日、鳴尾村の人々はふたたび大阪湾・阪神沖に集結した連合艦隊を目にする。停泊したのは3月13日までの4日間。このときのおもな目的は艦隊将兵の橿原神宮への戦勝祈願である。沿岸地域の各所から総勢百数十隻余の艦影が眺められた。村民にとって連合艦隊の威容にふれるのは4年ぶりであった。

このときは山本五十六司令長官が艦隊を率いていた。サーチライトの照射などは行なわれていない。防諜上の理由があるからだと村民は囁きあった。眺める側にも観艦式のときの浮き立つ気分はなかった。その後、大阪湾沿岸の人々が連合艦隊の姿を目にする機会は訪れなかった。この年の10月11日、横浜沖で実施された紀元2600年記念特別観艦式(第19回観艦式)が帝国海軍最後の観艦式となった。

天保山公園の「明治天皇観艦之所」の碑
天保山公園の「明治天皇観艦之所」の碑
碑には日華石が使用されていると言われています。日華石は、甲子園会館の壁面や柱など内外装を飾っている石川県小松市産の凝灰岩です

「鳴尾村史1889-1951」では、観艦式終了後、伏見宮軍令部総長は西宮港(現・西宮市朝凪町)に上陸し、甲子園ホテルに宿泊している、と記されています。
海軍省の発表では、昭和天皇が戦艦「比叡」艦上から艦隊の親閲をする間、伏見宮軍令部総長は天皇の側にいて参列部隊の各指揮官の官氏名やその他必要事項を奏上される、となっています。

海軍大将であった伏見宮博恭王は、昭和7年(1932年)2月2日海軍軍令部長に就任。同年5月27日元帥の称号を受けています。昭和8年(1933年)10月1日に施行された軍令部令により、海軍軍令部は軍令部に、海軍軍令部長は軍令部総長になります。そして、伏見宮は、昭和16年(1941年)4月9日に辞職するまで軍令部総長を務めます。
海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し天皇の統帥を輔翼する立場から海軍全体の作戦・指揮を統括する機関とされていました。

資料提供:清水裕士
     豊田みか(西宮市総務課公文書・歴史資料チーム)

2022.01.11

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「武庫川女子大学甲子園会館ミニライトアップ2021」余聞-ジャンボクリスマスツリー
鳥になって-甲子園会館ミニライトアップ2021
鳥になって-甲子園会館ミニライトアップ2021

武庫川女子大学上甲子園キャンパスに建築学科が開設された平成18年(2006年)、甲子園会館ライトアップは始まりました。日ごろからお世話になっている地域への感謝を込めて実施したものです。普段はキャンパス内へ自由には入っていただけませんが、ライトアップ期間中は一般に公開。甲子園会館や庭園等をライトアップして見学や散策を楽しんでいただくとともに、学生たちのパフォーマンスや作品の展示、飲食の提供などを行ってきました。

入場者を最初にお迎えするのが、正門入口にある高さ約15メートルの2本のヒマラヤ杉です。ヒマラヤ杉をクリスマスツリーに見立てて、イルミネーションライトとチューブライトで電飾してきました(ジャンボクリスマスツリー)。これは、平成18年の第1回ライトアップから行っているもので、意匠の多少の変遷はあったものの、平成30年(2018年)の第13回まで続きました。ライトアップは、土曜日と日曜日の連続した2日間開催してきました。両日ともイベントの開始にあたって照明を17:30頃に一旦消灯し、カウントダウンにより一斉に点灯していました。この消灯・点灯は、建物の照明とジャンボクリスマスツリーが連動したものであり、点灯の瞬間には入場者からオオーという感嘆の声が一斉に上がる感動的なシーンでした。

令和元年(2019年)の第14回では、翌年4月に開設する景観建築学科の校舎を建設中のため、点灯式やコーラスなどのオープニングを行ってきた会館北側の玄関前広場が使用できませんでした。そこで、オープニングは会館南側のテラスや庭園で行いましたが、会館南側からでは正門入口のヒマラヤ杉は見ることができません。そうしたこともあって、ヒマラヤ杉は従来の電飾から趣向を変えて、下から照明を当てる方法に変更しました。参加者へのアンケートの結果では、以前の電飾の方が良いという意見がかなり見受けられました。

令和2年(2020年)は、新型コロナウィルス感染拡大により、見学者を入れずに敷地外から見ていただくミニライトアップとし、会館北側壁面をライトアップ。ヒマラヤ杉は、令和元年の第14回と同様、下から照明を当てました。

令和3年(2021年)もコロナ禍によりミニライトアップとしましたが、ヒマラヤ杉は平成30年の第13回以前の電飾に戻しました。

ヒマラヤ杉の電飾を行うには、2.5~3日程度の準備が必要です。ミニライトアップ2021での準備作業の様子を紹介いたしましょう。

■第1日目(11月24日)
■第1日目(11月24日)
高所作業車に乗った2人が長い棒を持って向かって左のヒマラヤ杉に向かいます。
右のヒマラヤ杉には既に棒が取り付けられています
■第1日目(11月24日) ■第1日目(11月24日)
1人は木の中に入り、もう一人が高所作業車から木の中の作業員に棒を渡します
■第1日目(11月24日)
棒はヒマラヤ杉の幹にしっかりと固定されました
■第1日目(11月24日)
棒の先端に星型の照明を取り付けます
■第1日目(11月24日)
棒の先端に星型の照明がしっかりと固定され、チューブライトの準備にかかります
■第1日目(11月24日)
■第1日目(11月24日) ■第1日目(11月24日)
棒の先端にチューブライトを取り付けます
■第1日目(11月24日)
チューブライトの点灯テスト。断線等があればチューブライトを取り替えます
■第2日目(11月25日)
■第2日目(11月25日)
■第2日目(11月25日)
木を巻くようにイルミネーションライトを取り付けていきます
■第2日目(11月25日)
チューブライトとイルミネーションライトの試験点灯を行います
■第3日目(11月26日)

半日かけてチューブライトとイルミネーションライト等の取り付け最終調整を行いました。このようにヒマラヤ杉の電飾には、相当の準備と労力を必要とします。

■第3日目(11月26日)
甲子園会館北側壁面を照明
■第3日目(11月26日)
甲子園会館南側壁面を照明

11月28日(日)には、会館の南北壁面を照明。コロナ禍がなければ、おそらく27日(土)~28日(日)がライトアップの有力候補日だったでしょう。
11月28日にはヒマラヤ杉の電飾も点灯し、12月25日(土)までの16:30~20:00に点滅照明を実施。
11月28日、甲子園会館とヒマラヤ杉のミニライトアップをドローンにより撮影。3分07秒の動画にまとめ、12月24日YouTubeで配信します。

⇒2021.12.24配信開始!!「甲子園会館ライトアップ2021」動画はこちら

2021.12.23

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武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)ミニライトアップ2021のドローン映像をYouTubeで配信します
ドローンが捉えたミニライトアップ2021
ドローンが捉えたミニライトアップ2021

ドローンが捉えたミニライトアップ2021

武庫川女子大学建築学科(2020年度から建築学部)は、2006年(平成18年)、女子大学初の建築学科として上甲子園キャンパスに開設され、国の登録有形文化財である甲子園会館(旧甲子園ホテル)を校舎の一つとして使用。建築学科開設の2006年から、地域への感謝として甲子園会館及び庭園等をライトアップし、普段自由には入っていただけない上甲子園キャンパスを一般に公開してきました。

2018年(平成30年)には、NHKの朝ドラ「まんぷく」のロケ地となったこともあって、入場者が2日間で6,800人を超えるなど地域に親しまれる風物詩となっていました。

2020年(令和2年)は、新型コロナウィルス感染拡大により、見学者を入れずに敷地外から見ていただくミニライトアップに変更。12月21日~25日の5日間、甲子園会館北側壁面と正門入口にある2本のヒマラヤ杉をライトアップ。また、玄関前広場に建築学専攻の大学院生が制作した実物大模型を複数展示し、照明を施しました。

正門から見たミニライトアップ2021

正門から見たミニライトアップ2021

2021年(令和3年)もコロナ禍が完全に沈静化しているとはいえず、昨年同様、見学者が構内を散策できるイベントは取りやめ、正門入口の2本のヒマラヤ杉を電飾し、構外から見ていただけるミニライトアップとしました。ヒマラヤ杉は、かつてのライトアップ時に「ジャンボクリスマスツリー」と呼ばれていた状態に電飾。樹頭に星型の照明をつけ、樹頭から縦方向にチューブライト、木を巻くようにイルミネーションライトを施し、11月28日(日)~12月25日(土)の16時30分~20時、点滅照明を行っています。

こうしたミニライトアップ2021の情景や、上甲子園キャンパス内4建物の内部をドローンで撮影した映像を12月24日(金)からYouTubeで公開します。非日常のすばらしい世界をぜひお楽しみください。

鳥になった気分で ミニライトアップ2021
鳥になった気分で ミニライトアップ2021

鳥になった気分で ミニライトアップ2021

⇒2021.12.24配信開始!!「甲子園会館ライトアップ2021」動画はこちら

2021.12.20

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甲子園会館と戦争
海軍病院(病院関係者の証言)

海軍省は、昭和19年(1944年)に甲子園ホテルを収用。同年6月15日には、呉海軍病院大阪分院(普通収容数400名、最大収容数580名)を開設し、患者の収容を開始します。大阪分院は、20年(1945年)3月1日に大阪海軍病院として独立。

附属中学校・高等学校敷地にある武庫川学院芸術館……戦時中鳴尾飛行場の管制塔として使用されました
附属中学校・高等学校敷地にある武庫川学院芸術館……戦時中鳴尾飛行場の管制塔として使用されました
旧帝国海軍は、川西航空機鳴尾製作所の西側隣接地にあった阪神競馬場(昭和12年鳴尾競馬場から改称)や浜甲子園阪神パークなどの土地を買収。昭和18年(1943年)、ここに2本の1,200メートル滑走路がX型に交差する鳴尾海軍航空基地(鳴尾飛行場)を開設しました。管制塔には、阪神競馬場の大スタンドの正面玄関部分を転用。これは、鳴尾競馬場の観覧席の一部(貴賓館)として、昭和10年(1935年)、大林組により建設されたものです。貴賓館は、戦後、国から武庫川学院に払い下げられ、現在、芸術館となっています。平成30年(2018年)8月8日、皇太子殿下、同妃殿下(現在の天皇・皇后両陛下)が、阪神甲子園球場で行われた第100回全国高等学校野球選手権大会開会式に臨席後、芸術館を視察されています。

兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)にあった川西航空機株式会社は、海軍の局地戦闘機「紫電改」などを設計・生産したことで知られています。川西航空機とその後身の新明和工業のことを、小説家城山三郎は「零からの栄光」で描いています。その中で、戦時中後期の甲子園ホテルについて次のように表しています。

物資不足の折りから、ふくれ上った従業員のための衣食住を用意することが、また一仕事であったが、これは前原副社長が猛烈としかいいようのないやり方で解決していった。
すでに川西には、工和寮・親和寮・誠和寮・明和寮などといった寮の群があったが、その上に、甲子園ホテルはじめ寮となりそうな建物は手当りしだい買収。

「零からの栄光」について、「社史1 新明和工業株式会社」(昭和54年10月発行)の発刊の辞で、同社の伊藤俊雄相談役は次のように記しています。

昭和44年、当社の20周年に当たり、前々から考えていた社史の編纂に取り組む事に成った。

豪華な装訂で、書棚の飾りにするだけでは曲がないし、内容も単なる記録の羅列では面白くない。会社に関係の薄い人でも、面白く読める様な社史が出来ないものだろうか。いろいろ考えた末、我々が昔習った日本史の様にそれぞれの時代のめぼしい事件を取り上げて、物語風な構成とし、記録的な会社の歩みは、別に年譜を付ける事にしてスタートした。

社内に知る人があり、会社の経営に深い理解のある城山三郎氏に白羽の矢を立てた処、幸い同氏の快諾を得る事が出来た。

爾来城山氏は度々会社に足を運び、実地に施設を視、多くの関係者の話を聞き、氏独得の鋭い感覚で得た資料を基にして出来たのが『零からの栄光』である。

昭和45年4月から8月まで「サンデー毎日」に連載、好評を博し、後単行本として刊行され、幸い多くの読者を得て版を重ねるに至ったものである。城山氏の著作だけに、事実を聊かも曲げず、殊更粉飾もせず、読者を魅了した事は流石である。

国は甲子園ホテルを収用して、昭和19年(1944年)6月15日に呉海軍病院大阪分院を開設。甲子園ホテルは、登記簿上、7月5日売買により株式会社甲子園ホテルから海軍省に所有権が移転しています。

平成25年(2013年)4月、甲子園会館の一般見学に東京から参加された方がおられました。昭和19年(1944年)7月、呉海軍病院大阪分院へ19歳で看護婦として着任した女性です。 見学会終了後、その女性に呉海軍病院大阪分院~大阪海軍病院時代のお話しを伺いました。甲子園会館の見学に来られたのが海軍病院時代から70年近くも経ったときであり、あるいは記憶が錯綜している点があるやもしれません。しかし、海軍病院時代の実態がわかる貴重な得難い証言でありますので、お聞きした要旨を紹介いたしましょう。

  • 出身は栃木だが、同県に赤十字の看護学校がなかったため、石巻の学校に行った。呉海軍病院大阪分院の看護婦は、私の属する21名の栃木班が先着し、後着の長野班21名とあわせて、合計42名。
  • 病院の医師は、内科医2人(西ウィング)と外科医1人(東ウィング)。病院責任者(院長)は外科医で、「副官」と呼ばれており、1階の現・東応接室が院長室だった。検査技師は下士官だった。
  • ホテルを病院に転用するにあたって、施設の改装はほとんどなかった。ホテルがしっかり作られていたため改装しにくかったようである。バンケットホール(現・西ホール)には2段ベッドがびっしりと並んでいて、50床ぐらいあり、兵隊を収容していた。士官級の患者は2階・3階の部屋で、ベッドはホテル時代のものをそのまま使い、和室には3人分の布団を敷いて収容していた。
  • 1階の現・西応接室は内科診察室、1階の現・東応接室は外科診察室、1階の現・建築学部事務室付近は薬局であった。1階ラウンジは病院事務室として使用しており、海軍高級幹部の子女が動員で事務員として勤務していた。1階東側の現・学生食堂は検査室、1階のバー(現・談話室兼アートショップ)はレントゲン室であった。
  • 地階の厨房はそのまま使用していた。暖房はなく、お湯は厨房よりもらっていた。
  • 3階・4階には病院幹部が住んでいた。
  • 看護婦宿舎は、当初東西両ウィング4階の和室を使用していたが、後に収容者が増えたため、東鳴尾にあった川西航空機の宿舎に移り、徒歩で通勤した。4階和室には医者も寝泊りしていた。
  • 建物東側に従業員宿舎があって、看護婦宿舎として使用していた。
  • 南方からの病院船入港時に、ハシケに乗船して傷痍兵を引き取りに行った。重傷者は大阪赤十字病院へ送られ、大阪海軍病院へは軽傷の人が多かった。
  • 病院としては、外科手術は少なく、内科が中心だった。
  • 入院患者の見舞いはほとんどなかった。患者には関西弁の人が多かった。
  • 医療設備が十分でないため、多くの人が亡くなったが、火葬は武庫川の河原で行った。
  • 大食堂(現・スタジオ1)は食堂として使用し、下士官用とは衝立で仕切りがあった。料理は兵隊が作っており、食事内容は良く、贅沢なものが出されていた。
  • 病院名の看板はなかったが、屋上に布で作った赤十字のマーク(旗?)があった。
  • 西宮空襲時は、トラックに衛生資材を載せ、救護に向かった。空襲で多数の怪我人が病院に運び込まれ、手当てした。廊下は足の踏み場もないくらいだった。
  • バンケットホール(現・西ホール)西側すぐの所に、詰めて20人くらいが座れる地下防空壕があり、空襲時に避難した。
  • 廊下には絨毯がなかった。現・学生食堂東側のダイオウショウ(大王松)は当時もあった。
  • 敷地内に焼夷弾は落ちたが、被害はなかった。焼夷弾の残骸が庭に山積みされていた。
  • 平時は、池でボート競走、芝生で運動会をした。
  • 昭和20年(1945年)9月1日、米軍が接収するため、ベッドを片付け、その日の夜行列車で東京へ向かった。病院は、尼崎に収容されていたアメリカ兵捕虜に引き渡した。

「1階の現・建築学部事務室付近は薬局であった。」と言われています。現在、正面玄関を入ってすぐ左に建築学部事務室があり、周囲を囲まれた独立空間となっています。この場所は、甲子園ホテル時代にはオープンスペースであり、ホール及び売店がありました。

「暖房はなく、お湯は厨房よりもらっていた。」と証言されていますが、甲子園ホテルには当初から冷房設備はなかったが、暖房設備は設けられていました。設備が機能していなかったとすれば、戦時の石炭配給統制によるものでしょうか。

甲子園会館と戦争(海軍病院) 駆逐艦「櫻」の負傷者を収容 その1」で、「櫻」の艦長従兵だった西部喜久市さんが防空壕について語っておられました。海軍病院の看護婦だった女性は、バンケットホール(現・西ホール)西側すぐの所に地下防空壕があったと証言されています。バンケットホールには、50床ぐらい2段ベッドがびっしりと並んで兵隊を収容していたとも言われていますので、合理的な場所に防空壕を設けたことになります。

甲子園会館と戦争 海軍病院(空襲の負傷者を治療)」で、宮本範子さんの「空襲体験記-火の海-」(「西宮の歴史 文化財資料第31号」平成元年3月1日 西宮市教育委員会発行)を紹介しました。昭和20年(1945年)8月5日夜半から6日暁にかけての米B-29による「阪神大空襲」で、宮本さんは、爆弾の破片により左腕を負傷。海軍病院となっていた甲子園ホテルで左腕切除の手術を受けました。手術後は「広間に寝かされていた」と宮本さんは書いておられます。看護婦だった女性は、西宮空襲時には多数の怪我人が病院に運び込まれ、「廊下は足の踏み場もないくらいだった。」と証言されています。宮本さんは廊下に寝かされていたのでしょうか、「広間」と書かれているのでバンケットホール(現・西ホール)だったのでしょうか。

終戦後の米軍による接収についても語られています。「西宮市史 第七巻 資料編4」(昭和42年3月25日発行)に掲載されている「占領軍の住宅および施設の接収一覧表」(山元章作成 大阪防衛施設局資料)によれば、甲子園ホテル(旧大阪海軍病院)の接収は昭和20年10月1日、解除は昭和32年12月16日となっています。

西部喜久市さんは、駆逐艦「櫻」に乗艦していました。「櫻」など戦時量産の「松型駆逐艦」の一隻である「橘」の模型です。

「櫻」など戦時量産の「松型駆逐艦」の一隻である「橘」の模型です。
「櫻」など戦時量産の「松型駆逐艦」の一隻である「橘」の模型です。
添田康乃介氏提供

2021.12.15

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甲子園会館の秋2021 その2
甲子園会館から見た部分月食 11月19日 午後6時50分頃
甲子園会館から見た部分月食 11月19日 午後6時50分頃

11月19日(金)、月の一部が地球の影に隠れる部分月食が日本各地で観測されました。月を照らす太陽光の大半が地球に遮られる「ほぼ皆既月食」といわれる現象です。日本全国で観測可能な「ほぼ皆既」の部分月食としては89年ぶり。次回は65年後ということです。
甲子園会館からもこの天体ショーを見ることができました。

鮮やかに紅葉したハゼと甲子園会館 鮮やかに紅葉したハゼと甲子園会館
鮮やかに紅葉したハゼと甲子園会館

気温の低下に伴って、甲子園会館庭園の落葉樹も一気に紅葉しました。
サクラは落葉が目立ってきました。
既に葉を落としてしまった樹木も多くある中、ハゼやドウダンツツジは鮮やかに変身しています。

イロハモミジは、木によって紅葉の状態にバラつきがあるようです。

南庭園から甲子園会館を臨む。モミジやドウダンツツジが鮮やかです
南庭園から甲子園会館を臨む。モミジやドウダンツツジが鮮やかです
西ウィングと庭園の紅葉
西ウィングと庭園の紅葉
西ホールの屋根越しに紅葉した庭園を見る
西ホールの屋根越しに紅葉した庭園を見る

⇒『甲子園会館の秋2021 その1』はこちら

2021.12.02

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クリスマスリースが今年も甲子園会館にお目見えしました
甲子園会館玄関に飾られたクリスマスリース
甲子園会館玄関に飾られたクリスマスリース

クリスマスリースが、11月29日(月)甲子園会館の玄関に飾られました。

このリースは、上甲子園キャンパスの緑地管理をしている阪神園芸㈱が、この時期に開催される甲子園会館ライトアップへの協賛の一環として毎年制作しているものです。コロナ禍の影響で、昨年、今年と見学者が来場してのライトアップイベントは実施できませんでしたが、来年こそはの思いを込めてリースをつくっていただきました。

リースには、フジのツルを核にして、クロマツの松ぼっくり、シダーローズ(ヒマラヤスギの松ぼっくりの先端部分)、トウヒ、クヌギのドングリ、ツバキ、サルビアの花、タマイブキ、フウの実などを飾り付けています。クロマツの松ぼっくりを多数使用したことや、装飾材料の種類を増やしたことが今年のリースの特色です。

リースを制作した阪神園芸㈱の中嶋和夫さんは、クヌギのドングリの穴開けや、松ぼっくりの数が多かったので飾りつけに時間がかかったなどの話をされていました。

以前のように多くの方にクリスマスリースを見ていただけるよう、コロナ禍が一日も早く収束することを祈念しています。

制作した阪神園芸㈱の中嶋和夫さんとクリスマスリース 制作した阪神園芸㈱の中嶋和夫さんとクリスマスリース
制作した阪神園芸㈱の中嶋和夫さんとクリスマスリース

2021.12.01

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甲子園会館と戦争
海軍病院(空襲の負傷者を治療)

海軍省は、昭和19年(1944年)に甲子園ホテルを収用。同年6月15日には、呉海軍病院大阪分院(普通収容数400名、最大収容数580名)を開設し、患者の収容を開始します。大阪分院は、20年(1945年)3月1日に大阪海軍病院として独立。

高射砲の台座跡 尼崎市橘公園(尼崎市東七松町 尼崎市役所東隣)
高射砲の台座跡 尼崎市橘公園(尼崎市東七松町 尼崎市役所東隣)
現在はライオン像の台座として使われています
「鳴尾村誌1889-1951」(平成17年(2005)3月31日 西宮市鳴尾区有財産管理委員会発行)には、鳴尾飛行場と小松、甲山に高射砲が配置されていたことが記されています

「西宮市は、昭和20年(1945年)5月11日、6月5日、6月15日、7月24日、8月5日~6日の5回にわたって大規模な空襲を受け、死亡637~872人、全焼15,003~17,946、罹災者66,522人という被害を出しました。戦後の昭和26年(1951年)に西宮市と合併する武庫郡鳴尾村は、鳴尾飛行場や川西航空機といった軍事施設や軍需工場があったことから、西宮市を上回る8回の空襲を受けています。3月19日、6月9日、6月15日、7月10日、7月19日(2回)、8月6日、8月10日であり、死亡188人、全焼3,663、罹災者19,993人という損失を被りました。

被害が最も大きかったのは、西宮市、鳴尾村ともに後年「阪神大空襲」と呼ばれた8月5日~6日の空襲でした。西宮市では、死亡485人、全焼13,464、罹災者56,591人、鳴尾村では、死亡125人、全焼2,707、罹災者11,694人となっています。

(以上、「西宮市史 第三巻」(昭和42年3月25日発行)、「西宮現代史 第一巻Ⅱ」(2007(平成19)年12月27日発行)による)

この「阪神大空襲」について、「西宮市史 第三巻」では次のように記されています。

第5回空襲は終戦のわずか10日前、8月5日夜半から6日の暁にかけておこなわれた最大の規模の攻撃であった。まず8月5日午後10時ころ空襲警報が発令されたが、これはまもなく解除された。ところが午後12時前になってふたたび警戒警報がだされ、ついで空襲警報が発令され数機編隊で波状攻撃が加えられ、文字どおり焼夷弾・爆弾の雨がふった。火柱は市中いたるところに立ちのぼり、猛烈な火災が夜空をこがして、爆発音や対空砲火がとどろいた。警防団・隣組防空隊などの組織をとおして、市民は防火にめざましい活動を示したが、物量をほこる波状攻撃に対しては、ほとんど効果を挙げえなかった。かくて恐怖の一夜が明けると、市の南部市街地はほとんど全滅するという悲惨な姿に変わっていた。

米陸軍戦略航空軍司令官あてに第20航空軍司令部が作成した戦術任務報告の一部(和訳)が、尼崎市立地域研究史料館紀要「地域史研究」第21巻第1号(平成3年10月)に掲載されています。作戦命令第14号による佐賀、前橋、西宮-御影、今治市街地域に対する8月5日~6日の焼夷弾攻撃です。任務第312号は、第58爆撃航空連隊の2航空大隊による佐賀市街地域を目標とする攻撃。任務第313号は、第313爆撃航空連隊の3航空大隊による前橋市街地域を目標とする攻撃。任務第314号は、第314爆撃航空連隊の4航空大隊と第73爆撃航空連隊の4航空大隊による西宮-御影市街地域を目標とする攻撃。任務第316号は、第58爆撃航空連隊の2航空大隊による今治市街地域を目標とする攻撃。任務第314号が「阪神大空襲」に当ります。西宮-御影市街地域が目標に選定された理由は、この地域が大阪湾北岸に位置し、神戸の東側の近郊地を形成しており、大阪と神戸の大企業に部品を供給する下請中小工場地帯として重要であると判断されたからです。任務は、爆撃機が白昼に離着陸を行い、夜間に目標上に到達するよう計画。西宮-御影市街地域の強力な対空砲火に対抗するため、電波妨害専用機4機が振り当てられています。しかし、戦闘機の援護は計画されなかったということです。対空砲火を避けるため、南西側の海上から接近。255機のB-29が高度12,600~16,000フィートから目標を爆撃し、西宮-御影の建造物地域9.46平方マイルのうち、2.8平方マイルを焼失させたと報告されています(焼失率29.6%)。日本機の迎撃や対空砲火はあったものの、そのことによるB-29の損失はなかったということです。任務第314号により西宮-御影市街地域に投下された爆弾等は次のとおりです。M-19 500ポンド結束焼夷弾が8,973、1,794.6トン。T4E4 500ポンド破砕弾が238、47.6トン。AN-M47A2 100ポンド焼夷弾が2,722、93.9トン。AN-M64 500ポンド汎用爆弾が134、33.5トン。AN-M17A1 500ポンド結束焼夷弾が137、34.3トン。汎用爆弾は、消火活動を妨害するために使用されたものです。

高射砲の台座跡 尼崎市橘公園(尼崎市東七松町 尼崎市役所東隣)
「B29のおとしもの1945」
小野建株式会社神戸営業所(神戸市東灘区深江浜町)の一角
「昭和20(1945)年の神戸大空襲でアメリカ軍が投下した焼夷弾のフタ部分」と言われています。M69集束油脂焼夷弾のノーズブロック(弾頭部のおもり)でしょうか

大阪海軍病院は、海軍軍人だけでなく、空襲で負傷した市民の治療にあたることになります。「阪神大空襲」で負傷し、大阪海軍病院で手術を受けた女性が、そのときの体験を赤裸々に発表しておられます。戦争は絶対にしてはならないという強い気持ちから書かれた体験記等を紹介いたしましょう。

1.「神戸大空襲」
(1972年6月10日 神戸空襲を記録する会編 神戸新聞総合出版センター発行)

麻酔なしで腕を切り落とす

夜空を裂く空襲警報のサイレンで、西宮市甲子園五丁目の小西範子さん(当時26歳)一家が飛び起きた時、すでに西宮の空は焦げていた。

市立西宮高女で家庭科を教えていた範子さんは、その時、「だいぶ大きいな。こっちへ来そうや」という兄久嘉さん(当時28歳)=神戸・暁部隊所属=の声を聞いた。と、間もなく、ザザザーッと焼夷弾の空気を切り裂く音と、爆弾の炸裂音。「打ち上げ花火の最後に落ちてくる火の玉のように降ってきた。そのため、いまも花火を見るのがこわくて……」

その火の一つが納屋へ落ちた。父、晃さん(当時64歳)と久嘉さんは、消火に走った。二人で井戸水をくみ上げ、水がかわいて底のドロまでかけた。妹の停子さん(当時19歳)は母こいとさん(当時61歳)を助けて、防空壕へ逃げた。範子さんがそれを見とどけ、自分も逃げようとした瞬間、「ドシン」と、爆弾のはじける音。「人がぶつかったような感じで、気がつくと左腕の感覚がなく、上膊部の下から血が出ていた」

範子さんは、50メートルほど離れた上甲子園国民学校の救護所へ走った。道一面に、ロウソクをともしたような火がひろがっている。ワラぞうりでは、足の踏み場もない。よろけながら走っていると、軒先に男の人がうずくまっている。腰に下げたタオルを、あごでしゃくって、「これで腕をしばって下さい」と、頼んだ。

「こわい。ようせんワ」その男の人は、ふらっと立ち去った。二、三カ月後、近所にたずねて来て、「ザクロのように割れた傷口を見てこわくなったが、あの娘さんはどうなりましたか」と、安否を確かめたという。

範子さんの腕をつらぬいたのは、東隣の米津惣吉さんを直撃した爆弾の破片だった。町内会の防空部長だった米津さんは死亡。別の破片は、範子さんの家の、仏像の眉間を突き破っていた。

自宅の壕から、学校へ避難していた妹の停子さんは、爆撃が遠ざかってから壕を出た。自宅付近が燃えている。降り出した黒い雨をついてかけ戻ると、家は無事だったが、近所の人から、「姉さんがえらいケガや」と知らされてびっくり。母や兄といっしょに、範子さんのいる壕へかけつけた。夜明けを待って、血に染まった範子さんを、甲子園ホテルを転用していた“海軍病院”へ。真夏の傷は、化のうするのが早い。医者は、「すぐに切断しないと、あぶない」という。家族はなんとか切らずに、と願ったが、医者は容赦しなかった。

「麻酔もないまま、上膊部から切り落とすのですから、もう痛くて……。頭の中を、錐でまぜかえされたような感じでした」

手術がすんだあと、他の重傷者とトラックで、市役所横の旧武徳殿へ収容された。「畳敷きに、たくさんの人がねかされていた。家が焼かれたせいか、傷の痛さか、発狂者が何人も出て、体の上を歩き回るんです。私も傷口を踏まれました」

――5日夜半から6日の暁にかけての空襲で、市の南部市街地はほとんど全滅。被害は焼夷弾と爆弾によるもので、死者485人、重傷者650人、軽傷者1,100人、全焼・全壊家屋13,469戸、半焼・半壊家屋111戸、罹災者56,591人を数えた。(西宮市史)

染殿町にあった範子さんの勤め先、西宮高女も全焼。校庭は、死体の収容場所になった。「親類縁者を求める人が、死者を一人々々検分した上で、校庭のイモ畑の中に焼け残りの木材を並べて三十人、四十人と何度も火葬された」(市立西宮高校創立三十五周年記念号‟松柏“)

2.「西宮の歴史 文化財資料第31号」
(平成元年3月1日 西宮市教育委員会発行)

空襲体験記―火の雨―  宮本範子

昭和20年4月、西宮高等女学校に1年生が入学してきた。当時私はこの学校の教員として勤務していた。戦争はすでに苛烈を極め、その3月には大阪・神戸が大空襲を受けていたし、阪神地区にも敵の大型機B29が編隊でよく飛来した。時には、小型の艦載機が低空で頭上をかすめて機銃掃射を加えたりした。学校でも警戒警報が発令されると、生徒たちは鞄をかかえ防空ずきんをかぶって脱兎のごとく校門を走り去った。残留生徒や職員は校舎の一室に避難して敵機の通りすぎるまで身をひそめていた。時にはB29の編隊が体をゆるがすような轟音をとどろかせて飛び去ったあと、その方向の工場で黒煙があがるのであった。その当時わが国の防衛はすぐれていると信じていたのに、いつの空襲にも敵機を打ち落としているのは見たこともなく、敵機の通った後方の低い空で高射砲がポカンポカンと数発、まのびした音を響かせるていどであった。なぜ撃ちおとしてくれないのかといらいらした。あとでわかったことであるが、敵機の威力に対してわが国の軍備の性能はあまりにも劣っていたのである。

5月11日、いつものとおり空襲警報があったが、その日は近い所に爆弾の炸裂する音を聞き、腹部にこたえるような不気味なひびきで校舎をゆるがせながら敵機が飛び去った。すぐあとで大社小学校付近に大型爆弾が落ちたそうなと伝わってきて、さきほど帰って行った生徒たちはどうであったろうと大急ぎで越水・大社方面へ出かけた。途中爆弾で大きくえぐり取られた地面や、つぶれた建物などを目の前にして足のすくむ思いであった。とび散った家跡で土だらけの顔でうろついている人、泣き叫ぶ声、呼び合う大声、あわただしく行き交う道路、そこには雨戸をはずしたにわかづくりの担架にのせて運ばれてゆく死体、ちぎれた生首や手足だけがあった。爆撃をうけた直後の町はまさに悲惨であった。

西宮の第1回目のこの空襲では死傷者330人、建物の損失430戸と後日の記録にあった。その後西宮には6月に3回、7月に3回も焼夷弾爆弾がおとされた。

7月末、夜中に飛来した敵機が白いひらひらしたものをまき散らしてとび去ったが、恐る恐る拾ってみると「近日中にこの町を焼く」というような空襲予告のビラであった。私たちはこんなうその宣伝に負けるものかといっそう敵愾心をふるいたたせた。しかし予告は事実であった。8月5日深夜の空襲は西宮にとって壊滅的なものであった。そして私にとっても運命の日となった。夜中の警報サイレンにまたかと思いつつ防空服に身を固め家の外に出ると、西の方はもう炎上しているのか空全体が強い夕焼けのように明るく、昼のようであった。いつもとようすがちがうなと思っていた途端、ザザー、シュルシュルと焼夷弾がおちる音、大きな打ち上げ花火のような火の雨が頭上にふりそそいだ。と思うと爆弾の炸裂するはげしい音、そして急に誰かが私に強くぶつかると思ったら、私の左上腕は爆弾の破片がぬけ通って、腕はうちひしがれ皮一枚という感じでぶら下がっていた。何とかしなければと思い、救護所として軍隊が駐屯していた上甲子園小学校へ向かって駆け出していた。足がもつれる。息苦しい。左脇を血が流れおちるのを感じる。そばの軒下でうずくまっていた男の人に、「傷口をくくって下さい」と手拭いをさし出したが「わあこわい、ようせんわ」とことわられた。その人は後日、近所へ来て「ざくろのようにわれた傷口をみてこわかったが、あの娘さんどうなりましたか」と安否をたずねてくれたという。私はそのまま気を失ったらしく、気がついた時には道ばたに倒れていたが、まわりには地を這うような炎が一面にめらめらと燃えていた。冥途への迎え火のように……。焼夷弾のもえかすであった。渾身の力をふりしぼって走り出そうとするが、わらぞうりの足がふらつく。100メートル先の救護所へやっとの思いでたどりついた。胸にぬいつけていた名札の氏名や血液型を「これを見て下さい」と叫んだままあとは意識を失った。気がつくと私は担架で運ばれていた。空がかっと照りつけていた。途中誰かが私の担架をのぞきこんで「小西(旧姓)先生やわ」といってくれたのがいまでも耳に残っている。朦朧とした意識の中で私を知ってくれる人があったことが嬉しかった。当時海軍病院に使われていた甲子園ホテル(現、武庫川学院第三学舎)へ運ばれた。そこで私の腕は切りおとされた。麻酔薬などない、頭のしんを刃物でえぐられるような苦痛の中で。切断の助手をした衛生兵の人から後年きいた話では、その日が病院でも最も多く、一日に13本の手足を切断したという。

かなり時が経ったであろうか、気がついたときはもう私には左手というものはなく、分厚い繃帯の上に暗赤色の血がにじんでいた。薬らしいものさえなく広間に寝かされているだけであった。空襲は連日でその危険からのがれるため病院を追われて旧武徳殿(六湛寺町)へ運ばれた。百畳敷きもあるような広い所にぎっしり負傷者が詰まっていて、たまに巡回される軍医や看護婦さんが患者を踏まないように苦労しておられたのを覚えている。傷の痛さか家を焼かれたせいか、発狂者が多く、重傷者の顔や身体を所かまわず踏んで廻る者があり、痛んで泣き叫ぶ者、狂おしくわめく者などさながら生地獄であった。

この8月6日の空襲が西宮にとっては最も大規模であったそうで罹災者総数5万6000余名と資料にはのべていて、これまで合計8回の空襲で約7万名が罹災したと記録されているが、当時の約12万市民の約60パーセントに及ぶ。

この武徳殿も危ないとのことで移動を命じられ、各自で行き先をさがすことになった。しかし病院は焼失しておりやっと家族がみつけてくれた香櫨園浜の回生病院へと移った。雨戸にのせられ、ゆられる傷の痛みと強い陽ざしは今も鮮明に思い出される。ここが戎さんの南門、酒蔵のやけている臭いがきついなど担いでくれた人たちの話も覚えている。病院にいても空襲のたびに海辺へ出るが、かくれる場もなく波打ちぎわに横たわっているだけであり、爆音をとどろかせて通る敵機を恨めしく見上げた。そのころの病院はガス・電気もなく水道も出ず、もちろん食物もなかった。海辺に掘られたくみ上げ手押しポンプの水が貴重であり、海辺でひろい集めた木ぎれをコンロで燃やし、家族が工面してくれる食物でやっと飢えをしのいでいた。死んでいく人も多く、寝ている広間にふと空間ができたと思ったらその場に線香の煙がただよっていた。しかし片腕をなくしても私は残念とは思わなかった。元気な人が応召して次々と戦死してゆく…。手足を一本や二本失ってもあたりまえと思っていた。日本人みんなが負けいくさを少しは感じていてもまだ軍隊を信じ、国の勝利を疑わなかったのである。

8月15日終戦の日が来た。私もはじめてくやし涙にくれた。自分の運命に打ちひしがれて悲憤の涙にくれ、死ぬことばかりを考えた。終戦後も全国民は戦後の疲弊、食料難にあえいだ。西宮も多くの町が焼けおち、市民全体が打ちのめされていた。その年末、私もやっと傷が癒え、片腕しかない身体で退院帰宅するとき、戎神社の石の鳥居だけがそそり立ち、あとは一面の焼野が原であった。その後西宮市民も苦しみの中から立ち上がってりっぱに復興した。私も家族にはげまされ幸いにも生きのびて現在に至っている。

私は思う。戦争とは一握りの人によって引起こされるものである。そして国民がそれに抵抗する手段を持たなかった。そのためあまりにも大きな被害をうけ悲惨な目にあった。今わが国では戦争を知らない世代がふえた。これは国としてはほんとうはよいことである。しかし戦争は知らなくても戦争の悲惨さを考えられる人であってほしいと祈る。

3.「追憶-西宮市民の戦争体験記-」
(平成5年(1993)5月 追憶編集委員会編集 西宮市遺族会他6団体発行)

失った片腕

甲子園口4丁目 宮本範子

昭和20年8月6日明け方、西宮は空襲を受け焼夷弾が空から大きな打ち上げ花火のように、火の雨となって頭にふりそそぐのです。急に誰かが私に強くぶつかると思ったら私の左腕は打ちひしがれ皮一枚になってぶらさがっていました。爆弾の破片が貫通したのです。

生身のからだに強くはじけた鉄片がぬけ通る!!これで私は一瞬の間に片腕を失ったのです。当時の海軍病院になっていた旧甲子園ホテルで麻酔もなくぶつ切り。他の病院は焼け果て薬もなく腕の切り口の痛みに苦しみつつ空襲のたびに逃げ回りましたが、私は残念とは思いませんでした。元気な人が応召して次々と死んでゆくはげしい戦争。手や足の一本や二本失っても当たり前と思い、やがて勝利の日の来るのを信じていたのです。

けれども8月15日の敗戦、私もはじめて悲憤の涙にくれました。ついこの間までは五体健全であったのにもう片腕しかない、手一本の不具の身になってしまったのです。自分の運命に打ちのめされ、いら立ち苦しみ、生きていく望みもなくなり周りの家族に当たりちらすのでしたが、家族は私をたえずいたわってくれました。時には母に強く叱られ、さとされ、励まされて、私はようやく母の喜んでくれることをしようと思いはじめました。

こうして生きてゆく気になるまでには長い年月がかかりました。47年も前のことですが、つい先日のようにはっきり覚えています。8月6日は私の片腕の命日です。もぎ取られた片腕のことは今も夢の中に出て来ます。今でも時々腕の切り口が痛み、夜昼となくうずく痛みに、数日間はじっと耐えなければならないのです。左腕があればどんなによかったかと、ない腕をいとおしむ気持ちがつのってきます。

けれども私には右腕が残りました。第二次世界大戦で「日本国中の誰もが何らかの被害を受けたのだ。私ひとりではない」といつも自分をはげましています。どうぞやめて下さい! 私のような被害者をつくる戦争は…。人を殺し合う戦争は絶対にしてはならないと大声で叫びたいと思います。

今わが国では戦争を知らない世代が多くなっています。これは幸せなことというべきでありましょう。しかし戦争は知らなくても戦争の悲惨さを考えることのできる人であってほしい。戦争を起こさない人であってほしいと祈ります。おかげさまで今私はささやかながら平穏な日々を送っております。  合掌

4.ABC朝日放送「NEWSゆう」

平成17年(2005年)7月28日、宮本範子さんが甲子園会館で、ここで手術を受けたなどと説明するシーンを収録。ABC朝日放送「NEWSゆう」で放送されました。

高射砲の台座跡 尼崎市橘公園(尼崎市東七松町 尼崎市役所東隣)
高射砲の台座跡 尼崎市橘公園(尼崎市東七松町 尼崎市役所東隣)
戦時中は6基が配置されていたが、現在は2基が残っています

資料提供:西宮市総務課公文書・歴史資料チーム(豊田みか・住田未絵)

2021.11.26

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甲子園会館の秋2021 その1
桜紅葉(さくらもみじ)
桜紅葉(さくらもみじ)
南庭園の紅葉が進んでいます
南庭園の紅葉が進んでいます

日ごとに秋が進み、紅葉の季節となってきました。
甲子園会館の庭園では、ヤマボウシやカツラ、ハナミズキなどに続き、サクラの紅葉が見ごろになってきました。
イロハモミジやハゼも色づいてきました。いよいよ秋を演出する主役たちの登場です。

葉も実も赤く色づいたハナミズキ
葉も実も赤く色づいたハナミズキ
夜でも甘い香りで開花とわかるキンモクセイ 赤い実をつけたナンテン
夜でも甘い香りで開花とわかるキンモクセイ 赤い実をつけたナンテン

甘い香りを放っていたキンモクセイは瞬時に花を落とし、現在はカンツバキの赤い花が庭園の各所で見られます。次第に花を目にすることは少なくなり、果実類が多く見られるようになります。ナンテンの果実も赤く色づいてきました。

ペンタスに吸蜜に訪れたクロアゲハ
ペンタスに吸蜜に訪れたクロアゲハ
ペンタスの密を吸うチャバネセセリ キチョウ
ペンタスの密を吸うチャバネセセリ キチョウ
ハギの花に密を吸うため訪れたウラナミシジミ ハギの花に密を吸うため訪れたウラナミシジミ
ハギの花に密を吸うため訪れたウラナミシジミ
青紫の鮮やかな翅をもつムラサキシジミ ハギに翅を休めるヒメアカタテハ
青紫の鮮やかな翅をもつムラサキシジミ ハギに翅を休めるヒメアカタテハ

甲子園会館がある上甲子園キャンパスでは、結構多くのチョウを見ることができます。
甲子園会館1階テラスに置かれたフラワーポッド。ある秋の日、そこに植えられているペンタスの花にクロアゲハが吸蜜に訪れていました。夏の間、精一杯生き抜いてきたのでしょう。翅はボロボロになっていました。
秋に見られるのは、ほとんどが目立たない小さなチョウたちです。
ガと間違いそうなセセリチョウ。
ポピュラーなキチョウ。
しかし、シジミチョウは小さくても個性が光ります。
翅の裏に褐色と白色の細かい波模様があることから名づけられたウラナミシジミ。翅の表は青色です。
ムラサキシジミの翅の裏は薄い茶色。翅を閉じて止まっていると、その存在さえ消し去ったかのようです。翅を少し開くと、光沢のある青紫色に輝く翅の表が見え、思わずドキッとさせられます。
この季節、目立ちにくいチョウが多い中、ヒメアカタテハは存在感を示しています。シジミチョウよりも大きく、橙色の翅色は飛翔中も鮮やかです。

紅葉してきた南庭園
紅葉してきた南庭園

2021.11.22

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甲子園会館と戦争(海軍病院)
駆逐艦「櫻」の負傷者を収容 その2
開業時ごろに撮影したと思われる甲子園ホテル西翼の絵はがき
開業時ごろに撮影したと思われる甲子園ホテル西翼の絵はがき
現在では物理的に撮影が困難な西側側面の貴重な映像です
昭和19年には海軍病院として数奇な短い運命を辿ります

駆逐艦「櫻」の負傷者を収容 その1」で、同艦に乗り組んでいた艦長従兵・西部喜久市さんの証言を紹介しました。西部さんは、「櫻」が大阪湾で触雷沈没した際に右足を負傷し、大阪海軍病院に搬送され手術を受けています。駆逐艦「櫻」の行動や、沈没後救助された乗組員の処遇については、同艦の航海長であった桂理平大尉が著した「わが海戦記―囮部隊の空母瑞鳳と駆逐艦桜の最期―」(平成4年11月 霞出版社)に詳しく書かれています。

西部さんが証言した内容がより鮮明に理解できる記述となっていますので、関連部分を以下に紹介します。

(3)大阪湾掃海水道の警戒艦となり、任務中、触雷により無念の沈没

6月末、櫻は大阪警備府所属と決まった。損害部の修理を完了したので弾薬、食料を補充し、気力充実した乗組員を乗せて呉を出発、瀬戸内を東に向かった。明石海峡の掃海水道のD点にいた欅の側を挨拶をして通過した後、大阪築港に着いたのは7月4日であった。

夕方であったが築港に近づくと、大阪の空は黒い雲に覆われて薄暗く、神戸地区では晴天であったのに急に何事が起こっているのかと疑った。説明によると2、3日前からB-29の大空襲による焼夷弾攻撃で、市街が焼け野が原になった時の煙がまだ空に残っているのだという。前代未聞の大被害であった。

入港して港付近の無残な民家の焼跡とその残骸が山積した悲惨な姿を見た。東京も名古屋も同様な被害だろうと暗然たる気持ちになった。

さて、櫻は大阪湾の掃海水道の重要点B点に碇泊して、警戒の任に当たるべしと命ぜられた。警戒の任務とは、

①敵B-29による機雷投下(特に夜間が多い)を監視して投下位置を確認すること。
②通行する船舶に対して安全な航路を指導すること。
③自艦を攻撃する敵機はこれを撃墜せよ。

要するにサイパン方面からのB-29の大編隊による都市への焼夷弾攻撃の陰で、夜間に低空三千米位いで飛来して磁気機雷を投下し、海上交通特に物資輸送を途絶せしめんとする敵に対抗する作戦であった。

安全に航海できると思われる掃海水道が設定してあり、B点は大阪築港灯台と神戸港東灯台から共に約5.5マイル地点で、交通の重要な分岐点であった。既に明石海峡西口のD点の配備についている欅とは、互いに水平線の彼方に僅かに姿が見えるし、無線で連絡をとって協同作業を予定していた。

7月5日、櫻はB点の配置についた。
夜はB-29の独壇場で、大阪湾周辺の都市を焼夷弾攻撃をした。われわれは紅蓮の炎を発して燃えるのを目撃してもどうすることもできず、悲憤の思いに駆られた。和歌山、岸和田、堺、大阪、尼崎、神戸、明石の町々のどこかが毎夜やられた。業火の中で被災している同胞を思い涙なきを得なかった。
昼間は比較的平穏で、乗組員の士気を保つために、分隊対抗のカッター撓漕競争をしたこともあった。が、突然敵機P-51、P-38戦闘機が現われ(硫黄島から直接発進していた)銃撃を受け、慌てて中止したこともあった。

7月10日、大阪警備府の敵情報の分析によると、近日に機動部隊が紀伊半島に接近する公算が大で、阪神地区に敵空母機の大規模な空襲が予期されるので、各部隊は警戒を厳にしてこれに対応せよとの警報が発せられた。重大な情報である。

大阪湾の目抜き通りに碇泊している櫻と欅は、このままでは敵の第一目標となる。飛行機の援護がなければ、あの大和でもやられるご時勢である。一時避難する必要がある、と司令、艦長は決意した。

艦長は、避難先を友が島水道の東側の地点に決めたと思うと述懐しておられる。明日午前5時、現在地を出発することに決まった。

7月11日午前5時、「出港用意、錨を揚げ」の号令でラッパの音も勇ましく錨を揚げ始めた。操艦をする艦長は、磁気機雷を警戒して掃海水道からはみ出さないように、その場回頭をするために左右のスクリューの回転を反対にするよう命令した。艦首を予定進路に向けて両舷前進半速(9ノット)と号令した頃と思うが、その時、艦尾で大きな爆発音がして艦体が振動した。敵の投下していた磁気機雷に触れて爆発したのだ。

私は艦橋の直ぐ後ろにある海図机に頭を突っ込んで仕事をしていたが、振動のショックで右脇腹を机の角で強く打って失神してしまった。夢の中で遠くの方で「航海長! 航海長!」と呼ばれている感じで気がついた。現実には戻ったが呼吸をするのが苦しく、打った箇所が痛かった。信号員の武井上曹やその他の部下が背中を叩いて正気づかせてくれたのである。

正気づくと回復は早かった。若かったからだろう。あたりを見廻すと艦は左舷に約十度程傾いており、艦尾の内部で火災が起こっているらしく煙が出ているのが見えた。

艦長は先任将校に被害の状況を調査せよと命令したが、後甲板からの報告がない。改めて傍にいた水雷長に後部へ行き実情を調べて報告せよと命令した。

その後、2、3分過ぎた時、前回を数倍上廻る大爆発が後部で起きた。中央部にあった機銃台の後方以後は吹き飛んだように思えた。艦は益々左舷に傾いて行く。今回の艦体の振動は物凄かったが、私は固定物に摑まっていて無事であった。

爆発によって吹き飛んだ鉄片が艦橋の上段にある射撃指揮所や露天の旗甲板にばらばらと音を立てて落ちてきた。その付近の連中は大丈夫かなと心配する余裕があった。
が、艦が沈没直前という緊急の時に、急に司令と艦長の声がしなくなった。どうしたのかと周辺を捜すと、二人共、衝動により艦橋の側壁と羅針儀の台に衝突し、失神して坐り込んでおられる。

私はこれは大変だとばかりに、慌てて直ぐに近くの艦長の背中を強く叩いて怒鳴った。「艦長、しっかりして下さい!」同時に傍にいた隊付きの信号員井上兵曹に「お前も司令の背中をどやしつけて救助しろ。」と叫んでいた。

幸いに激しく背中を叩くことによって、意識が戻ってもらえた。だが、直ぐには体が自由には動かない。残っていた航海科員が協力して、殆んど真横まで傾斜していた艦橋の右舷の窓から二人を引き揚げて助けることができた。

司令も艦長も、横倒しになった櫻の現状を見て、沈没は間近だと判断した。

「総員、退去せよ、速やかに艦から離れよ。」と命令した。

然し、その時艦上に居たものは極めて僅かだった。1回目、2回目の爆発で海上に吹き飛ばされた者が多かったと思う。また、戦死された方々もこの時であったと思われる。艦橋付近に残っていた私達は、自ら海に入って櫻から離れた。後になっての推測だが、1回目の爆発は5時7分頃、2回目の誘爆(これは積載していた魚雷の火薬の誘爆であった)は5時20分頃と考えられる。

沈没地点はB地点をいくらも離れていなかったと思う。正式には大阪港中突堤灯台の256度5.6マイルと防衛研修所戦史室の資料に記録してある。

沈没の体験は二度目であったので、慣れた感じで浮かんでいる木材を集めて波間に漂った。服装は勿論そのままである。近くの者に集まれと呼びかけた。櫻は横転し艦底の赤腹を見せた後、ゆっくりと沈んだ。海の水深は20米位いなので直ぐ着底して、引き込まれる波は起きていない。六甲の山々の見えるところで、艦がやられて自分は波間に浮かんでいる。残念で仕方がなかった。

付近を航行していた民間の運搬船の船長が、遭難者を救おうという船乗りの友情を発揮して、勇敢に近寄って浮かんでいる人々を救助してくれた。生き残ったものは全てこの船に引き揚げられた。船の名前は照日丸といい、船長は鈴木倉吉さんで大変お世話になった。大分遅れてから大阪から救助の船が来て、負傷者や一部の者が乗り移って大阪港に向かった。照日丸も大阪に行ってくれた。厚くお礼を申し上げる次第である。

然し、この時乗組員312名の内、130名の尊い戦死者が出た。国のためとは云え、哀しみに堪えない。心より哀悼の意を表し御冥福を祈る次第である。

(4)残務整理を行う

救助された者全員は、大阪築港に運ばれた後、重傷者は直ぐに大阪海軍病院(西宮市の甲子園ホテルが徴用されていた)に収容され、軽傷者は大阪海兵団の病室に入った。残りの生存者は大阪市住吉区杉本町にあった大阪海兵団に運ばれたが、満杯であったので近所の遠里小野(おりおの)小学校が宿舎として提供された。

 

以上、「わが海戦記―囮部隊の空母瑞鳳と駆逐艦桜の最期―」から関連部分を引用しましたが、同書の巻頭に、元駆逐艦「櫻」艦長の卜部章二少佐が推薦の辞を寄せています。そこには「櫻」の沈没場所は神戸御影沖だと書いています。

駆逐艦「櫻」の負傷者を収容 その1」でしょうけい館のDVDを紹介しました。その中で、西部さんの気持ちが「艦長と共に共同訓練中の戦艦大和を訪ねたのが忘れられない思い出だ」と字幕に表現されていました。「わが海戦記」に、平成20年2月初め、「櫻」は柱島泊地に錨泊している戦艦「大和」に横付け。「大和」から「櫻」の砲術長に転任発令が出ている隠沢兵三大尉を卜部艦長自らが迎えに行くためだった旨の記載があります。おそらくこの時、西部さんは卜部艦長に従って大和に乗艦したのでしょう。

「わが海戦記」の記述から、昭和20年7月11日午前5時、「櫻」が御影沖の錨地を出港しようとしたのは、予期された米空母機の大規模な空襲から一時避難するためだったことが分かります。

「わが海戦記」の中に、「櫻」沈没のときの乗組員の状況が表になっています。表では、乗組員は312名で、生存者は182名、戦死者は130名。生存者の内、重傷者33名、軽傷者37名となっています。重傷者の内訳は、准士官以上1名、下士官、兵では第一分隊20名、第二分隊7名、第三分隊1名、第四分隊4名です。この重傷者33名全員が大阪海軍病院に収容されたのでしょうか。

また、「わが海戦記」に准士官以上の職名、官、氏名等が記載されていますが、司令豊嶋俊一大佐が大阪海軍病院入院とあります。当時「櫻」は第53駆逐隊の旗艦であったため、同隊の司令が乗艦していたのでしょう。准士官以上の重傷者1名は豊嶋司令を指しているものと思われます。

「わが海戦記」には、大阪海軍病院を説明するのに「西宮市の甲子園ホテルが徴用されていた」と括弧書きされていますが、甲子園ホテルの当時の所在は兵庫県武庫郡鳴尾村です。昭和26年4月1日、合併により西宮市となったものです。

海軍省は甲子園ホテルを収用し、昭和19年(1944年)6月15日、呉海軍病院大阪分院(普通収容数400名、最大収容数580名)を開設して患者の収容を開始。20年(1945年)3月1日には、大阪分院は大阪海軍病院として独立しました。

「呉海軍病院史」(平成18年10月1日 呉海軍病院史編集委員会編集発行)には、その間の昭和19年(1944年)12月5日に「呉海軍病院大阪分院ニ於ケル入院患者ノ一部ヲ日本赤十字社兵庫支部療養院ニ委託シ診療ヲ開始セリ呉海軍病院大阪分院須磨赤十字病院ト呼称ス」と沿革誌資料に記載されています。また、「須磨日赤、高松日赤、松山日赤は、戦災により焼失したという。」と書かれています。

⇒『甲子園会館と戦争(海軍病院)駆逐艦「櫻」の負傷者を収容 その1』はこちら

2021.11.04

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さらに豪華に!
今年もやります「BIGまつぼっくり」プレゼント
「甲子園会館まつぼっくりアート展」開催のお知らせ

昨年ご好評をいただいた「BIGまつぼっくり」プレゼント。
今年もやります、内容も規模もさらに充実して。

甲子園会館(旧甲子園ホテル)の東翼のそばに、ダイオウショウ(大王松、ダイオウマツともいう)という北アメリカ原産の松が一本生えています。戦前のホテル時代からあったもので、高さは4階の屋根を越えています。英名はlongleaf pine(長い葉の松)というように、3本が一組となった葉(三針葉)は長さが40cmになることもあります。

ダイオウショウの松ぼっくりは、長さが20cm以上にもなる「BIGまつぼっくり」です。オーナメントとして、フラワーアレンジメントや工作によく使われます。特に今の季節には、クリスマスツリーやリースに引っ張りだこです。

昨年は、この「BIG まつぼっくり」を先着100名の方に差し上げる(一人1個)と広報したところ、大変な好評を博しました。今年は、「BIGまつぼっくり」のほか、クロマツ(黒松)の松ぼっくり、シダーローズ、フウの実、センニチコウ(千日紅)のドライフラワー、シリカ水500mlをセットにして先着200名様に差し上げます(一人1セット)。

お一人につきこのパッケージとシリカ水(500ml)1本をお渡しします

お一人につきこのパッケージとシリカ水(500ml)1本をお渡しします

「BIG まつぼっくり」などを使った自慢の作品は、ぜひInstagram「甲子園会館まつぼっくりアート展」に投稿してください。

プレゼントの内容は次のとおりです。

①「BIGまつぼっくり」 1個

「BIGまつぼっくり」の説明は上に書いたところですが、次のことにご注意ください。

  • 松ぼっくりは自然の物のため、大きさや形状にはバラつきがあることをご了承ください。
  • 松ぼっくりは殺虫剤で処理をしていますが、異物などが残っている場合があるかもしれません。
  • 松ぼっくりにはトゲがありますので、けがをしないようご注意ください。
②クロマツ(黒松)の松ぼっくり 1個

甲子園会館に生えているクロマツ(黒松)の松ぼっくりです。「BIGまつぼっくり」との大きさの違いに注目ください。

ダイオウショウとクロマツの松ぼっくり 大きさにこれだけ差があります

ダイオウショウとクロマツの松ぼっくり 大きさにこれだけ差があります

③シダーローズ 1個

ヒマラヤスギ(杉)の実(球果)の先端部分です。バラの花のような形をしていることから「シダーローズ(Cedar rose)」(杉のバラ)と呼ばれています。甲子園会館の正門には象徴的な2本のヒマラヤスギがあり、会館内部にも植わっています。秋になるとそこからシダーローズは落ちてきます。しかし、放っておくとバラバラになるので、接着剤で固めるなどバラの形状を保つのに手間を要します。

手芸材料として人気のシダーローズ

手芸材料として人気のシダーローズ

④フウの実 2個

高さ20メートルにもなるフウは、秋に褐色でトゲのある球状の果実が成熟します。甲子園会館にはフウの木はありませんが、甲子園会館の緑地を管理している阪神園芸㈱から提供を受けたものです。

フウの実

フウの実

⑤センニチコウ(千日紅)のドライフラワー 1束(8個程度)

武庫川女子大学建築学部景観建築学科では、学習の一環として、園芸スタジオで様々な植物を栽培しており、センニチコウもその中の一つです。学生が育てた花をドライフラワーにしたものです。

センニチコウのドライフラワー

センニチコウのドライフラワー
8個程度を1束にしてプレゼントします

⑥シリカ水(500ml) 1本

「さひめの泉」を使用した武庫川女子大学オリジナルボトルウォーター(500ml)。水溶性シリカを1ℓに70㎎含むまろやかで飲みやすい硬度19の超軟水です。
武庫川学院が1本100円(税込)で販売しています。別途購入ご希望の方は、事業部売店(0798-45-9910)へお問い合わせください。

「BIGまつぼっくり」セットの申込み、お渡し要領は次のとおりです。

申込みフォームhttps://forms.gle/mw2c8hkhdA5vHANc9
申込み期間11月1日(月)から(予定数に達したときに終了します)
お渡し期間11月25日(木)~12月10日(金)
お渡し方法原則、甲子園会館へ取りにお越しください。
甲子園会館
まつぼっくりアート展
お渡しした「BIGまつぼっくり」等でつくった力作を#甲子園会館、
#甲子園会館まつぼっくりアートをつけてぜひInstagramに投稿してください。
問合せ先武庫川女子大学甲子園会館庶務課 0798-67-0079

2021.10.28

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武庫川女子大学甲子園会館の360度映像を「にしのみや市民祭り」の特設ホームページで見ることができます
甲子園会館南庭園に据えられた360度カメラ
甲子園会館南庭園に据えられた360度カメラ

「にしのみや市民祭り」は、昭和48年(1973年)9月に第1回が行われ、令和3年(2021年)度で第46回となりました。

昨年は10月24日に予定されていましたが、新型コロナウイルス感染拡大により中止。
本年10月23日開催の市民祭りは、新型コロナウイルス対策のため屋外行事を取りやめ、初めてオンラインによる開催となりました。
10月23日には、アミティ・ベイコムホールから各種ステージイベントの様子がインターネットで動画配信され、来年3月31日までYouTubeで視聴可能です。

にしのみや市民祭りのオンライン用特設ホームページにはいくつかのコンテンツが用意されており、その一つである「みやたんオンラインクイズツアー」は、西宮市キャラクターの「みやたん」が西宮市内の素敵なところ、普段は入れないレアなスポットを紹介するものです。
このスポットとして、丸山貯水池と丸山浄水場(5分17秒)、西宮市役所第二庁舎(7分06秒)、西宮砲台(4分39秒)、西宮北口周辺(7分01秒)とともに、甲子園会館(3分05秒)が取り上げられています。

西宮砲台と甲子園会館の撮影には、360度カメラが使用されました。甲子園会館の撮影は、9月13日に行われ、北側玄関前広場、屋上、南庭園、西ホール(ホテル時代のバンケットホール)内部、1階にある泉水に360度カメラを据えて行われました。360度カメラの映像は、見る者に新鮮な印象を与え、画面を動かすことによってあらゆる角度からの眺めを楽しめることは今までにない驚きです。最後にみやたんから泉水にちなんだクイズが出題されます。クイズは、5か所のスポットから1問ずつ出題され、3問以上の正解者には抽選でプレゼントがもらえます。

ホームページhttps://www.nishinomiyashiminmatsuri.jp/online/quiz-tour/
コンテンツ名みやたんオンラインクイズツアー みやたんと甲子園会館に行こう!
公 開10月23日~来年3月31日まで
プレゼント応募期間来年1月7日まで

2021.10.27

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甲子園会館と戦争(海軍病院)
駆逐艦「櫻」の負傷者を収容 その1
開業時ごろに撮影したと思われる甲子園ホテルの絵はがき
開業時ごろに撮影したと思われる甲子園ホテルの絵はがき
しょうけい館のDVDの中で「甲子園ホテルを接収した海軍病院」として紹介されている

甲子園ホテルは、昭和5年(1930年)に開業してからわずか14年余りの昭和19年(1944年)、海軍省に収用され海軍病院になったといわれています。甲子園ホテルが海軍病院となった経緯について、「呉海軍病院史」(平成18年10月1日 呉海軍病院史編集委員会編集発行)には以下のように記載されています。

太平洋戦争の苛烈化にともなう後送患者の急増は、戦時期ということで遊休化しているホテル、旅館の接収による分院の開設を促すことになった。昭和19年6月15日には、兵庫県武庫郡鳴尾村の甲子園ホテルを接収し、呉海軍病院大阪分院(普通収容数400名、最大収容数580名)を開設し患者の収容を開始した。その後20年3月1日をもって、この大阪分院は大阪海軍病院として独立した。

商業登記簿によれば、株式会社甲子園ホテルは昭和5年(1930年)2月12日に設立し、昭和19年(1944年)6月28日株主総会の決議により解散となっています。不動産登記簿によれば、甲子園ホテルの土地・建物ともに昭和19年(1944年)7月5日売買により海軍省に所有権が移転しています。

この海軍病院時代については、現在の所有者である武庫川女子大学(学校法人武庫川学院)は、当時の関係者からの聞き取り等以外にはほとんど資料を所持していません。公表されている刊行物や関係されていた方のお話し等から、わずかに当時の様子をうかがい知るという状況です。
甲子園会館が保管しているDVDの中に、海軍病院時代の様子を垣間見ることができるものがあります。以下に紹介いたしましょう。

しょうけい館(戦傷病者史料館)という国の施設(博物館)が、東京都千代田区九段南にあります。厚生労働省が戦傷病者等の援護施策の一環として、戦傷病者等が体験した戦中・戦後の労苦を後世に語り継ぐ施設として、平成18年3月に開館したものです。戦傷病者とその家族等の労苦を知り、語り継ぐという趣旨から「承継」という言葉を館名にしています。
しょうけい館では、戦傷病者労苦継承事業としてオーラルヒストリー「戦傷病者の労苦を語り継ぐ」DVDを作成し、館内の証言映像シアターで上映するとともに、情報検索コーナーで自由に閲覧することもできます。平成21年度に制作された岐阜編2は次の内容となっています。

  1. 「受傷の痛み 優しきまなざし」大橋荘作・操さん(16分20秒)
  2. 「海軍看護兵 若き日の記憶」後藤誠次さん(14分34秒)
  3. 「再起奉公 痛みと葛藤を超えて」後藤隆雄さん(17分23秒)
  4. 「軍隊経験 その光と影」中川幹夫さん(21分10秒)
  5. 「支え合い ともに歩む」西部喜久市・良子さん(15分53秒)

2番と5番は海軍で、それ以外は陸軍で体験した戦傷病者の労苦について語られています。
2番の後藤誠次さんは、呉海軍病院、戦艦「伊勢」、上海、特設病院船「高砂丸」などでの看護兵としての思い出を語っておられます。

5番の「支え合い ともに歩む」は、平成21年11月19日に収録されたもので、西部喜久市さんが大阪海軍病院での手術や入院生活について語られています。その概要は大略次のようです(N:ナレーション)。

N乗り組んでいた駆逐艦が機雷に触れ、右足を負傷した西部喜久市さん。戦後、妻とともに洋裁店を経営。3人の子どもを育て店を大きくしてきた。その努力を支えたのは亡き戦友に対する感謝の気持ちである。西部さんは昭和18年8月に海軍に志願した。当時15歳だった。
西部そのころは、遊びは戦争ごっこで、学校を卒業したら兵隊さんになって国のため親のために尽くそうという、それが子供のころの一つの大きな望みでした。
N紀伊防衛隊の陸上勤務を経て、昭和19年9月、駆逐艦「櫻」に乗り組んだ。
(駆逐艦「櫻」の写真が写される)
西部とにかくフネに乗れるんや、乗組員になれるんや、いよいよ海軍の兵隊さんかということで、喜びがありましたね。機銃の何番かは忘れたが射手になって、それから艦長従兵。一番若手の方から割と可愛がられていた者がなったような気がしますね。ある程度機転が利かなければ従兵になれなかったとは思いますけれど。
字幕西部さんは「艦長従兵」に選ばれた
艦長と共に共同訓練中の戦艦大和を訪ねたのが忘れられない思い出だ
N「櫻」は、中国華南地方で兵員輸送の護衛を務めた後、大阪湾の掃海作業に当った。
西部機雷を落としてあるから、それを掃海。きょう通るルートはどうなっているかを監視して、それを連絡しておったのではないか。
N昭和20年7月11日、「櫻」は大阪湾で機雷に触れ沈没。西部さんは受傷する。早朝出港直後の出来事だった。
(沈没地点を示す地図が写される-沈没地点は、神戸港から南へわずかな距離であることが分かる)
字幕昭和20年7月11日 右下腿失肉弾片創、左下腿挫創
西部敵の潜水艦が来たのかなんか知らんが、とにかく出港ということになりまして、早朝、食事前だから5時なんぼか6時ころだか分からないが、出港ということになってエンジンを入れて艦が舵を切るか切らないうちに、機雷が下にあったようだから、それが後部の機関室の下で爆発した。ものすごい轟音とともに後ろの人は吹っ飛んだりなんかしたらしいですけど、私は艦長従兵でしたから、食事の準備をしたときに電気は消えるは、冷蔵庫はひっくり返るは。泡食って艦長の部屋まで行って、艦長が恩賜の短刀を持っておられたからそれを取ってこなあかんと頭にひらめいたが、行ったら真っ暗でわからなかった。ついにやられたかという感じでしたね。後で思ったのかもしれないけれど、機雷があるところを指図していたその張本人が、下に機雷があったなんて残念なことですけれど。中は真っ暗でしたし、艦長の部屋に行っても真っ暗でわからなかったから、甲板の方へ出て右往左往していたのでしょうけれども。
Nそのとき積んでいた弾薬が誘爆し、西部さんは右足に破片を受けた。
西部後ろの弾薬庫、高角砲とか機銃の弾に誘爆し、火がピピッと飛んだ。鉄板の破片が飛んだと思うが、そのときに足をやられたらしい。自分はケガしたと思わなかったが、歩こうと思ったら足の裏がペタペタと血で引っ付くんですよ。それで、アッやられたと思って見たら、血がカッと出とったのです。艦は、前の方は引っくり返って鎖を降ろしたのだが、赤い腹を出して、私は引っくり返る艦の横っ腹を走って、泳ぎに自信ありましたから海にドボンと飛び込んでちょっと泳いで艦から離れました。艦が沈むときに巻き込まれるというのは聞いてましたから、吸い込まれたらいかんということで離れました。泳いでいるときはみんな顔が油で、誰だか分らなかった。最後は誰かの音頭で海軍の軍歌を歌って泳いでました。私の目に二、三映ったのは、補充兵の人やったろうと思うんですけれど、目の前で沈んでいく人もおりました。ああ情けないな、助けてあげたいけどこちらも助けてあげる余力はあらへんし。
N2時間ほど漂流していたとき、運よく通りかかった船に救助された。
西部あれ民間の荷物運ぶかなんかしている船だったと思うんですけれど、それに助けられたということです。私は階段を歩いて、艦長の従兵だから身の回りの世話せなあかんと思ったけど、上がったらもう足が動けない。
(ズボンの右の裾をまくり、右足の傷跡を見せ、当時の負傷した様子を説明)
痛みはそんなにないんですよ。塩水だと血もおさまるらしい。
N西部さんは、甲子園ホテルを接収した海軍病院に収容されて2回の手術を受ける。
(甲子園会館が提供した甲子園ホテルの写真が写される-冒頭に掲出した絵はがき)
西部傷口を元に戻すようにしたのですけれど、血が溜まって…
(右足手術の様子を説明)
それが麻酔も何もせずに、看護婦さん4人か5人で抑えられとって切られて、痛かったと思うんですけれど若かったから辛抱しとったんですが。夏でしたから蚊帳を吊ってやっとったんですよ。
N神戸の空襲も次第に激しくなっていった。
西部初めの空襲のときは看護婦さんにおんぶしてもらって防空壕に入ったんですよ。私はそのころ70キロ近くあったから重かったので、看護婦さんに迷惑かけたらいかんからもういいと言って蚊帳の中で寝ていました。窓から、B-29飛んでるわいと。みんなは防空壕に入ったけれど、私はもうよろしいと言って。
N空襲を避けるために有馬温泉の療養所に転院した。
西部療養所の海軍さんは一番先に入るんやということで、有馬温泉はタオルがすぐに茶色になる泉質なんですよね。油が浮いているんですよ。それをみんなでワーと流して入ってましたね。まだまだ頑張っとるぞ、大和魂まだあるぞという感じで。
N西部さんはもう一度海軍に戻り戦うつもりだった。しかし8月15日の終戦を迎える。
昭和21年11月故郷に戻る。負傷した右足が2センチ短くなっていた。親戚のメッキ工場に勤めた。

西部さんは、立ってする仕事が体に合わず、メッキ工場を辞め昭和24年2月、21歳のときに洋服店に入りました。そこでしゃにむに仕事を覚え、一生懸命働きました。昭和30年1月に勤めていた洋裁店の娘だった良子さんと結婚。昭和40年独立。足のしびれ、冷えは続いたが、夫婦二人三脚でやってきました。
平成21年、82歳になって岐阜県傷痍軍人会の副会長を引き受けました。亡くなった戦友たちが後押ししてくれているという感謝の気持ちの表れでした。

西部喜久市さんの証言DVDから次のようなことが分かります。

  • 昭和20年(1945年)7月11日に大阪湾で触雷沈没した駆逐艦「櫻」の負傷者が大阪海軍病院に搬送されたこと。
  • 大阪海軍病院の病室に蚊帳が吊られていたこと。甲子園ホテルには建設当時から暖房設備は整っていたが、冷房設備は設けられていなかったと言われています。
  • 大阪海軍病院に防空壕が設置されていたこと。
  • 有馬温泉に療養所があったこと。

駆逐艦「櫻」は、戦時量産型として32隻が建造された「松」型駆逐艦(丁型駆逐艦)の13番艦です。日本海軍の艦名としては2代目。DVDの中で「櫻」として使われていた写真は初代(昭和7年除籍)の艦影であり、西部さんが乗り組んでいた艦とは異なります。
「櫻」は、横須賀海軍工廠で昭和19年(1944年)6月2日に起工。9月6日に進水し、11月25日に竣工しています。西部さんは9月に乗り組んだということなので、おそらく艤装員だったのでしょう。 「櫻」も含まれる「松」型駆逐艦の要目は、「造艦技術の全貌」(昭和27年7月 興洋社)等によれば次のとおりです。同型であっても個別の艦によって要目が若干異なる場合もあります。

基準排水量1,262トン
水線長98m
全幅9.35m
喫水3.3m
出力19,000馬力
速力27.8ノット
兵装12.7㎝高角砲:連装×1、単装×1
61㎝4連装魚雷発射管×1
25㎜機銃:3連装×4、単装×8

【資料協力 清水裕士氏】

2021.10.18

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武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)が三たび切手の図案に!
西宮の風景 ~西宮名所めぐり~の【切手デザイン】
西宮の風景 ~西宮名所めぐり~の【切手デザイン】

武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)の写真が切手の図案に採用されました。

西宮市と芦屋市の郵便局58局で販売するオリジナルフレーム切手「西宮の風景~西宮名所めぐり~」です。甲子園会館は、2016年の「西宮の景色」、2018年の「兵庫県政150周年記念 摂津の國」に続き3回目の登場となります。

甲子園会館のほか、「西宮砲台」「西宮神社」「カトリック夙川教会」「六角堂」「夙川の桜」「ニテコ池」「廣田神社」「関西学院大学」「甲山」の10景でシートが構成されています。84円の切手10枚を組み合わせたもので、販売価格は1シート1,330円(税込)。販売単位はシートであり、切手の一部分だけを切り離して買うことはできません。500シートの限定発売なので、売り切れないうちにお買い求めください。

名称西宮の風景~西宮名所めぐり~
販売開始日2021年10月18日(月)
販売部数500シート
販売箇所西宮市南部の郵便局46局と芦屋市の郵便局12局
※山口郵便局、西宮東山台郵便局、塩瀬郵便局では取り扱いません。
※簡易郵便局は除きます。
※日本郵便株式会社Webサイト「郵便局のネットショップ」でも10月25日(月)から取り扱いします(販売価格のほかに郵送料等が加算されます)。
シート構成1シート 84円切手×10枚
販売単位シート単位で販売
販売価格1シート1,330円(税込)
問合せ先日本郵便株式会社近畿支社 郵便・物流営業部(物販・広告ビジネス担当)
電話:(直通)06-6944-8157
甲子園口郵便局の風景印
甲子園口郵便局の風景印

関連して、平成28年12月12日の本ホームページでも取り上げましたが、甲子園口郵便局の風景印について再度紹介します。

甲子園会館と阪神甲子園球場が一つの図案の中に描かれた風景印で、甲子園口郵便局の窓口で平成11年8月2日より使用されています。

風景印は、正式名称を風景入通信日付印(ふうけいいりつうしんにっぷいん)といいます。風景印は、郵便局名、日付とともに局周辺の名所旧跡等にちなむ図柄が描かれた消印の一種です。窓口で郵便物へ風景印を押印し、相手方へそのまま差し出す引受消印のほか、切手を貼りつけた台紙等に押印してもらって持ち帰る記念押印も可能です。この場合、台紙等に貼る切手は現在63円分以上となっています。窓口へ行かずに郵便で押印依頼をし返送してもらうサービス「郵頼(ゆうらい)」と呼ばれる方法もあります。

詳しくは甲子園口郵便局へお問い合わせください。

■甲子園口郵便局
〒663-8113 西宮市甲子園口2丁目3-28 TEL 0798-65-9513

2021.10.15

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2021夏~初秋の甲子園会館
このような真夏らしい景観はあまり見られませんでした
このような真夏らしい景観はあまり見られませんでした
池の噴水が涼しさを感じさせてくれました
池の噴水が涼しさを感じさせてくれました

2021年の夏は雨や曇りの日が多く、写真の題材となるような入道雲の姿はあまり見かけませんでした。とは言うもののやはり夏は暑く、南庭園の池の噴水がしばし目に涼しさを届けてくれました。

景観建築スタジオ西館前のスイレン。水面に西館が写っています
景観建築スタジオ西館前のスイレン。水面に西館が写っています

上甲子園キャンパスの西端には景観建築スタジオ西館があります。建築学科2年生以上が学んでいる「建築スタジオ」と中庭を挟んで対面するように建てられています。今年の3月16日に竣工したもので、鉄筋コンクリート3階建ての西館は、景観建築学科2年生以上の校舎として使われています。西館の前には大きな水鉢が置かれ、スイレン(睡蓮)が華麗な花を咲かせていました。

林で見かけたアキアカネ(未熟型)
林で見かけたアキアカネ(未熟型)

池の傍の林では、アキアカネの未熟型が羽を休めていました。
クマゼミの声がいつの間にかツクツクボウシにかわり、やがて秋の虫へと引き継がれていきました。

東山のヒガンバナ ヤブラン
東山のヒガンバナ ヤブラン

9月になると、甲子園会館東側の東山ではヒガンバナ(彼岸花、別名・曼殊沙華)やヤブラン(藪蘭)が咲きました。

南庭園池の端のススキ
南庭園池の端のススキ
池の端ではハギも咲いています
池の端ではハギも咲いています
ススキの根元ではナンバンギセルが今年も咲きました
ススキの根元ではナンバンギセルが今年も咲きました

池の周りではススキ(芒、薄、別名・尾花)が花穂をつけ、ハギ(萩)が赤紫の可愛い花を咲かせています。ススキの根元には、今年もナンバンギセル(南蛮煙管)が赤紫の花を見せてくれました。
今年は季節の移ろいが早いようです。徐々に紅葉が始まり、やがて錦繍の秋を迎えます。日ごとに変わる自然の絶妙さに心がときめく時期はまもなくです。

2021.09.30

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武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)の画像を配信します
 -兵庫県阪神南県民センターのオープンミュージアムにオンライン参加
北正面から見た甲子園ホテル(現・甲子園会館)

北正面から見た甲子園ホテル(現・甲子園会館)

10月1日から、国の登録有形文化財・武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)の画像を2本、YouTubeで配信します。

①「甲子園ホテル 1930~1944」(6分41秒)

華やかだったあの頃、甲子園ホテル時代をご案内します。
https://youtu.be/ziyeRrOVgYg

甲子園ホテルは、昭和5年(1930年)に阪神電鉄により建てられた豪華リゾートホテル。当時は「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称され、阪神間の社交場としてにぎわいました。設計は遠藤新。近代建築の三大巨匠の一人に数えられる米人建築家フランク・ロイド・ライトの愛弟子です。帝国ホテルの支配人を経て甲子園ホテル初代支配人となった、当時ホテル界の第一人者と言われていた林愛作の理想に基づいて計画されたものです。

空から舞い降り、正面玄関の回転ドアを通って館内に。そこはモノトーンの世界。90年前の華やかな世界をしばし覗いてみましょう。

90年を経ても美しさを保ち続けているその歴史的建造物は、現在、武庫川女子大学建築学部の学び舎として、建築を学ぶ女子学生のこの上もない教材となっています。

南庭園越しに見た甲子園ホテル(現・甲子園会館)

南庭園越しに見た甲子園ホテル(現・甲子園会館)

②「庭園散策 甲子園会館」(4分32秒)

甲子園会館の四季を通じて美しい日本庭園を散策気分でご案内します。
https://youtu.be/rTZuuX_Ujyg

竹林を抜け、園路を通って、南庭園を散策します。サクラやモミジといった折々の花々に彩られた庭園は華やかですが、花色が少ない夏や冬もその季節でしか味わえない詩情にあふれています。夜の帳が包むころの甲子園会館もお薦めです。この庭園には、とてもふさわしい茶室が設えられています。「自妙庵」です。自妙庵の躙り口(にじりぐち)をくぐって、室内に入ります。ここからゆっくりと庭園を眺めることができます。
甲子園会館の建物と一体となって景観の中に溶け込んでいる庭園の魅力をお楽しみください。

兵庫県阪神南県民センターでは、10月1日(金)、2日(土)、3日(日)、阪神地域(尼崎市、西宮市、芦屋市、伊丹市、宝塚市、川西市、三田市、猪名川町)の美術館・博物館約35施設について、常設展を中心に期間中、無料開放する「阪神地域オープンミュージアム無料開放DAY」を開催します。甲子園会館は、コロナ禍により一般見学を休止している現況から、「オンラインミュージアム」としてこれに参加し、画像をYouTubeで配信するものです。

【オープンミュージアムについて】
オープンミュージアムは、阪神南県民センターにより「尼崎・西宮・芦屋オープンミュージアム無料開放DAY」として令和元年(2019年)10月5日(土)・6日(日)に初めて開催されました。尼崎市、西宮市、芦屋市の21の美術館・博物館を無料で体験できるというものです。甲子園会館では、従来から日時を決めて無料で見学会を催していましたが、皆さまに見ていただく機会が増える良いチャンスと思い、開放施設に加わりました。甲子園会館での無料開放DAYは10月5日(土)に実施し、81人が見学に訪れました。
令和2年(2020年)は、尼崎市、西宮市、芦屋市に加えて、阪神北地域である宝塚市・川西市・三田市・猪名川町までエリアを拡大し、10月2日(金)~4日(日)の3日間、「阪神地域オープンミュージアム無料開放DAY」として31施設で実施しました。甲子園会館は、コロナ禍により一般見学を休止している現況から、①「過去・現在・未来」(13分23秒)、②「建築の魅力」(16分08秒)、「春夏秋冬」(5分48秒)という3本の映像を作成し、「オンラインミュージアム」として無料開放DAYの3日間限定でYouTubeにより配信しました。

YouTubeでは次の映像も配信しています。
◎甲子園会館 桜2021
  https://youtu.be/qoN6Oej67vE
◎星に願いを@甲子園会館2021 七夕飾り付け作業風景
  https://youtu.be/S3-yevShpYQ

2021.09.28

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武庫川女子大学甲子園会館がテレビ東京系列「新美の巨人たち」に登場します
「新美の巨人たち」撮影風景
「新美の巨人たち」撮影風景

武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)が、9月18日(土)22:00~22:30に放送されるテレビ東京系列の「新美の巨人たち」で紹介されます。

この日のテーマは「フランク・ロイド・ライト「ヨドコウ迎賓館」兵庫」。

芦屋市にあるヨドコウ迎賓館(旧山邑太左衛門別邸)は、近代建築の三大巨匠の一人として有名なアメリカの建築家フランク・ロイド・ライト(1867~1959)がスケッチ(基本設計)し、高弟の遠藤新と南信が実施設計を行ったものです。国の重要文化財に指定され、世界遺産「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」の追加候補にも上がっています。ここには、訪れた者を魅了する様々な仕掛けが施されており、ライトと愛弟子・遠藤との子弟物語も興味深いものがあります。無類の建築好き女優・内田有紀さんがアートトラベラーとなって、ライト建築の秘密に迫っていきます。

武庫川女子大学甲子園会館の前身は、昭和5年に竣工・開業した甲子園ホテルです。設計は遠藤新、強度設計を南信が担当しています。竣工写真を送った遠藤に、ライトは返書の冒頭、「素晴らしい出来栄えです。」と賛辞を贈っています。

このように甲子園会館は、遠藤や南を介してヨドコウ迎賓館と深いつながりがあります。また、ライト式建築を代表する建物の一つと言われていることから、このたび取材があったものです。内田さんが、甲子園会館や遠藤についてどのように熱く語り、迫ってくれるか、どうぞ番組を楽しんでご覧ください。

■番組名  新美の巨人たち フランク・ロイド・ライト「ヨドコウ迎賓館」兵庫
■放送局  テレビ東京系列
■放送日時 9月18日(土)22:00~22:30

【再放送】
■放送局  BSテレ東
■放送日時 9月25日(土)24:00~24:30

甲子園会館の取材は、8月27日と28日の2日にわたって行われました。内田有紀さんが来られたのは27日でした。内田さんは、NHKの連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)「まんぷく」に出演されていました。「まんぷく」は、99作目の朝ドラで、平成30年(2018年)10月1日(月)から平成31年(2019年)3月30日(土)まで、151回にわたって放送されました。甲子園会館は、昭和10年代当時大阪で一番大きな「大阪東洋ホテル」という設定でロケ地となりました。第1週~第3週の18回の放送のうち、甲子園会館は13回にわたって画面に登場しています。ヒロイン今井福子(安藤サクラ)が、女学校卒業後電話交換手として初めて働く職場です。フロント係に抜擢され、立花萬平(長谷川博己)と運命的な出会いをし、やがてこのホテルで結婚式を挙げます。結婚式には、新郎新婦のほか、福子の母・鈴(松坂慶子)、次姉・香田克子(松下奈緒)、親友・鹿野敏子(松井玲奈)、萬平の友人・世良勝夫(桐谷健太)、歯科医の牧善之介(浜野謙太)などが出席しています。内田さんは、福子の長姉・咲という役柄でしたが、結婚式前に結核により家族に看取られながら息を引き取るというストーリーでした。というわけで、内田さんは、「まんぷく」では甲子園会館に来られていません。もし違ったシナリオであったなら甲子園会館に来られ、建築好きの内田さんは大いに喜ばれたことでしょう。

2021.09.15

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甲子園会館と高松宮 その5

高松宮は、昭和5年(1930年)4月23日、兄・昭和天皇の名代として14か月にわたる欧米諸国親善訪問の最初に、喜久子妃殿下とともに甲子園ホテルに宿泊されました。お二人は結婚から2か月を過ぎたところ、甲子園ホテルは竣工したばかりでした。高松宮は海軍中尉で満25歳。最後の征夷大将軍・徳川慶喜の孫である喜久子妃殿下は満18歳でした。

12年後の昭和17年(1942年)。海軍中佐で軍令部部員、37歳の高松宮は、9月27日と28日にも甲子園ホテルに宿泊されています。皇族の佐官として9日間の国内視察を行った途中に宿泊されたものです。名古屋で三菱航空機などを見た後、九州へ移動。昭和天皇の名代として、佐世保海軍工廠で挙行された軽巡洋艦「矢矧」の進水式に臨席。長崎県下の三菱造船所などを視察し神戸へ。9月27日に甲子園ホテルで宿泊し、翌28日、川西航空機鳴尾製作所、同社宝塚製作所、甲南製作所を訪れ、甲子園ホテルに戻って昼食。午後は、神戸の川崎重工業艦船工場、三菱造船、神戸製鋼所を視察して甲子園ホテルに戻り宿泊。翌日は大阪、和歌山を視察して夜行で東京へ戻るというハードな行程でした。

その約半年後の昭和18年(1943年)4月6日と7日にも2泊されています。海軍大佐で軍令部部員の高松宮は、38歳でした。愛知県や三重県の軍需工場などを視察して4月6日甲子園ホテルに到着。翌4月7日、神戸市の川崎重工業株式会社艦船工場へ。昭和天皇の名代として仮称艦名「第130号艦」(航空母艦「大鳳」)の進水式に臨席するためでした。川西機械製作所等を訪れた後、甲子園ホテルに帰着。翌4月8日は軍需工場などを視察して東京へ戻られています。

甲子園ホテルは、昭和19年(1944年)に海軍病院として収用。昭和20年(1945年)の終戦後に、アメリカ進駐軍の将校宿舎とクラブに使用されます。昭和32年(1957年)のアメリカ軍引き揚げ後は、国有財産として大蔵省の管理下に置かれます。昭和40年(1965年)11月15日に武庫川学院が譲り受け、改修。翌昭和41年(1966年)7月上旬に改修工事は竣工し、武庫川学院第三学舎甲子園会館としてホテル建築当初の姿を復元します。

そして、昭和55年(1980年)10月18日には、高松宮、同妃両殿下が甲子園会館に来られました。両殿下お揃いで甲子園会館(旧甲子園ホテル)に来られたのは、実に50年ぶりとなるのでしょう。そのときの様子を「武庫川学院五十年誌」(平成2年2月25日 武庫川学院発行)は次のように記しています。

高松宮、同妃両殿下もご来学
さきの三笠宮、同妃両殿下のご視察に続いて、昭和55年10月18日には高松宮、同妃両殿下が来学された。開創1,150年の甲山神呪寺奉讃会会長に公江学院長が推されて就任、予定以上に浄財が集まって見事な多宝塔が建立され、この落慶法要にご臨席されたのち、学院にお成りになったもの。公江記念講堂での歓迎式で、高松宮殿下は「創立以来42年の間、今日のこのようなすぐれた女子総合学園を築き上げられました公江学院長は、ずっと教壇に自ら立っておられたと承わっております。近来巷間いろいろと教育の荒廃について語られますが、ここでは、学校の伝統をふまえて、またそのうえ日本の歴史の伝統をよく心得られて、教師と生徒とともにその教え、学びに懸命に努めておられ、そうした憂いはないのだと信じます」とのお言葉を、一語一語諭すように述べられた。
このあと、記念庭園で「くすのき」の記念植樹、次いで中央体育館へ向かわれ、温水プールでの水泳、三階道場での剣道、少林寺拳法をご覧になった。このあと第二学舎グラウンドでは中三生徒400人がダンス「武庫川学院愛唱歌」を、中学高校校友会体育部400人がマスゲーム「躍動」をご覧に入れ、第三学舎では由緒あるライト式建築や、展示名画の数々をご覧になった。

※「さきの三笠宮、同妃両殿下のご視察に続いて」というのは、昭和53年(1978年)7月26日、武庫川女子大学体育館を主会場として開かれた第13回全国私立短期大学体育大会に三笠宮、同妃両殿下が来臨されたことをいいます。また、当時、現在の中央キャンパスを第一学舎、南甲子園キャンパスを第二学舎、上甲子園キャンパスを第三学舎と呼んでいました。

株式会社川崎造船所艦船工場の絵はがき
株式会社川崎造船所艦船工場の絵はがき
海軍の佐官であった高松宮はこの門を通って中へ入られたのであろう

⇒『甲子園会館と高松宮 補遺 その3』はこちら
⇒『甲子園会館と高松宮 その4』はこちら
⇒『甲子園会館と高松宮 その3』はこちら
⇒『甲子園会館と高松宮 補遺 その2』はこちら
⇒『甲子園会館と高松宮 補遺』はこちら
⇒『甲子園会館と高松宮 その2』はこちら
⇒『甲子園会館と高松宮 その1』はこちら

2021.09.02

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梅雨の甲子園会館2021
雨に煙る南庭園の池
雨に煙る南庭園の池
テラスへの東側階段付近
テラスへの東側階段付近。雨に濡れた日華石に同じく日華石の列柱が写っている

5月16日に近畿地方が梅雨入りしたと見られると気象庁が発表しました。これは平年より21日早く、昨年より25日も早いもので、同庁が昭和26年(1951年)に統計を開始して以来最も早い入梅となりました。
梅雨明けは平年より2日、昨年より15日早い7月17日となり、62日間の長い梅雨となってしまいました。統計開始以来最も長い梅雨の期間ということです。

タイサンボク(泰山木)の見事な花。
タイサンボク(泰山木)の見事な花
高木であり、写真が撮りやすい低いところにはあまり咲いてくれません
八重のクチナシ(梔子)
八重のクチナシ(梔子)
一重のクチナシ(梔子)
一重のクチナシ(梔子)

この長い梅雨の期間、甲子園会館の庭園では、植物の生育をはじめ自然の移ろいが心をときめかせてくれました。タイサンボク(泰山木)の白く大きな花はひと際目を引きました。 やはり白い花のクチナシ(梔子)は、一重咲きと八重咲きがあり、いずれもが目を楽しませてくれるとともに、辺り一面に甘い香りを漂わせていました。

ヒメシャラ(姫沙羅)
ヒメシャラ(姫沙羅)
アジサイ(紫陽花)
アジサイ(紫陽花)
アカンサス
アカンサス
葉型の美しさから装飾のモチーフとしてしばしば用いられてきました

甲子園会館の東側にある「東山」では、ヒメシャラ(姫沙羅)の小さくて可憐な白い花が静かに咲いていました。
東山ではギリシャの国花であるアカンサスも咲きました。アザミに似た象徴的な美しい葉型は、古代ギリシャ以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされてきました。
梅雨の季節にふさわしい花といえば、アジサイ(紫陽花)を挙げる人が多くおられることでしょう。そのアジサイも東山で咲いていました。

和風庭園によく似合うハナショウブ(花菖蒲)
和風庭園によく似合うハナショウブ(花菖蒲)
ハナショウブ(花菖蒲)で羽を休めるシオカラトンボ ショウジョウトンボ
ハナショウブ(花菖蒲)で羽を休めるシオカラトンボ ショウジョウトンボ
産卵中のキイトトンボ アオモンイトトンボ
産卵中のキイトトンボ アオモンイトトンボ

池の縁では、ハナショウブ(花菖蒲)が和風庭園の景観にしっとりと溶け込んでいました。
池には、ギンヤンマをはじめシオカラトンボやイトトンボなどが飛び交い、産卵をしていました。

青もみじ
青もみじ
イロハモミジの果実(翼果)
イロハモミジの果実(翼果)
コデマリ(小手毬)に産卵しようとしているホシミスジ
コデマリ(小手毬)に産卵しようとしているホシミスジ

庭園の木々は緑一色。イロハモミジも「青もみじ」状態となり、葉の間にはプロペラ型をしたピンク色の小さな果実(翼果)をつけています。果実が熟すと、プロペラは風を捉えて舞い上がり、降りたところで芽を出すことでしょう。
イロハモミジなどの梢上では、タテハチョウ科のホシミスジが軽快に滑空していました。
7月に入って、雨が降っていない朝夕にクマゼミが鳴き始めました。梅雨が明けていよいよ夏の到来。クマゼミの大合唱が聞かれることでしょう。

2021.07.19

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たくさんの願い事をWebでお送りいただきました -星に願いを@甲子園会館2021
星に願いを@甲子園会館2021
星に願いを@甲子園会館2021

武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)では、「星に願いを@甲子園会館2021」と題して、七夕の笹飾りに託す願い事をWebで募集していました。5月31日に募集を開始し7月5日に締め切ったところ、約150の願い事が寄せられました。お送りいただいた皆様の願いは、短冊に出力し、高さ5mを含む3本の笹に飾りました。願いを印字した短冊は、甲子園会館の立面図とホテル時代のシンボルであった「打出の小槌」をあしらったオリジナルです。Web以外にも手書きの短冊が70ほど届けられました。笹には短冊の他、甲子園会館の職員が手作りした200個を超える飾りも一緒に結び付けました。疾病よけの「アマビエ」や「打出の小槌」、甲子園会館の建物全体に施されている「水珠(みずたま)」をモチーフにした飾りも吊るし、新型コロナウイルス感染症の一日も早い収束と皆様の幸せを星に祈りました。飾り付けは、甲子園会館で働いている皆さんや建築学科1年生の力をお借りして行ったものです。

笹に飾り付けを行う建築学科1年生
笹に飾り付けを行う建築学科1年生

皆様から寄せられた願い事では、「みんながマスクを外して大声で笑いあえる日が来ますように」や「みんなを呼んで結婚式ができますように」といったコロナ禍との決別を願うものが多くありました。「80歳になっても楽しくゴルフが出来ますように」といった74歳のじいじさんや「毛髪よ、よみがえれ! 毛根よ、永遠なれ!」という甘辛しゃんからの願いも寄せられました。また、「オンラインばかりもう嫌です みんなと普通に過ごしたい」という、学生さんからでしょうか、切実な願望も送られてきました。

飾り付けを手伝ってくれた建築学科1年生
飾り付けを手伝ってくれた建築学科1年生

6月24日には、ケーブルテレビ・ベイコムが取材に訪れ、6月25日~7月1日の各日、番組「チームベイコム」の中で1日3回にわたって繰り返し放送されました。放送では、レポーターの前田るりさんが、「あかん! このままやったらタイガース優勝してまう。毎晩祝い酒でアル中になりそうや。勝率六割程度にとどめてくれるよう星に願います。」というトラ親爺さんからの願いや、前田さん自身が短冊に手書きした「愛犬の大きな寝言のボリュームが下がりますように」という可愛い願いも披露されました。「チームベイコム」に出演している原田昌子さんの「大好きな旅行に気兼ねなく行けますように」や井之上チャルさんからの「マスクを外した笑顔が見れますように」という短冊も紹介されました。

6月24日「チームベイコム」の取材がありました。レポーターは前田るりさん
6月24日「チームベイコム」の取材がありました。レポーターは前田るりさん

甲子園会館では、平成28年(2016年)から毎年7月に、「七夕の夕べ」として七夕にちなんだ特別見学会を夕方に開催してきました。甲子園会館を約90分間ガイドが案内し、西ホール(甲子園ホテル時代の大宴会場)で夕食を召し上がっていただいた後、大学筝曲部の琴の演奏をお楽しみいただく。そして、職員手作りのランタンが灯った幻想的な庭園を散歩しながら帰路についていただくという、とても人気のメニューでした。見学会の一環として笹を飾り、見学者に願い事を短冊に書いて笹に付けていただいていました。しかし、昨年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で、見学会を開催できませんでした。そこで、「星に願いを@甲子園会館」として、七夕飾りの短冊への願い事だけをWebで募集しました。
今年はコロナ禍が収束し、「夏のチャリティー特別見学会」を再開できるものと職員一同期待していましたが、残念ながら断念せざるを得ない状況でした。
そこで、昨年に続いて「星に願いを@甲子園会館2021」を実施したもので、来年こそは見学会を開催できるよう星に祈りました。

なお、飾り付け作業をYouTubeで配信しています。

YouTubeはこちら⇒https://youtu.be/S3-yevShpYQ

2021.07.07

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ケーブルテレビ・ベイコムで「星に願いを@甲子園会館2021」が放映されています

ベイ・コミュニケーションズが運営するケーブルテレビ「ベイコム11ch」の番組「チームベイコム」の中で、「星に願いを@甲子園会館2021」のレポートが放映されています。

ベイコムの取材
ベイコムの取材が6月24日にありました。
レポーターの前田るりさんが、短冊に自筆した「愛犬の大きな寝言のボリュームが下がりますように」という願い事を披露しました。

甲子園会館での七夕の笹飾りは、「夏のチャリティ特別見学会」とあわせて実施していた恒例行事ですが、コロナ禍で昨年は見学会が実施できませんでした。そこで「星に願いを@甲子園会館」と題して、願い事をWebで募集。寄せられた願いを甲子園会館職員が短冊に出力し、職員手作りのアマビエなどの飾りとともに笹に付けました。そして、皆様の願いが実現するとともに、新型コロナウイルス感染症が一日も早く収束するよう星に願いました。

しかし、コロナ禍は今年も収束せず、昨年に続き「星に願いを@甲子園会館」を開催することになりました。
笹には、アマビエのほかに、甲子園会館の前身である甲子園ホテルのシンボルであった「打出の小槌」や甲子園会館の建物全体に施されている「水珠」をモチーフにした飾りも一緒に吊るします。 「打出の小槌」は富をもたらす象徴です。甲子園ホテルの設計者・遠藤新は、「打出の小槌」を振ることによって出てくる富や幸せが「水珠」となって建物全体を包み込む、というイメージをおそらく抱いていたのではないでしょうか。

「星に願いを@甲子園会館2021」では、5月31日に甲子園会館ホームページで願い事の募集を始めました。ベイコムの取材は6月24日。これまでに寄せられている願い事を2本の笹に飾り、前田るりさんがレポートしました。100以上の短冊の中から、「あかん! このままやったらタイガース優勝してまう。……」というトラ親爺さんからの願い事を紹介。前田さん自身が短冊に手書きした「愛犬の大きな寝言のボリュームが下がりますように」という可愛い願いも披露されました。「チームベイコム」に出演している原田昌子さんの「大好きな旅行に気兼ねなく行けますように」や井之上チャルさんからの「マスクを外した笑顔が見れますように」という願いの紹介などもあり、無事に撮影を終了しました。

放送日時とチャンネルは次の通りです。

【放送日時】 6月25日(金)~7月1日(木)

       各日6:00~/12:00~/23:00~

【番組名】 「チームベイコム」

【放送チャンネル】Baycom11ch

願い事の応募は次の通りです。

■応募フォーム:https://forms.gle/nFCDUf1DANa9gaFcA

■申込み締切り:7月5日(月)

■ホームページ公開:7月7日(水)

暑い季節、切った笹の葉は2~3日経つと枯れてしまいます。そこで、7月5日の応募締め切り後に再度新鮮な笹を切り、短冊や飾りを結び付け、7月7日(水)にこのホームページで公開します。どうぞ、ご期待ください。

2021.06.25

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七夕の短冊に記すあなたの願いを甲子園会館へお寄せください
今年も実施します 「星に願いを@甲子園会館2021」
昨年の「星に願いを@甲子園会館」の笹飾り
昨年の「星に願いを@甲子園会館」の笹飾り

あなたの願いを下記の応募フォームから甲子園会館へお送りください。甲子園会館職員が短冊に出力し、あなたの代わりに笹に飾り付けます。

笹には「アマビエ」のほか、「打出の小槌」や「水珠」をモチーフにした飾り等も一緒に吊るします。「打出の小槌」は、甲子園会館の前身である甲子園ホテルのシンボルであり、建物の各所でその意匠を目にすることができます。「水珠」文様は、甲子園会館の建物全体に施されています。「打出の小槌」は冨をもたらす象徴であり、「打出の小槌」から振り出された富や幸せが「水珠」となって甲子園会館全体を覆い包む、というイメージを甲子園ホテルの設計者である遠藤新はおそらく抱いていたのでしょう。

あなたの願い事を記した短冊を笹に飾ることにより、コロナ禍の憂鬱な気分を吹き飛ばし、幸せを星に祈ろうではありませんか。短冊の上端には「打出の小槌」、下端には甲子園会館の北立面をデザインしています。

飾り付けた映像はホームページで報告しますので、楽しみにお待ちください。

■応募フォーム:https://forms.gle/nFCDUf1DANa9gaFcA

■申込み締切り:7月5日(月)

■ホームページ公開:7月7日(水)

短冊は「打出の小槌」と甲子園会館の北立面をデザインした特製品です
短冊は「打出の小槌」と甲子園会館の北立面をデザインした特製品です
飾りの一例です。「アマビエ」のほか、「打出の小槌」や「水珠」をモチーフにした飾りも用意します。
飾りの一例です。「アマビエ」のほか、「打出の小槌」や「水珠」をモチーフにした飾りも用意します。
甲子園会館の頂にはそれぞれの棟飾り 甲子園会館の頂にはそれぞれの棟飾り
甲子園会館の10ヶ所の屋根の頂にはそれぞれ棟飾りが置かれ、一つの棟飾りには「お宝尽くし」模様の8つの「打出の小槌」が取り付けられています。「打出の小槌」から振り出された富や幸せが「水珠」となって屋根を滑り落ち、建物全体を包み込むというイメージなのでしょう

2021.05.31

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甲子園会館の春2021 その6
ヤマボウシ(山法師)
ヤマボウシ(山法師)
4枚の大型で白色の花弁のように見えるのは総苞片。真ん中に小さく集合しているのが花(花序)です
コデマリ(小手毬)
コデマリ(小手毬)
小さな手毬のように見えることが名前の由来となっています

サクラやハナミズキ、ツツジといった春をまさに体現するような花たちは姿を消しました。しかし、その後も甲子園会館の庭園では、次々と各種の花々がその存在をアピールしています。エゴノキ、コデマリ(小手毬)、トベラ(扉)、シャリンバイ(車輪梅)、ヤマボウシ(山法師)、ガマズミ、センダン(栴檀)、ウツギ(空木)、などなどです。

トベラ
トベラ
臭気を発することからヒイラギの代わりに厄除けに使われます。大晦日や節分に、イワシの頭などを枝に刺して魔除けとして家の扉に挟んだという伝統行事から、トビラの木→トベラと名付けられたと言われています
エゴノキ
エゴノキ
果実を食べると苦味が強く、喉を刺激してえぐい(えごい)ことからその名が付けられたと言われています
センダン(栴檀)
センダン(栴檀)
高い梢上に紫色の小さな花が咲いています。センダンの古名の一つ、「あふち」は「淡い藤」から。「栴檀は双葉より芳し」という故事がありますが、センダンの枝葉に香りはありません。故事にある栴檀は中国名であり、日本で言うビャクダン(白檀)のことです
シャリンバイ(車輪梅) ガマズミ
シャリンバイ(車輪梅) ガマズミ

花だけではありません。冬にすっかり葉を落としていた落葉樹もほぼ一斉に芽吹き、日ごとに成長を遂げて、今では新緑に萌えたっています。イロハモミジも「青もみじ」状態となり、葉の間にはピンク色の小さな「翼果」(実)が見えます。この季節、ウメやサクラ、ヒイラギナンテンなど多くの植物でも実をつけています。

イロハモミジの翼果(実)
イロハモミジの翼果(実)
ダイオウショウ(大王松)
ダイオウショウ(大王松)が新芽を伸ばしています
ヒイラギナンテン
ヒイラギナンテンが実をつけています
ウメの青い実 サクラの実
ウメの青い実 サクラの実

⇒『甲子園会館の春2021 その5 春は駆け足で』はこちら
⇒『甲子園会館の春2021 その4 サクラが満開です』はこちら
⇒『甲子園会館の春2021 その3』はこちら
⇒『甲子園会館の春2021 その2』はこちら
⇒『甲子園会館の春2021 その1』はこちら

2021.05.21

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甲子園会館を取り上げた本が出版されます
幻想と異世界への扉 産業遺産

著者=黒沢永紀・前畑洋平
昭文社 2021年5月15日発行
定価1,760円(本体1,600円+税10%)

この本では、平成19年(2007年)に経済産業省が選定した「近代化産業遺産群33」を基準に、幕末から第二次世界大戦前までの日本の近代化に大きな役割を果たした産業遺産の中から、一般の見学が可能な162件について写真を中心にまとめられています。01赤煉瓦、02港湾開発、03観光、04食品加工、05造船、06製鉄・製鋼、07炭鉱・油田、08大鉱山、09鉱山、10水力発電の10に分類して編集されています。甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)は、03観光に分類されており、他にはホテルニューグランド、奈良ホテル、奈良駅舎、六甲ケーブル山上駅、帝国ホテル、小浜鉄道が取り上げられています。

甲子園ホテルは4ページにわたって紹介されており、5枚の写真が掲載されています。南側から見た外観、塔屋、大食堂(現・建築学科1年生の学びの場であるスタジオ1)上部壁面の装飾、レセプションルーム(現・ラウンジ)のシャンデリア、バー(現・談話室兼アートショップ)の床面に張られたタイルの5枚です。

2021.05.11

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甲子園会館の春2021 その5 春は駆け足で
ソメイヨシノより少し遅れてシダレザクラが咲きました
ソメイヨシノより少し遅れてシダレザクラが咲きました
ハナミズキの白い花が青空に映えていました
ハナミズキの白い花が青空に映えていました

3月の気温が高かったからでしょう、サクラの開花は全国的に平年より1週間ほど早かったようです。甲子園会館のサクラも、種類や場所によって違いはありますが、3月19日頃に開花し、4月1日頃には満開を迎えていました。そして、せかされたように舞い散っていきました。

サクラより若干時期をずらして、シダレザクラやハナミズキの花も妍を競っていました。

レンギョウ カリン
レンギョウ カリン
シモクレン ハナズオウ
シモクレン ハナズオウ

サクラやハナミズキだけではありません。甲子園会館の庭園ではレンギョウ(連翹)の黄色い花、サクラに似たカリン(花梨)の可愛い花、シモクレン(紫木蓮)、ハナズオウ(花蘇芳)などが咲き誇っていました。

シャガ
シャガ
ハナニラ 後ろの建物が景観建築スタジオ東館 フッキソウ
ハナニラ 後ろの建物が景観建築スタジオ東館 フッキソウ

甲子園会館の東側に「東山」と呼んでいるこんもりとした森があります。武庫川の支流であった枝川の堤防の名残りです。この東山の北側に「景観建築スタジオ東館」が昨年12月15日に竣工しました。昨年4月に開設した建築学部景観建築学科と大学院建築学研究科景観建築学専攻の新校舎です。この東館には、並んで建っている甲子園会館(旧甲子園ホテル)の意匠を随所に取り入れています。外壁や内装にボーダータイルや装飾タイルを用いて統一感を出し、打出の小槌やしずくのモチーフを効果的に使用しています。また、取り外されていたホテル時代の庇の一部を玄関の内庇に再利用。甲子園ホテルで使用していた照明の実物やレプリカを取り入れています。装飾タイルは学びの一環として学生が1年がかりで約7千枚を制作したものです。そして、東山は景観建築学科の演習の場となるよう、既存の樹木の剪定や新たな樹木の植栽などの整備を行いました。この東山には、シャガ(射干)やハナニラ(花韮)、フッキソウ(富貴草)が咲いていました。

ツツジとクスノキなどの若葉の対比が鮮やかです
ツツジとクスノキなどの若葉の対比が鮮やかです
新緑に覆われた南庭園
新緑に覆われた南庭園

やがて、庭園各所は赤やピンクや白のツツジ(躑躅)の花で賑やかになり、待ちかねたようにアゲハ蝶(ナミアゲハ)やモンシロチョウ、ミツバチやクマバチが早速蜜を吸いに訪れていました。
冬の間に葉を落とし、見通しがよくなっていた落葉樹も、若葉が芽を出し目が覚めるような新緑に覆われました。ウメの木は青い実をつけています。
4月も後半になると、池に2羽のカルガモがやってきました。連れ添って泳ぎまわる姿は微笑ましいものがあります。

南庭園の池にやってきたカルガモ
南庭園の池にやってきたカルガモ

⇒『甲子園会館の春2021 その4 サクラが満開です』はこちら
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⇒『甲子園会館の春2021 その2』はこちら
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2021.04.23

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「甲子園会館 桜2021」動画をYouTubeで配信します

桜の季節は終わりましたが、今年も甲子園会館の桜は美しい花を咲かせました。
皆さまにご見学いただくことはできませんでしたが、動画でお楽しみください。

2021.04.16

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甲子園会館と高松宮 補遺 その3
戦前の川崎造船所の絵はがき 戦前の川崎造船所の絵はがき
戦前の川崎造船所の絵はがき
株式会社川崎造船所は、昭和14年(1939年)12月1日に川崎重工業株式会社に商号を変更しています。ここで航空母艦「大鳳」が建造されました。
高松宮は昭和18年(1943年)4月7日の進水式に昭和天皇の名代として臨席、その前後に甲子園ホテルに宿泊しています。昭和19年(1944年)1月20日にも「大鳳」の見学に川崎重工業に来られています。

高松宮宜仁親王は、昭和5年(1930年)4月23日、結婚して間もない喜久子妃殿下とともに竣工直後の甲子園ホテルに宿泊されました。兄・昭和天皇の名代として14か月にわたる欧米諸国親善訪問の最初に宿泊されたものです。

高松宮は、12年後の昭和17年(1942年)9月27日と28日にも宿泊されています。

その約半年後の昭和18年(1943年)4月6日と7日にも2泊されました。当時、高松宮は軍令部部員で海軍大佐でした。昭和天皇の名代として、4月7日(水)08:30に神戸の川崎重工業株式会社で挙行された仮称艦名「第130号艦」(航空母艦「大鳳」)の進水式に臨席するためでした。高松宮が「大鳳」に関心を示されていることは「高松宮日記 第七巻」(1997年7月 中央公論社)でもうかがえます。この第七巻は昭和18年(1943年)10月~昭和19年(1944年)12月の出来事を記したものです。

高松宮は、昭和19年(1944年)1月18日午後に品川を出発。翌19日08:05、呉駅着。水交社で朝食を済ませ、09:15~11:15呉海軍工廠へ。同工廠で行われた航空母艦「葛城」の進水式に、昭和天皇の名代として11:30~11:55臨席。昼食は、呉鎮守府司令長官・野村直邦中将による招宴。食後、呉鎮守府軍医長・福井信立軍医中将に話を聞いておられます。14:50~17:20防空壕、灰峯砲台を視察。19:15~21:20、海軍工廠に戻り夜業状況を視察。一式12㎝弾、対潜弾、電探妨碍弾、照明弾、コンクリート船、駆逐艦(輸送)木型、呂号第500潜水艦(元ドイツ海軍U-511)、多孔性エボナイトを見て回っておられます。23:50呉駅発。

翌20日の日記には次のように記されています。

一月二十日(木)晴

神戸。〇六〇四神戸着。神戸武官室(香港上海銀行)、朝食、説明キク。〇九〇〇~一一一〇川崎重工業ニテ「大鳳」ヲ見ル。一一二〇~一三一〇、三菱重工業ニテ海防艦建造状況ヲ見、昼食。一四〇〇~一五四五、日本油脂尼崎工場。一六二〇大阪水交社、夕食長官招待。一九〇〇大阪発。
[予定約束]〇六〇四神戸着。一九〇〇大阪発。

こういう慌ただしい行程だったので、甲子園ホテルでの宿泊・立ち寄りはされていません。
翌21日06:52品川に着かれ、入浴朝食の後09:00軍令部へ。09:45に御所へ上がられ復命(侍従申置)をされています。

2月15日には、朝に木戸幸一内大臣等の話を聞かれた後、10:00に軍令部へ。午前は戦備考査会議に出席。午後、高木惣吉海軍少将と海軍大臣・総長の進退の件について来談。その後、吉岡保貞川崎重工業専務取締役(海軍予備役中将)と航空母艦「大鳳」の完成を3月10日に繰り上げる話をされています。

「大鳳」は、艤装予定を約3か月短縮し3月7日に竣工。同日付で舞鶴鎮守府所属となっています。3月10日に第一航空戦隊に編入。同じ第一航空戦隊の航空母艦「翔鶴」「瑞鶴」などとともに、6月18日以降マリアナ沖海戦に参加します。そして6月19日、アメリカの潜水艦アルバコア(USS ALBACORE SS-218)が発射した魚雷により大爆発を起こして沈没しました。

6月19日の高松宮日記には、「大鳳」について次のように記されています。

「大鳳」〇八〇三、敵潜水艦ノ雷撃ヲウケ、「ヤップ」ノ北250′ニテ一四三〇沈。

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2021.04.13

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「ビール王」「ホテル王」と呼ばれた山本爲三郎
「夢のホテルのつくりかた」より。撮影:稲葉なおと
「夢のホテルのつくりかた」より。撮影:稲葉なおと

昨年12月22日に刊行された「夢のホテルのつくりかた」(稲葉なおと氏著・写真撮影)については、発行にあわせてこのHPで紹介しました(記事はこちら)。

本書では、38軒のホテルについて、事業主と設計者の絡みや熱い思いが興味深く語られ、一気に読ませてしまう内容となっています。

また、紙面を飾っている見事な写真は、著者自身が撮影したものであり、著者の並々ならぬ努力の賜物と言えるものです。なかでも、各ホテル記事の冒頭の見開き2頁には、各ホテルの特色を表す魅力的な写真が掲載されています。甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)では、バンケットホール(現・西ホール)が選ばれました。

稲葉氏は、「月刊ダンスビュウ」(モダン出版)に「名建築で踊ろう!」を連載されています。第8回として、2021年4月号に甲子園会館が取り上げられました。稲葉氏は「舞踏会場として撮影したいホールは? と訊かれたら、私は迷わず、西の帝国ホテルですと答えるだろう。」という文章で第8回を締め括っています。

ところで、「夢のホテルのつくりかた」の中に、気にかかる記述が1か所ありました。「大阪の繁栄を願う「ホテル王」は細部にまで指示を出し続けた」と題するコラムです。「ホテル王」とは、「ビール王」とも呼ばれていた朝日麦酒株式会社(現・アサヒビール株式会社)の初代社長・山本爲三郎のことです。爲三郎は、朝日麦酒株式会社の社長となった昭和24年(1949年)に新大阪ホテルの会長兼社長にも就任しています。その後、東京新大阪ホテルや新広島ホテルの社長、帝国ホテルの取締役など20数軒のホテルの要職を兼務することになります。このコラムでは、新大阪ホテルを継承した大阪ロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル大阪)について、設立に心血を注いだ爲三郎の豊富な逸話が語られています。

気にかかる記述というのは、「為三郎は3年後には甲子園ホテル(82頁)の社長にも就任。」という点です。朝日麦酒株式会社の社長に就任、あるいは新大阪ホテルの会長兼社長に就任した3年後、すなわち昭和27年(1952年)に甲子園ホテルの社長となったという点です。

甲子園会館にある資料では、株式会社甲子園ホテルは、昭和5年(1930年)2月12日に設立し、株主総会の決議により昭和19年(1944年)6月28日に解散とあります。

そこで、著者の稲葉氏にエビデンスについてお尋ねしたところ、直ちに「山本爲三郎翁傳」からと明解にお返事をいただきました。「山本爲三郎翁傳」というのは、山本爲三郎翁傳編纂委員会が編纂し、昭和45年(1970年)4月24日に朝日麦酒株式会社により発行されたものです。同書に、爲三郎が生前関係されていた諸会社・諸団体名が羅列されていますが、そこには甲子園ホテルの名前は見当たりません。しかし、「山本為三郎翁年譜」の表を見ると、確かに昭和27年2月28日、「㈱甲子園ホテル取締役社長に就任。」と明記されていました。

甲子園会館にある資料と「山本爲三郎翁傳」との整合性は確認できていません。しかし、山本爲三郎翁が甲子園ホテルの取締役社長に就任していたとすれば、甲子園ホテルに刻まれた最後のビッグネームとなるでしょう。

2021.04.06

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甲子園会館の春2021 その4 サクラが満開です
建築スタジオ屋上より甲子園会館を望む 4月1日
建築スタジオ屋上より甲子園会館を望む 4月1日
西ホール南西部を背景に 4月1日
西ホール南西部を背景に 4月1日

甲子園会館のいたる所でサクラが満開となりました。
今回は、サクラの映像を中心にお届けします。

サクラの花に一匹の蝶が止まっていました。「緋縅」(緋色の鎧)からその名をつけられ、花にはほとんど集まらないといわれるヒオドシチョウです。蜜を吸っていたのでしょうか。それとも、その名にふさわしく、戦国時代の武将のように風流を楽しんでいたのでしょうか。羽が少し傷んでいます。成虫で冬を越したのでしょう。

例年ソメイヨシノに遅れて花をつけるシダレザクラも咲き始めました。

南庭園より甲子園会館西ウィングを望む 4月1日
南庭園より甲子園会館西ウィングを望む 4月1日
南庭園より甲子園会館を望む 4月1日
南庭園より甲子園会館を望む 4月1日
南庭園池越しに見た甲子園会館 4月1日
南庭園池越しに見た甲子園会館 4月1日
西ホールから南庭園を眺める 4月1日
西ホールから南庭園を眺める 4月1日
サクラの花に羽を休めるヒオドシチョウ 3月26日
サクラの花に羽を休めるヒオドシチョウ 3月26日
咲き始めた南庭園のシダレザクラ 4月1日
咲き始めた南庭園のシダレザクラ 4月1日
甲子園会館北側では、ベニバナトキワマンサク(紅花常磐満作)、ユキヤナギ(雪柳)、サクラが重なって咲いています 3月26日
甲子園会館北側では、ベニバナトキワマンサク(紅花常磐満作)、ユキヤナギ(雪柳)、
サクラが重なって咲いています 3月26日
西ウィングを北側より望む 4月1日
西ウィングを北側より望む 4月1日
北側より見た甲子園会館 4月1日
北側より見た甲子園会館 4月1日

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2021.04.02

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喫茶付見学のご案内
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~甲子園ホテル想い出の味はいかがですか~

ホテル時代の想い出の味を皆様にと、当時のケーキを見学後に召し上がっていただく、喫茶付見学会を行っています。
シンプルで上品な味はどこか懐かしいと、とても評判です。たくさんの緑に囲まれ、いつもとはひとあじ違うティータイムをお過ごしください。
● 毎月1回の実施を予定しています。見学カレンダーでご確認ください。
● 約90分間の館内見学後、食堂にて喫茶していただきます。
● 個人、団体どちらも申込可能です。
● 飲み物とケーキ代として800円を頂戴します。

 

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鳴松会会員の皆様へ(同窓会利用のお知らせ)

甲子園会館では、鳴松会会員同窓会のご利用の場合に限り、施設使用料は無料です。
会館での同窓会をご希望の方は、鳴松会館までご連絡ください。詳しいご説明をさせていただきます。
当館利用に際しましては、駐車場は準備しておりませんので、交通機関は必ず、公共の交通機関のご利用をお願いします。
なお、冷暖房費については、別途頂戴いたします。

■鳴松会館 TEL.(0798)45-3538(直通)

 

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甲子園会館情報収集について

甲子園会館では、当館に関する情報を集めています。ホテル当時やその他会館に関する写真や資料をお持ちの方、また、お話を聞かせていただける方がいらっしゃいましたら、甲子園会館庶務課 TEL.(0798)67-0079(直通)までご連絡ください。

 

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過去の記事は下記のプルダウンより、年度別でご紹介しております。